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夢を禁止されたので、物語が書けません

作者: 妙原奇天

 最初に売り出されたときのキャッチコピーは、こうだった。


 ――「もう、眠らなくていい。」


 それだけだ。短くて、強くて、わかりやすい。

 テレビでその広告を見たとき、佐久間は、これなら辞書にも載せていいくらいのコピーだな、とぼんやり思った。


 薬の名前は「ドリームレス・ピル」。略して「ドリピル」。

 大手製薬会社とIT企業が共同開発した、世界初の「睡眠不要化薬」だった。


 飲めば、眠気が消える。

 眠らなくても、身体にも脳にも、目に見える悪影響は出ない。

 疲労物質とされるいくつかの物質を分解する分子機構がどうこう、覚醒レベルを維持しつつ脳内の情報整理を代替するナントカ――詳しいことは、ニュース番組の医者が早口で説明していた。


 要するに、八時間眠っていたぶんを丸ごと起きていられる。

 ただそれだけのことが、世界をひっくり返した。


   ◇


 発売から一週間もたたないうちに、会社のオフィスは夜でもほとんど満席になった。


 ずらりと並んだデスクのあいだを、ビル清掃のロボットがすり抜けていく。

 終電を気にして帰っていた同僚たちは、「今日は夜勤モードで」と言って、わざわざ二十四時間営業フロアに机を移した。


 編集部の進行表は、目に見えて詰まっていく。

 遅れていた辞書の改訂作業も、年を越す前に終わりそうだと部長が笑った。


 社員食堂は、二十四時間営業になった。

 夜中の二時にカレーの匂いが漂い、朝の五時にラーメンの列ができ、昼の十二時にだけ、少しだけ席が空いた。


 眠らない編集者たちは、眠らないライターから原稿を受け取り、眠らないデザイナーが眠らない印刷工場にデータを送り、眠らない運転手が眠らない倉庫へ運ぶ。

 世の中は全体として、少しだけ速く回りはじめた。


 少しだけ、のはずだった。


   ◇


 佐久間は、薬を飲めなかった。


 理由は簡単で、持病の関係で、主治医からきつく禁止されていたからだ。


「あなたの肝臓だとね、代謝しきれない可能性が高い。臓器は交換がきかないんだから」


 主治医はカルテをめくりながら、そう淡々と言った。


「それに、眠るってのは、悪いことばかりじゃないよ。夢を見るのは、頭の掃除でもあるんだ」


「でも、みんな飲んでますよ」


「みんながやってるからって、君までやらなくていい。言葉を扱う仕事なら、なおさらだよ」


 その一言で、彼はあきらめた。

 周囲の同僚たちが、嬉々として「ドリピル始めました」と報告するのを聞きながら、佐久間はひとり、昔ながらの眠気覚ましの缶コーヒーを啜り続けた。


 佐久間の仕事は、出版社の辞書編集部で「新しい言葉」を集めることだ。


 ネットの書き込みや、人気ドラマの台詞、流行りの歌の歌詞。

 それらを片っ端からチェックして、辞書に載せるべき言葉かどうかを判断する。

 業界では「ことば拾い」と呼ばれる地味な作業だ。


 眠られない夜に、延々と画面をスクロールし続ける。

 誰かの冗談が、明日の国語の教科書の注釈になるかもしれない。

 そう思うと、夜更かしもすこしは意味のあることのように思えた。


 ただ、眠らない夜は、いつもひとりきりだった。


 まわりの机では、同僚がドリピルのおかげで二十四時間体制で働き、仕事が終われば会社の仮眠スペースで横になる。

 横になるが、眠る必要はない。ただ目を瞑り、音楽を聴き、映画を一本見終わる。

 仮眠スペースにもテレビが入り、ゲーム機も入り、人々は「休むけれど眠らない」時間を上手に使いこなしはじめた。


 佐久間だけが、相変わらず夜の二時に欠伸を噛み殺し、三時に耐え切れずにフロアの端のソファに倒れ込む。

 朝七時に目が覚めると、すでに同僚たちは新しい企画会議をはじめていた。


 遅れている、という感覚は、彼の胸に毎日少しずつ積もっていった。


   ◇


 最初の変化は、意外なところから現れた。


 毎週月曜日に届く「新語リスト」の枚数が、少しずつ減り始めたのだ。


 全国に散らばるモニター会員たちが、新しい言い回しや流行語を報告してくれる仕組みがある。

 かつては一週間で数百件の報告があり、その中から厳選するのが編集部の仕事だった。


 それが、ドリピルが出て数ヶ月したところで、半分になった。

 半年後には、さらに半分になった。


 部長は、ペラペラになったリストをめくりながら首をかしげた。


「ネットスラングは相変わらず多いんだがなあ。いわゆる新語、新表現は、今年に入ってぐっと減ってる」


「たまたまじゃないですか」


 若手の編集者が笑って言う。


「もう、言い尽くしたんですよ。ネタ切れですよ言葉の。

 あとは古い言葉を掘り起こして使い回す時代なんじゃないですか」


 そのときは、冗談として聞き流された。

 しかし佐久間は、リストの端の統計をじっと眺め続けた。


 報告者の年齢、職業、居住地。

 ドリピルの普及率と、新語の発生率を重ねてグラフにすると、不思議と綺麗な逆相関を描いた。


 ドリピルの服用率が八割を越えた都市部から、まず新語が消えていた。


   ◇


「最近さあ、夢見なくなったんだよね」


 夕方、社内カフェで同僚の作家志望社員がそうぼやいた。

 彼は昼間は辞書編集を手伝い、夜は小説を書くという生活を続けていた。


「眠ってないからじゃないですか」


「いや、横になって目をつぶる時間はあるんだよ。ドリピル飲んでても、仮眠するくらいはしたほうがいいって医者も言ってるし。

 でもさ、そのときに、何も浮かばないんだ」


「何も?」


「真っ暗。前はさ、夢の中に変な街が出てきたり、変な生き物が出てきたりしたんだけど。

 最近は、昼間に見たニュースの再放送が、解像度低くなって流れてるだけ。

 それをネタに小説書くと、どうしても似たような話になるんだよね」


 彼は、カップの底に残ったコーヒーをぐるぐるとかき混ぜた。


「新しい話が、浮かばないんだよ。なんか、もう世界が全部出尽くしましたって顔してる」


「締め切りに追われすぎてるだけじゃないですか」


「そうだといいんだけどね」


 その翌週、彼は会社を辞めた。

 ネットにあげていた小説の新作も、それきり更新されていない。


 佐久間は、彼の最後の短編を読み返した。

 確かに、どこかで読んだような設定で、どこかで見たような会話ばかりだった。


 面白くないわけではない。ただ、「こういう話だろうな」という予想を一歩も超えない。

 それは、ドリピルが出る前に彼が書いていた作品とは、まるで違っていた。


   ◇


 イラストレーターの友人、美咲からも、似たような話を聞いた。


「資料がないと描けないのよ」


 彼女はオンライン会議のカメラ越しに、苦笑いしてみせた。


「前はさ、依頼が来ても『こんな感じで』って言われたら、だいたい頭の中で組み立ててさ。

 ポーズとか、背景とか、衣装とか、想像して描けたわけ。

 でも今は、クライアントから参考画像をもらって、それを元に組み合わせるだけ」


「それは、効率化ってやつじゃないですか」


「まあ、そうなんだけどね。でもさ、効率化って、想像力の死骸の上に立ってる気がするのよ」


「大げさですね」


「大げさじゃないって。最近、子どものころに描いてた変な落書き、まったく思い出せないの。

 夢で見た変な怪物とか、変な町並みとか、そういうのがぜんぶ、『資料がないから描かない』に上書きされてる感じ」


 彼女は「ちなみに」と前置きしてから続けた。


「ドリピル飲むようになってから、夢を見た記憶がない。

 薄暗い部屋で、薄暗い壁を見てるだけ。夢の中でも仕事してる気分」


「夢の話を聞く仕事じゃなくて、よかったですよ」


 佐久間は冗談めかして言った。


 だが、彼女は笑わなかった。


   ◇


 やがて科学誌が、一つの論文を取り上げて騒ぎ始めた。


 ドリピルの長期服用者と非服用者を十年追跡した、地方大学の研究結果だ。


 論文は、こう結論づけていた。


 ――ドリームレス・ピルの服用により、夢見睡眠(いわゆるレム睡眠)はほぼ完全に消失する。

 短期的には大きな健康被害は認められないが、五年を過ぎたあたりから、「想像力テスト」の成績が有意に低下する。


 「想像力テスト」とは、ありふれた物体の用法をどれだけ多く思いつけるか、というものだった。


 たとえば、新聞紙。


 敷く、包む、丸める、振り回す、折る、燃やす、濾す、拭く。

 そういった答えを、時間内にどれだけたくさん出せるか。


 ドリピル服用者の多くは、「読む」「捨てる」の二つで止まってしまったらしい。


 論文の著者は、慎重な言葉を選びながら書いていた。


 ――夢見睡眠には、既存の情報を変形し、新しい組み合わせを試す「シミュレーション機能」があると考えられている。

 それを失うことは、「目を開けたまま夢を見る」能力、すなわち想像力を、徐々に蝕むかもしれない。


 ニュース番組のコメンテーターは、「でも経済は絶好調ですからね」と笑って話をそらした。

 多数の視聴者は、その笑いに安心し、その日の夜も決まった時間にドリピルを飲んだ。


 眠らない社会にとって、夢の価値は低かった。


   ◇


 変化は、気づくとあちこちに出ていた。


 お笑い番組のネタは、過去の人気企画の焼き直しばかりになり、新しいコンビは出てこなくなった。


 人気歌手の新曲は、どれも似たようなメロディーラインで、「愛してる」と「ありがとう」と「君だけ」が少し順番を変えて並んでいるだけだった。


 子ども向けアニメの新キャラクターは、旧作のキャラクターの色違いにしか見えなかった。

 ネット上には、「どこかで見た気がする」という感想が溢れ、それに対して誰も反論しなかった。


 役所の書類は、妙に単純な日本語で書き直されていた。


 「ご不便をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いします」

 という定型文が、あらゆる場面に使い回された。


 それはそれでわかりやすくていい、と多くの人は言った。

 ただ、そこに含まれていたはずの、わずかなニュアンスや言い訳めいた言い回しが、丸ごとそぎ落とされていった。


 佐久間は、辞書の改訂作業をしながら、妙な違和感を覚え続けた。


 廃止予定の見出し語が、急に増え始めたのだ。


 「机上の空論」

 「取り越し苦労」

「捕らぬ狸の皮算用」

 「雲をつかむよう」


 そういった言葉の横に、調査部のメモがついている。


 ――使用頻度低下。一般話者の理解率、五割未満。廃止推奨。


 かわりに増えていくのは、「やる」「やめる」「いい」「わるい」といった、短い言葉だった。


 ややこしい例文を、誰も書けなくなっていた。


   ◇


「最近の学生さ、反論しないのよ」


 大学で教えている知人の教授が、飲み会で愚痴をこぼした。


「ちょっと前まではね、講義のたびに『でも先生、それってこうじゃないですか』って食い下がってくる子がいたわけ。

 議論が白熱して、一コマ全部それに使う日もあった」


「それはそれで大変そうですけど」


「大変だけど、あれが楽しかったのよ。『これが学問だ』って感じがして。

 でも今の子たちは、真面目にノート取って、試験のときにはちゃんと覚えてるの。

 ただね、『どう思う?』って聞いたら、『先生はどう思うんですか』って返してくる」


「安全な答えを選ぶんですね」


「そう。間違えたくないんだろうね。

 あとは、『そんなこと考えたことありません』って笑って言う子も多いよ。

 興味がないというより、『考えるって何ですか?』って顔をする」


 教授はグラスを空けた。


「ドリピル飲んでる?」


「ええ、まあ。研究もあるしね」


「夢は見ます?」


「覚えてないなあ。見なくても平気になりましたよ」


 その表情は、不思議と晴れやかだった。

 悩みが減ったのだから当然かもしれない。

 悩むとは、つまり想像力の副作用でもある。


   ◇


 政府は、ついに重い腰をあげた。


 「ドリームレス・ピル長期服用者における認知機能低下の可能性について」という、長いタイトルの報告書が公表されたのだ。


 要約すると、こうだ。


 ――五年以上の連続服用者において、「将来のことを考える」「他人の立場を想像する」「もしもを仮定する」といった能力が、有意に低下している可能性がある。


 将来計画を立てられない。

 他人の気持ちを想像して行動できない。

 「もしも失敗したら」というリスクを思い浮かべない。


 代わりに、「今やるべきこと」をていねいに繰り返す能力は、むしろ高いままだった。


 報告書は、最後にこう締めくくっていた。


 ――夢見睡眠の喪失が、いわゆる「高次の想像力」に影響している可能性は否定できない。

 しかし現時点で、因果関係を決定づける証拠は不十分である。


 テレビでは、またコメンテーターが笑ってみせた。


「でもねえ、経済はこれで何年も右肩上がりですから。現役世代からドリピルを取り上げろ、なんて、そんな乱暴な政策は取れませんよ。

 『考える力が落ちるかもしれない代わりに、生活が豊かになる』と言われたら、多くの人はそちらを選ぶでしょう」


 実際、その通りだった。


 製薬会社の声明も、よく練られていた。


「ドリームレス・ピルは、適切な医師の指導のもとでご使用いただく安全な薬です。

 また、想像力の低下との因果関係は証明されておりません。

 社会の生産性向上に寄与していることは、多くのデータから明らかです」


 人々は、その言葉に安心し、今夜も決まった時間に錠剤を水で流し込んだ。


 その決断に、想像力は必要なかった。


   ◇


 ある日、会社の廊下で、総務の女性とすれ違った。


 彼女は以前、よく「変な夢を見たんですよ」と話しかけてきた人だった。

 空を泳ぐ金魚に追いかけられたとか、ペンギンが電車を運転していたとか、夢はいつも支離滅裂で、話を聞くだけで楽しかった。


「最近、夢の話をしませんね」と、ふと佐久間は口にした。


 彼女は首をかしげた。


「夢? なんですかそれ」


「寝てるときに見る、変な映像のことですよ」


「ああ……。見ないですね。ずっと」


「前は、よく話してくれましたけど」


「そうでしたっけ」


 彼女は、思い出そうとするように少しだけ目を細め、それからあっさりと笑った。


「まあ、昔のことは覚えてません。今やることがたくさんあるので」


 そう言って、書類の束を抱え直し、足早に去っていった。


 その背中を見送りながら、佐久間は、胸の奥に小さな穴が開いたような感覚を覚えた。


 夢が消えたということは、その人の「余白」が消えたということだ。

 余白が消えた人間は、必要な線だけを引いて生きていく。

 そこに、絵はもう描かれない。


   ◇


 辞書編集部の会議でも、「廃止候補のことわざ」の話題が出た。


「『寝る間も惜しんで』って表現、今どき使われませんね」


 若手が指摘する。


「そりゃあ、寝る間を惜しむ必要がないですからね。『眠らなくていい』んだから」


「『寝耳に水』とかも、もうピンとこないみたいですよ。アンケートで、『耳に水ってどういう状況ですか』って書いてくる人がいて」


 部長は苦笑いを浮かべた。


「『夢を見る』って言葉も、意味が変わってきているな。

 昔は、眠っているときに見るものだったが、今はもう、『将来の目標』のほうでしか使われない」


「その『将来の目標』も、あまり聞かなくなりましたね」


 誰かがぼそりと言った。


 会議室に、短い沈黙が落ちる。


 将来を思い描くことも、想像力の一種だ。

 将来というのは、夢の延長線上にある。


 夢を見ない人々は、「今ある仕事をこなす」ことには熱心だった。

 しかし、「十年後に何をしていたいか」と聞かれると、多くは答えに詰まった。


「会社にいれば、仕事がありますから」と彼らは言った。

 それ以上は、考えなくてよかった。


   ◇


 ふと気づくと、世界のニュースも、妙に単調になっていた。


 株価は高止まりしたまま、微妙な上下を繰り返している。

 大きな発明や、画期的な新商品は、なかなか出てこなくなった。


 特許庁の統計によれば、「既存技術の組み合わせ」を除いたまったく新しいタイプの特許は、年々減少していた。

 かわりに、「既存システムの効率化」や「既存手法の最適化」に関する特許が、山のように積み上がっていく。


 建物のデザインは、どれも似たようなガラス張りの四角い箱になり、街の看板は読みやすさだけを追求したフォントで埋め尽くされた。

 交通網は滑らかに動いていたが、新しい路線は十年以上開通していない。


 戦争も、大きなものは起きなかった。


 誰も新しい兵器を発明しなくなり、誰も複雑な戦略を立てられなくなった。

 国同士の対立はあっても、それをエスカレートさせる想像力がなかった。


 一見すると、悪くない世界だった。

 大災害も、大きな経済危機も、目立ったテロ事件もない。

 あるのは、落ち着いた日常と、ほどほどの不満だけだ。


 ただ、その日常が、昨日と今日と明日で、まったく同じ形のまま固まっていることに、気づく人は少なかった。


 固まった時計の針は、止まっているのではない。

 「ちょうどいいところで固定されている」のだ。


   ◇


 佐久間は、夜になるとひとり、自分の夢をノートに書き留めるようになった。


 黄色いカバーの、大学ノートだ。

 そこには、支離滅裂な光景が並んでいた。


 空を泳ぐ駅ビル。

 向こうから歩いてくる自分とすれ違った路地。

 机の中から生えてきた小さな森。

 辞書のページが羽になって飛び立つ図書館。


 読み返せば読むほど、意味がわからなくなる。

 だが、それがいいのだと彼は思った。


 意味のないものが頭の中に出現し、それが勝手に動き回る。

 それを眺めていると、ときどき、昼間のアイデアに結びつくことがある。


 たとえば、辞書の見出し語の並べ方を少し変えてみることで、読者の頭の中に新しい連想が生まれるのではないか。

 たとえば、「夢」という見出し語に、「眠らない人々にとっては、過去形の概念」という注釈をつけてみるのはどうか。


 そんなことを考えていると、少しだけ楽しくなった。


 夢を見ることは、才能でも何でもない。

 ただ眠っていれば、勝手に始まる現象だ。


 だが、「眠らない薬」が普及した社会では、その当たり前の現象が、少数派の特権になりつつあった。


   ◇


 やがて、妙な現象が報じられ始めた。


 自動運転システムの事故が、急に増えたのだ。


 原因は、ソフトウェアのバグでも、センサーの故障でもなかった。

 「想定外の状況」に対するディレクションが、まったく更新されていなかったのである。


 工場の生産ラインでも同じようなことが起きた。


 異常値が出ても、担当者がマニュアルにない対応を思いつかず、ただ「異常値が出ています」と報告するだけ。

 報告を受けた管理者も、マニュアルに載っていない事態に対して決断ができず、そのまま放置される。

 やがて、ラインが停止した。


 「想定内」のことには、誰もが完璧に対処できた。

 だが、「想定外」のことが起きたとき、それを「想定してみる」ことができる人間が、ほとんどいなくなっていた。


 そのころには、ドリピルの服用率は九割を超えていた。


 残りの一割は、佐久間のように医師から禁止されている者、宗教上の理由で服用を拒む者、なんとなく怖くて飲まなかった者たちだった。


 彼らは、いつの間にか「夢を見る人々」というラベルでひとまとめにされていた。


 ニュース番組は、彼らを「オールドタイプ」と呼び、「時代に取り残された人々」として扱うこともあった。


   ◇


 ある日、政府から、「夢見者カウンシル」への参加要請が届いた。


 そこには、「非服用者の視点から、社会のリスクに関する意見を求めたい」と書かれていた。


「ずいぶん他力本願になりましたね」


 佐久間は苦笑した。


 だが、断る理由もなかった。


 会議室には、十数人の「夢を見る人々」が集められていた。

 元エンジニア、元小学校教師、現役の僧侶、農家の夫婦。

 彼らは、どこか共通した「疲れた顔」をしていた。


 司会役の官僚は、滑らかな口調で説明した。


「皆さんには、ドリームレス・ピルの長期服用が社会にもたらす影響について、忌憚のない意見をいただきたいと思います。

 我々としても、慎重な検討が必要であると考えておりまして……」


 その官僚も、ドリピルを飲んでいるのだろう。

 彼の言葉は、どこか教科書的で、起伏がなかった。


「正直に言いましょう」


 僧侶が、遠慮なく口を開いた。


「村ではね、葬式が減りました。人が死なないわけではないが、亡くなっても『簡素に済ませてください』という家が増えた。

 故人の人生を振り返って、あれこれと語る人も減った。

 みんな、『時間がない』と言う」


「時間なら、たっぷりあるんじゃないですかね」


 農家の男が、苦笑まじりに言った。


「一日二十四時間、起きて働けるんだろう? だったら、ひとつくらい葬式に使っても罰は当たらん。

 でも、みんな、『仕事がある』の一言で来なくなった。

 誰も、『この人がいなくなったら寂しい』と口にしなくなった」


 小学校教師だった女性が続けた。


「子どもたちに、『将来の夢は?』と聞くとね、『働くことです』って答える子が増えたんです。

 前は、『ケーキ屋さん』とか『宇宙飛行士』とか、『なんとかになりたい』って具体的に言ってた。

 でも今は、『働いてお金をもらうこと』そのものが目的になってる」


「それは、悪いことなんですか?」


 官僚が、マニュアルに沿った質問をする。


「悪いとまでは言いません。ただね、『働く』ってのは、『何かをするための手段』だったはずなんですよ。

 『誰かを笑顔にしたい』とか、『面白いものを作りたい』とか。

 その『ため』の部分が、すっぽり抜け落ちている」


 佐久間も、口を開いた。


「言葉の使われ方でいうと、『なぜ』という問いが減っています」


「なぜ?」


 官僚が、反射的に聞き返す。


「それです」


 佐久間は、苦笑しながら続けた。


「『なぜ』と聞いてくる人が減っている。

 『どうやって』と『いくらで』は聞かれるんですが、『なぜそうするのか』は、誰も気にしない。

 辞書の用例を集めていると、その変化がはっきりわかります」


 会議室に、重い沈黙が流れた。


 官僚は、手元のタブレットに何かをメモしている。

 彼のメモが、どこかの報告書の片隅に、「参考意見」として載るのだろう。


 その報告書を読む人間が、どれだけいるのかはわからなかった。


   ◇


 時間は、黙って過ぎていった。


 ドリピル服用者たちは、「もう悩まなくていい」世界にすっかり慣れきっていた。


 新しいアイデアを思いつかなくても、既存の仕事は山ほどあった。

 誰かが作ったシステムを維持し、誰かが決めたルールに従い、誰かが書いたマニュアルに沿って行動する。


 その「誰か」が、だんだんといなくなっていることに、彼らは気づかなかった。


 少数派の「夢を見る人々」は、最初こそ危機感を抱いていた。


 しかし、彼らもまた、年齢を重ねる。

 新しい世代の子どもたちは、生まれたときからドリピルの存在を当然のものとして受け入れていた。


 ドリピルは、やがて、母子手帳の注意事項に「推奨」として書き込まれるようになった。


 ――産後の疲労回復と育児の両立のため、主治医と相談のうえ、ドリームレス・ピルの使用をご検討ください。


 授乳中の母親がドリピルを飲めば、その成分の一部は母乳を通じて赤ん坊にも届く。

 それでも、「赤ん坊に副作用は認められませんでした」と、長期追跡研究の論文は書いている。


 その論文を書いた研究者が、ドリピル服用者であることに、誰も疑問を挟まなかった。


   ◇


 世界は、ゆっくりと、しかし確実に、考えることをやめていった。


 政治は、過去のデータを元にしたアルゴリズムに丸投げされた。

 投票率は下がり続けたが、「アルゴリズムは公平である」という前提のもと、誰もそれを問題視しなかった。


 芸術は、「過去の名作の組み合わせ」という形で量産された。

 新しい絵画展の評価は、「何々風で安心して見られる」という一言で語られた。

 誰も、見たことのないものを見たいとは言わなくなった。


 科学は、「実用性のある研究」に予算が集中した。

 宇宙の起源や、意識の本質といった問いは、「役に立たない」という理由で、研究室から追い出された。


 哲学は、完全に不要なものとして笑われた。

 「考えても無駄なことを考える仕事」と定義されたのだ。


 辞書は、薄くなっていった。


 廃止された言葉のリストは日々伸びていき、新しい言葉は、ほとんど増えなくなった。

 佐久間のデスクの上には、「削除候補語」の山が積み上がっていた。


 それを前にして、彼はペンを持ったまま動けなくなる日が増えた。


 この言葉を辞書から消すということは、この世界からひとつ、考え方を消すということだ。

 そう思うと、判子を押す手が震えた。


 しかし、辞書は現実を記録する本であって、理想を語る本ではない。

 誰も使わなくなった言葉を残しておくのは、編集者の自己満足にすぎない。


 それもまた、事実だった。


   ◇


 ある夜、佐久間は、奇妙な夢を見た。


 巨大な辞書のページの上を、人々が行列を作って歩いている。

 ページには、びっしりと言葉が並んでいる。

 しかし、人々の足跡がついたところから、文字がひとつずつ消えていく。


 やがて、ページは真っ白になった。

 それでも人々は歩き続ける。

 文字のないページの上を、何のためかもわからず、ただ前へ前へと。


 夢の中で、佐久間は叫んだ。


「待ってくれ。そこには、まだ読んでいない言葉が」


 だが、人々は振り向かなかった。

 彼の声は、空気の中で形を失い、意味を持つ前に霧散した。


 目が覚めると、喉がひどく乾いていた。

 ベッドサイドのノートを開き、彼は震える手で夢の内容を書き留めようとした。


 しかし、「行列」と書こうとして、「ぎょうれつ」の漢字が一瞬出てこなかった。


 ぎょう。

 れつ。

 行と列。


 頭の中で、バラバラに思い浮かんだそれらを、ほとんど力ずくで掴み取るようにして、ペン先に繋いだ。


 ――行列。


 書きながら、ひどく嫌な汗が滲んだ。


 彼は、ドリピルを飲んでいない。

 それでも、世界中が「考えない」という方向に動いていく中で、少しずつその影響を受け始めているのかもしれなかった。


 言葉は、個人の頭の中だけで完結するものではない。

 他者とのやりとりの中で磨かれ、増え、減っていく。


 周囲の誰も、難しい言葉を使わなくなった世界で、その言葉を一人だけ維持することは難しい。

 筋肉と同じで、使わなければ衰える。


 佐久間は、鏡に映る自分の顔を見た。


 そこには、白髪の混じり始めた、中年男の姿があった。

 少し前までは、「中年」といえば人生の折り返し地点だった。

 今は、「昔のことを覚えている最後の世代」という意味も含まれ始めていた。


   ◇


 最後に、大きな事故が起きた。


 世界最大級のデータセンターが、原因不明のトラブルで停止したのだ。


 そこには、政府機関や金融機関のシステム、そして多くの企業の業務データが集中していた。

 バックアップはあったが、その復旧手順は、想定外の事態に対応できるよう、「ある程度の現場判断」を前提として作られていた。


 しかし、その現場判断ができる人間が、もうほとんど残っていなかった。


 保守要員たちは、マニュアルの該当箇所を順番に読み上げながら作業を進めた。

 途中で、マニュアルにないエラーが出た。


 そこで、作業は止まった。


 エラー画面を前にして、彼らは顔を見合わせた。

 誰も、「もしこうしてみたら」という仮説を立てることができない。


 上層部に報告が上がり、臨時会議が開かれた。

 しかし、会議室に集まった管理職たちも、同じだった。


 「前例のない事態です」と誰かが言った。

 それは事実だったが、何の解決にもならなかった。


 世界は、その日を境に、ところどころで「止まったまま」になっていった。


 信号のパターンが固定され、いつまでも青にならない交差点。

 自動改札が閉じたまま動かない駅。

 預金の引き出しが一時停止したままの銀行。


 人々は、最初こそ苛立ちを口にした。


「誰か、なんとかしてくれ」


 しかし、その「誰か」が、もういないのだと理解するまでには、少し時間がかかった。


 そのあいだにも、人々は毎晩ドリピルを飲み続けた。


 眠らないことで得たはずの時間は、止まったシステムの前で立ち尽くすために消費された。


   ◇


 佐久間の勤める出版社も、大規模なシステム障害のあおりを食った。


 オンラインの校正システムが使えなくなり、印刷所との連絡も遅れた。

 編集部の会議室には、珍しく紙の原稿が積み上がっていた。


 若い編集者たちは、紙の上に赤ペンで修正を入れる方法を知らなかった。

 どこに、どのような記号を書けばいいのか、マニュアルを探し、ネットが落ちていることに気づき、そこで手が止まる。


「昔は、これが普通だったんですがね」


 部長はそう言いながらも、自分の手元のペンがぎこちないことに、気づいていた。

 彼もまた、長年ドリピルを飲み続けてきたのだ。


 佐久間は、一人で淡々と紙に赤を入れ続けた。

 手は覚えている。

 しかし、その一方で、自分が今何をしているのか、ふとわからなくなる瞬間があった。


 赤で囲んだ言葉が、何を意味していたのか。

 修正の意図はわかるのに、その先にあるはずの「読者の反応」を想像できない。


 読者が驚く顔、笑う顔、泣く顔。

 そういうものが、遠い記憶の中に沈んでいく。


 読者もまた、夢を見ない世界の住人だからだ。


   ◇


 会社帰り、街を歩くと、ショーウィンドウのマネキンたちが、妙に自然に見えた。


 動かない。

 しかし、服を着て立っている。


 道行く人々も、似たようなものだった。


 スマートフォンの画面を見ながら、決められたルートを歩き、決められた店で買い物をし、決められた時間に帰宅する。

 その行動パターンは、ビッグデータによって最適化されている。


 彼らは、効率的に生きていた。

 無駄がなかった。


 無駄を削ぎ落とした結果、残ったのが「生きているマネキン」のような日々であることに、彼ら自身は気づいていなかった。


 気づくためには、想像力がいる。


 想像力は、もうほとんど残っていなかった。


   ◇


 佐久間は、ある決心をした。


 自分の仕事を、「辞書を作ること」から、「最後の記録を残すこと」に、そっとすり替えることにしたのだ。


 会社のデータベースに繋がらない夜、彼は自分のノートパソコンを開いて、ひとつのファイルを作った。


 ファイルの名前は、「夢を見る人々のための辞書」。


 そこに、廃止候補になった言葉を、ひとつずつコピーしていった。

 意味や用例だけでなく、その言葉にまつわる個人的な記憶も添えて。


 「机上の空論」――学生時代、意味もわからず先生に使われて悔しかった。

 あとで辞書を引いて、やっとわかった。


 「捕らぬ狸の皮算用」――友人が宝くじを買ったときに、散々使って笑い合った。


 「雲をつかむよう」――叶いそうもない恋の比喩として、酔った勢いで誰かが口にした。


 世界から消えかけている言葉たちが、そのファイルの中で、かろうじて息をしていた。


 佐久間は、夜ごと少しずつページを増やしていった。

 それはもはや、辞書というより、個人的な備忘録だった。


 しかし、「備忘録」という言葉でさえ、近いうちに辞書から消えるかもしれなかった。


   ◇


 ある朝、会社に向かう電車の中で、佐久間は、隣に立っている少年が携帯ゲーム機を操作しているのをぼんやり眺めていた。


 画面には、簡単なパズルゲームが映っている。

 同じ色のブロックを三つ揃えると消えるタイプのゲームだ。


 少年は、淡々とブロックを消していた。

 表情に変化はない。


 ゲームオーバーになっても、悔しがる様子はなかった。

 彼は、ただまた最初からプレイするだけだ。


「面白い?」


 思わず、佐久間は声をかけた。


 少年は、少しだけ首をかしげてから、「時間がつぶせます」と答えた。


「ほかにやりたいことは?」


「特にありません」


 答えは、あまりにもあっさりしていた。


 やりたいことを思い描くには、想像力がいる。

 彼にとって、「時間をつぶす」ことが目的であり、その手段はなんでもよかった。


 電車が駅に着くと、少年は無表情のまま降りていった。

 その背中に、眠そうな気配はまったくなかった。


   ◇


 その夜、佐久間は、久しぶりに長い夢を見た。


 広い教室に、人々が座っている。

 教卓の上には、巨大な白い錠剤が置かれている。


「これは、眠らない薬です」


 誰かが言う。


「これを飲めば、あなたは悩まずにすみます。

 将来を心配する必要もありません。

 失敗を恐れなくていいのです」


 人々は、拍手をした。

 教室の後ろでは、巨大な時計が針を速めて回っていた。


「ただし、夢は見られなくなります」


 誰かが付け加えた。


 しかし、その言葉の意味を、誰も理解しなかった。


 夢とは何か。

 夢を見るとはどういうことか。


 それを説明するためには、夢のない言葉では足りなかった。


 夢の中の佐久間は、立ち上がろうとした。

 「待ってくれ」と叫ぼうとし、口を開いた。


 出てきた言葉は、意味を持たない音の連なりだった。


 ああ、と彼は夢の中で思った。


 ――間に合わなかった。


   ◇


 翌朝、彼は机に向かい、決めていたことを実行した。


 会社のサーバーにアクセスし、「削除候補語」のリストを、こっそりと外部ストレージにコピーしたのだ。

 倫理的には問題があるかもしれない。

 しかし、誰もそれを咎める想像力を持っていないのなら、構わないだろうとも思った。


 小さなメモリースティックに、世界から消えかけている言葉たちが詰め込まれた。


 その足で、彼は図書館に向かった。


 市立図書館の地下には、「資料庫」と呼ばれる一角がある。

 古い新聞や、公的文書のバックアップが保管されている場所だ。


 職員の一人に、彼は事情を説明した。


「個人的な寄贈ですが、受け取ってもらえますか」


「何が入っているんですか」


「言葉です」


 職員は少し迷った顔をしたが、結局、「一応受け付けます」と言って、書類を書かせた。


 寄贈品の説明欄に、佐久間は、こう記した。


 ――『夢を見る人々のための辞書』。

 ドリームレス・ピル普及後に廃止された日本語の一覧と、その用例、および記憶。


 職員は、それを読み上げて首をかしげた。


「変わったものですね」


「変わったものは、ここにはたくさんありますよね」


「まあ、そうですね。今は誰も読まないようなものばかりですけど」


 職員は苦笑し、メモリースティックを封筒に入れ、「資料庫」と書かれた棚に置いた。


 それで、すべてが終わったような気がした。


 そして同時に、それで何かが始まるわけでもないことも、彼は知っていた。


   ◇


 図書館を出ると、空はどんよりと曇っていた。


 街路樹の葉は、風もないのに微かに揺れて見えた。

 世界そのものが、ゆっくりとまばたきをしているように思えた。


 道行く人々の顔には、眠気はなかった。

 あるのは、薄く均一な疲れだけだ。


 佐久間は、ふと、自分がいつかこの世界の中で「最後の夢を見る人」になるのだろうかと考えた。


 それは、妙に滑稽な想像だった。

 たった一人で眠り、たった一人で夢を見続ける老人。


 その夢を語る相手は、どこにもいない。


 語ろうとしたところで、「夢」という言葉の意味するところを理解できる人間が、もうどこにもいない。


 彼自身の言葉も、いつかは薄れていく。


 夢を見るためには、眠らなければならない。

 しかし、眠ることは、この世界において「非効率」の札を貼られていた。


 非効率なことは、やがて淘汰される。


 彼は、自分の選んだ非効率が、どこまで持ちこたえられるのかを、少しだけ試してみたくなった。


   ◇


 その夜、彼は時計の針を外してから、ベッドに入った。


 世界のあちこちで止まってしまった時計たちの代わりに、自分の部屋の時計だけは動かしたくなかった。


 秒針の音が消えると、部屋は異様に静かになった。

 その静けさの中で、彼は目を閉じた。


 眠りに落ちる直前、ひとつだけ、はっきりとした思いが頭をよぎった。


 ――これが、世界の最後の動きかもしれない。


 夢は、始まった。


 そこには、言葉があった。


 まだ辞書に載っている言葉。

 もう辞書から消えた言葉。

 辞書に載ることのなかった、誰かの口癖。


 それらが入り乱れて、滑稽な踊りを踊っている。


 目が覚めたとき、彼は、それをノートに書き留めようとした。


 ペンを握りしめ、「夢」という字を書き始める。


 夕の「夢」。

 「夕べに見るもの」と書きながら、彼はふと手を止めた。


 ――この字を、誰かに説明する機会は、もう二度と来ないかもしれない。


 そう思った瞬間、不思議な安堵が胸を満たした。


 世界は、止まった時計のように動かなくなりつつある。

 誰も新しいことを考えず、誰も古いものを振り返らない。


 それでも、彼の頭の中では、いくつもの針がまだ回っていた。


 それは、非効率で、意味がなくて、何の役にも立たない動きだった。


 しかし、その無駄な動きこそが、かつて「生きている」と呼ばれていたものの正体なのかもしれない。


 彼は、ペン先に残ったインクで、最後の一文を書いた。


 ――眠らない人々は、考えることをやめた。

 眠る人間だけが、まだ夢の中で世界を動かしている。


 そこまで書いてから、彼はペンを置いた。


 窓の外では、相変わらず、眠らない街の光が瞬いている。

 その光は、もう何も照らしてはいなかった。


 彼は目を閉じた。

 次に目を開けたとき、その光の意味を理解できるかどうかは、誰にもわからなかった。


 ただひとつ確かなのは、夢を見ない世界では、新しい朝が永遠に来ないということだけだった。

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