リリーの初めての抜歯
リリーはリビングのソファーの上で小さく丸くなっていた。
午後に病院で右下の親知らずを抜歯する事になっており、彼女の顔は不安でいっぱいの表情を隠しきれていない。
「ねえ、ラベンダー。本当に、抜かなきゃダメかな?」
リリーの言葉に、ラベンダーは大学のテキストから顔を上げた。
「リリー、もう先生に『横向きに生えてて、このままだと他の歯に影響が出るから』って言われたんでしょ? それに、今日予約取ったのはあなたなのよ。」
「そうだけど……」
リリーがこんなにも不安がっているのには他にも理由があった。
「パパがね、昔親知らずを抜いた時の話をしてくれたの。横向きに生えてたのを抜いたら、たった数秒で頬が膨らむぐらい血がいっぱい出て、しかも1週間、痛み止めが全然効かなくて仕事もろくに手につかなかったって……」
リリーは父親の壮絶な体験談を思い出して身震いした。
自分の幼い体でそんな出血や痛みに耐えられる気がしなかったのだ。
「私、今週末に大事なプレゼンの準備もしなきゃいけないのに。1週間も無駄になるのなんて嫌だよ……」
「リリーのパパはね、多分運が悪かっただけなのよ。それに今の医学は進んでるし、私が抜歯した時も大した事にならなかったから。ね?」
ラベンダーは優しくリリーの隣に座り、その華奢な肩をポンと叩いた。
そして午後。
リリーは緊張で手足が冷たくなるのを感じながら、歯科医院の診療台に座っていた。
リリーの右下の親知らずは、父親の遺伝もあって厄介な横向きに生えている。
年配の男性医師は慣れた手つきで麻酔を施し、やがてゴリゴリという鈍い音と共に抜歯作業が始まった。
他に聞こえるのは機械の甲高い音と、医師や看護師の静かな会話だけだ。
リリーは目を閉じ、数秒後に頬が膨らむほどの出血が始まるのを覚悟したのだが……。
「はい、終わりましたよ。お疲れ様でした。」
医師の声と共に、リリーはそっと目を開けた。
口の中にはガーゼが詰められている。
恐る恐る鏡を見ると、確かに少しは腫れているものの頬が破裂しそうなほどに膨らんでいるわけではなく、血の味はほとんど感じない。
「あの……血はそんなに出てないんでしょうか?」
「ええ、とても綺麗に抜けました。少し出血はありますが、今はガーゼでしっかり止血しています。横向きでしたが、リリーさんの骨が柔らかかったおかげですね。心配されていたような大出血ではありませんよ。」
医師の言葉に、リリーは拍子抜けしたと同時に心の底から安堵した。
その夜、抜歯した箇所はズキズキと痛んだが、処方された鎮痛剤を飲むとすぐに和らいだ。
ラベンダーが作ってくれた柔らかいお粥を少しだけ口にする。
「ほら、言ったでしょう? パパのエピソードは昔の話よ。」
「うん……出血も少ないし、今のところ痛み止めを飲めば平気かも。」
翌日、リリーは会社を休んで自宅で安静にする事にした。
痛みは残っているものの、まだ我慢できる程度だ。
ラベンダーに作ってもらった卵入りのお粥を食べて鎮痛剤を飲むと、効いている時間が心なしか昨日より長くなっている気がした。
腫れも、ラベンダーが冷やしてくれたおかげか予想より早く引き始めている。
そのまた翌日、リリーは鏡を見て驚いた。
腫れはほとんど目立たなくなっており、何より鎮痛剤を飲まなくてもほとんど痛まない事に気付いたのだ。
朝食の準備をしながらラベンダーが尋ねた。
「リリー、薬を飲まなくて大丈夫なの?」
「今気付いたんだけど、痛み止めはもういらないかもしれないわ。」
ラベンダーは目を丸くした後、すぐに破顔した。
「ほらね、大丈夫だったでしょ。良かったわね、リリー! これでプレゼンの準備ができるわね。」
「うん! 私の方が早く治ったってパパに自慢しようかな♪」
恐ろしいエピソードに縛られていたリリーの心が解き放たれ、彼女はすっかり元気を取り戻した。
父親が経験した「地獄の1週間」は、リリーにとっては「平穏な2日間」で終わったのだ。
不安に震えていた数日前の自分を笑いながら、リリーは残りの親知らずを抜く恐怖が和らいだのだった。




