右半身の叫び
誤字があったので修正しました。
アパートのリビングで、リリーはソファーに深々と身を沈めている。
彼女の瞳は焦点が定まらず、膝の上に広げたままの専門誌を閉じると大きく息を吐いた。
彼女はインテリアメーカーで働いているが、ここ最近は分厚い布の裁断作業で立ちっぱなしになっている時間が増えたのだ。
加えて、アパートから会社までの道のりには起伏に富んだ坂道が多く、毎日その坂を上り下りしている。
その疲労は右半身に集中して現れていた。
「最近、お尻の右半分と太ももがずっと痛いの。立ち仕事のせいか、坂道のせいか……多分両方だわ。」
「リリー、大丈夫なの?」
ローテーブルの上で大学の専門書を広げていたラベンダーは、顔を上げて心配そうにリリーを見た。
物事を見透かすような灰色の瞳が優しく細められる。
「それって絶対疲れが溜まりすぎてるサインよ。立ちっぱなしで布の裁断って、片足に重心が偏りがちになるでしょ。それに、あの通勤路の坂道はアスリートでもキツいって。」
ラベンダーはテキパキと立ち上がり、リリーのマグカップを手に取ってキッチンに向かった。
「紅茶淹れるから待ってて。明日は仕事休めないの?」
「無理よ。来週納期の特注品の裁断がまだ残ってるの。私は布の癖を見抜くのが得意だから、誰も代わりがいないってトムが……」
トムはリリーの指導係の先輩である。
彼は若くて聡明で優しい上に強烈にハンサムな顔立ちで、リリーの真面目な仕事ぶりを見ていつも気にかけてくれるのだ。
ラベンダーは湯気の立つマグカップをリリーに手渡し、彼女の右隣に座った。
「あのね、リリー。あなたの仕事ぶりは本当にすごいけど、もう少し自分の体を大切にしなきゃダメよ。」
「いいの。明日さえ乗り切れば、週末はゆっくりできるから。」
翌日の午前9時。
会社の裁断テーブルの前で、リリーは作業着の長袖を捲り上げていた。
ミシンやカッティングマシンの騒音が絶えず響いている。
裁断部門の年配の同僚で、口の悪いジャックが彼女を見るなりニヤニヤ笑った。
リリーは幼い顔立ちと話し方故にジャックの可愛がりの混じったからかいの対象になる事が多く、彼は悪い人ではないと承知しているのだがその度に完璧な仕事をこなす事で自分を証明しようと人一倍頑張ってしまうのだ。
「おやおや、リリーちゃんじゃねえか。朝から顔が青いぞ? 昨夜は宿題でもあったのかい?」
「ジャックさん、私は26歳ですってば。それに今日はいつも通り元気ですよ。」
「へいへい、今日も頑張れ。その細っこい体で大きな布を扱うなんて、見てるこっちがハラハラするぜ。」
リリーの目の前には、注文の入ったソファー用のベルベット生地のロールが横たわっている。
深く鮮やかなターコイズブルーの生地はリリーがデザインに携わったものだ。
リリーは巨大な定規とチョークを使い、布の上に正確なラインを引いた。
「よし、寸法はこれで完璧♪」
その後、電動のカッターを手にする。
この作業は全身の体重を均等に乗せ、カッターを滑らせる為の集中力と体幹が必要とされる。
しかし、彼女の右半身は既に悲鳴を上げていた。
昼食後に再び裁断台の前に立ち、何メートルも続く生地の端から端までを正確に測り、立ったり屈んだりを繰り返しているうちに痛みが増していったのだ。
カッターを持つ手が無意識に震えそうになるのを、リリーは必死に抑え込んだ。
「リリー、ちょっと休憩したらどうだ? 顔色が悪いぞ。」
隣の作業台で革製品の型抜きをしていたトムが心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫です、トム。あとはこのラインだけ……」
リリーは作り笑いを浮かべ、痛みを無視するようにターコイズブルーの布の裁断を続けた。
カッターが滑らかに進む度に、美しい布がデザイン通りに形になっていく。
その瞬間だけは痛みを忘れて満足感に満たされる。
だが、集中して生地を切り進めていたその瞬間に鋭い激痛が走り、リリーは思わず手を離してしまった。
トムが慌てて駆け寄ってくる。
「っ……!」
「無理しすぎだ! この作業は俺達が引き継ぐから、すぐに病院へ行くか、タクシーで帰宅して横になってくれ。」
「でも、トム。急な仕事が……」
「後の事は俺と皆で何とかするから心配するな。」
トムの強い眼差しにリリーは素直に従うしかないと悟り、痛みで意識が半ば朦朧とする中、深々と頭を下げた。
トムはリリーの肩を支えて一旦休憩室へと促し、戻るなりジャックに告げた。
「ジャック、悪いがリリーの作業を引き継いでくれ。彼女は早退した方が良さそうだ。」
周囲の同僚達はリリーが本当に深刻な状態なのだと初めて悟り、辺りが静まり返っていく。
トムに心配をかけて仕事を中断してしまった事を申し訳なく思いながら早退してアパートに戻ると、ラベンダーが授業を休んで待っていてくれた。
「おかえり、リリー! トムから連絡もらったわよ。やっぱり無理してたんでしょ。」
ラベンダーの口調は少しキツかったが、その端々には優しさが見え隠れしていた。
「トムったら余計な事を……でも、もう今日は立ってられないわ。ラベンダー、ご飯は?」
「大丈夫。温かいスープを作ってあるけど、まずはこれよ。」
ラベンダーは自分の大学で使っているというヨガマットを床に敷いてリリーをうつ伏せに寝かせた。
それから真顔でリリーのジーンズを下げさせ、ユーカリのエッセンシャルオイルを患部に丁寧に塗っていく。
ラベンダーの手は優しく、しかし的確に凝り固まったリリーの尻と太ももの裏の筋肉を探り当てた。
温かいユーカリのオイルが肌に染み込み、心地よい香りがリリーの鼻腔を満たす。
「ここが一番痛いでしょ?」
「……んー、そこ。そこよ、ラベンダー。痛いけど、効いてる……」
ラベンダーは快活な笑顔を浮かべ、しっかりとマッサージを続けた。
「ねえ、リリー。仕事は大事だけど、あなたの体はもっと大事よ。あなたはまだ26歳で、これからも長く働かなきゃいけないんだから。明日からはちょっとでも痛いと思ったら誰かに頼んで。幼い顔立ちでいじられようと、あなたの実力は私もトムも分かってるんだから。」
ラベンダーの温かい手と心強い言葉、そしてユーカリの優しい香りがリリーの体から少しずつ激痛と疲労と緊張を溶かしていく。
リリーはソファーに顔を埋めたまま小さく「ありがとう」と呟いた。
「もう一度言う?」
「ありがとう、ラベンダー。」
「どういたしまして。さ、マッサージが終わったら、温かいスープよ。明日から少しでも楽になりますように。」
リリーは目を閉じ、ラベンダーの温かい手に身を委ねる。
ロンドンの寒い夜は2人の友情と、ユーカリの香りに満ちていた。




