夢を禁止されたので、物語が書けません
ドリームレス・ピルが発売された朝、世界は少しだけ明るくなった。
少なくとも、ニュース番組の中ではそうだった。
「ついに人類は、睡眠に奪われてきた時間を取り戻すことになります」
男性アナウンサーは、目を輝かせてそう言った。
画面の隅には、白い錠剤の映像が映っていた。丸く、小さく、何の変哲もない薬だった。風邪薬と言われても、ビタミン剤と言われても、誰も疑わないだろう。
だが、その白い粒は、人類の生活を根本から変えると期待されていた。
正式名称は、睡眠代替型脳機能維持薬。
通称、ドリームレス・ピル。
一日一錠服用するだけで、睡眠中に行われる脳内の整理や疲労回復を、覚醒状態のまま補助する。眠気はほとんど消え、集中力は保たれ、身体への負担も従来の覚醒剤とは比較にならないほど少ない。少なくとも、製薬会社の発表ではそう説明されていた。
発表会場で、開発責任者の男はこう言った。
「人類は、長いあいだ人生の三分の一を眠りに捧げてきました。けれど、これからは違います。眠りたい人は眠ればいい。眠らずに生きたい人は、その選択ができる。これは、自由の薬です」
自由。
その言葉は、とても便利だった。
眠らない自由。
働く自由。
学ぶ自由。
遊ぶ自由。
人生を二十四時間、余すところなく使い切る自由。
発売初日、薬局の前には長い列ができた。会社員、受験生、起業家、配達員、漫画家、医師、看護師、警備員、主婦、定年後の老人。並んでいる人々の顔には、眠気ではなく期待が浮かんでいた。
佐久間怜司は、その列を横目に見ながら、出版社の入った古いビルへ向かった。
彼は辞書編集者だった。
辞書という仕事は、世の中の速度からいつも少し遅れている。新しい言葉が生まれ、人々に使われ、意味が定まり、やがて記録する価値があると判断される。そのころには、最初の熱はもう少し冷めている。佐久間はその遅さが好きだった。
速すぎるものは、たいてい何かを置き忘れる。
彼はそう思っていた。
編集部に入ると、すでに数人の同僚がドリームレス・ピルの話をしていた。
「買った?」
「もちろん。今日から徹夜しても平気ってことでしょ」
「納期が消滅するな」
「いや、むしろ納期が前倒しになる」
笑い声が上がった。
誰かが冗談めかして言った。
「辞書も一年で一冊出せるんじゃないですか」
佐久間は曖昧に笑って、自分の席に着いた。
机の上には、廃止候補の語が並んだ資料が置かれていた。辞書の改訂では、新しい言葉を入れるだけではなく、古い言葉を削ることもある。限られた紙幅の中で、何を残し、何を見送るかを決めなければならない。
彼は赤鉛筆を手に取り、リストの一番上にある語を見た。
机上の空論。
続いて、夢物語。
捕らぬ狸の皮算用。
絵空事。
雲をつかむよう。
佐久間は、赤鉛筆の先を止めた。
どれも、現実ではないものを指す言葉だった。
まだ存在しないもの。
実現しないかもしれないもの。
けれど、人間がなぜか語ってしまうもの。
「佐久間さん」
隣の席の若い編集者、藤野が声をかけてきた。
「ドリピル、飲まないんですか」
「飲めないんだ」
「え、持病ですか」
「肝臓の数値があまりよくない。主治医に止められてる」
「それは残念ですね」
藤野は、本当に残念そうに言った。
「でも、佐久間さんなら、寝てても仕事してそうですけどね」
「それは褒めてるのか」
「半分は」
「残り半分は」
「呪いです」
佐久間は苦笑した。
その日の夕方、編集長が短い会議を開いた。
議題は、働き方の見直しだった。
ドリームレス・ピルの普及を受け、出版業界全体が制作スケジュールを再編し始めているという。著者も編集者も校閲者もデザイナーも、以前より長く起きていられる。ならば作業期間を圧縮できるはずだ。会議室の空気は、どこか浮き立っていた。
「もちろん、服用は個人の自由だ」
編集長はそう言った。
「だが、社会全体が変わる。うちだけ昔の速度で仕事をしていたら、取り残される」
佐久間は何も言わなかった。
自由の薬は、早くも自由でないものになり始めていた。
数週間後、街の夜は明らかに変わった。
終電後の駅前に、人が増えた。深夜三時のコンビニに行列ができた。カフェは二十四時間営業に戻り、学習塾は「眠らない受験コース」を始め、企業は「夜間集中勤務制度」を導入した。
眠らない人々は、最初、とても楽しそうだった。
誰もが、余った時間を手に入れたような顔をしていた。
映画を三本観る者。
資格の勉強を始める者。
副業に手を出す者。
夜明け前にジムへ行く者。
空が白み始めるころ、街はまだ眠らない人々で明るかった。
佐久間は、以前と同じように夜になると帰宅し、風呂に入り、布団に入った。
眠るという行為が、いつの間にか少し後ろめたいものになっていた。
会社では、ドリピルを飲んでいる者たちが、夜中に送られてきたメールに朝まで待たず返信するようになった。会議の資料は深夜に更新され、早朝にはもう古くなっている。佐久間が翌朝出社すると、知らないうちに三つの決定がなされていることもあった。
それでも彼は薬を飲まなかった。
飲まなかったのではなく、飲めなかった。
その違いは、周囲にはあまり伝わらなかった。
「佐久間さん、まだ自然睡眠派なんですね」
藤野が言った。
「派閥に入った覚えはない」
「でも、珍しいですよ。最近、ちゃんと寝てる人」
「君は?」
「飲んでます。最初は怖かったですけど、慣れました」
「眠くならないのか」
「全然。むしろ、眠かったころの自分が信じられないです」
藤野は笑った。
「寝てる時間って、本当に無駄だったんですね」
佐久間は、返事をしなかった。
その夜、彼は久しぶりに夢を見た。
巨大な図書館の夢だった。
天井が見えないほど高く、棚はどこまでも続いている。だが、本の背表紙には何も書かれていない。佐久間が一冊を抜き取ると、中身はすべて白紙だった。
白紙のページをめくっていると、どこかから声がした。
それは、自分の声だった。
忘れた言葉を探してください。
目を覚ますと、朝だった。
枕元の時計は六時四十分を示していた。佐久間はしばらく天井を見上げたまま動けなかった。夢の内容はすぐに薄れていったが、声だけは耳の奥に残っていた。
忘れた言葉を探してください。
出社すると、新語検討会議が開かれた。
最近、世間で使われるようになった言葉を辞書に入れるかどうかを議論する会議だった。以前なら、そこには熱気があった。若い編集者がネット発の言葉を持ち込み、古参の校閲者が用例の少なさを指摘し、編集長が苦い顔で採否を決める。言葉が生まれる現場には、いつも小さな混乱があった。
だが、その日のリストは妙に整っていた。
業務最適化。
覚醒効率。
睡眠負債解消後世代。
夢見残存者。
自然睡眠者。
薬剤非適合者。
どれも説明しやすく、分類しやすく、管理しやすい言葉だった。
「比喩が減ったな」
佐久間は、思わずそう呟いた。
藤野が首をかしげた。
「比喩ですか」
「ああ。何かを別の何かにたとえる言葉が、少ない」
「でも、正確なほうがよくないですか。辞書なんですし」
「正確さだけで、言葉は足りるのかな」
藤野は少し考えたが、やがて笑った。
「足りると思いますよ。曖昧な表現は、誤解のもとです」
会議室の中で、何人かが頷いた。
佐久間は黙って資料に目を落とした。
曖昧さ。
誤解。
たしかに、辞書の仕事では避けたいものだ。
けれど、人間は曖昧なものに触れるために言葉を使うこともある。
愛している。
寂しい。
怖い。
懐かしい。
それらの言葉を、完全に正確に定義することなどできない。だからこそ、何度も言い換え、たとえ、物語にしてきたのではないか。
ドリームレス・ピルの発売から半年ほど経つと、世の中の広告が変わり始めた。
かつて広告は、現実より少し美しい未来を見せるものだった。
この車に乗れば、海沿いの道を走る自分になれる。
この化粧品を使えば、まだ出会っていない誰かに振り向かれるかもしれない。
この家に住めば、温かい食卓が待っている。
もちろん、それらは大げさで、時に嘘に近かった。けれど、そこにはまだ「こうだったらいい」という夢があった。
新しい広告は違った。
数字が並んでいた。
作業効率二十三パーセント向上。
年間睡眠時間二千九百二十時間削減。
生涯可処分時間、約二十七年増加。
損失を減らせ。
無駄を削れ。
眠るな、止まるな、遅れるな。
佐久間は駅のホームでそれらのポスターを見上げながら、ふと、自分が責められているような気分になった。
眠ることは、もう怠惰だった。
夢を見ることは、もっと怠惰だった。
編集部では、廃止候補の語が増えていた。
夢想家。
空想家。
白昼夢。
寝言。
夢枕。
正夢。
悪夢。
「悪夢」は残すべきだ、と佐久間は主張した。
災害や事故、株価暴落の報道で今でも使われる。用例も多い。意味も定着している。
だが、若い編集者の一人が言った。
「悪夢って、実際に夢を見る人が減っているなら、将来的には比喩としてしか残らないですよね」
「比喩として残ればいい」
「でも、その比喩が通じなくなったら?」
会議室が静かになった。
佐久間は返答できなかった。
悪夢を見ない人間に、悪夢のような現実をどう説明すればいいのか。
それは、辞書編集者にとって小さくない問いだった。
その変化は、一年や二年で世間を驚かせるほどのものではなかった。
むしろ、最初の数年、世界はうまくいきすぎていた。
労働時間は増えた。生産量も増えた。納期遅延は減り、深夜営業の店は繁盛し、大学病院の待ち時間は短くなった。寝不足による事故も、表面上は減った。人々は口々に言った。人類はようやく、人生の三分の一を取り戻したのだと。
佐久間も、その言葉を完全には否定できなかった。
辞書の改訂作業は予定より早く進んだ。出版点数も増えた。会議は深夜でも開けるようになり、メールの返信は数分で返ってくるようになった。仕事という面だけを見れば、社会は間違いなく効率的になっていた。
ただ、佐久間は毎週月曜日に届く「新語リスト」の薄さだけを、ずっと覚えていた。
最初は誤差だった。
次に、傾向になった。
やがて、それは誰の目にも明らかな空白になった。
ドリピルの発売から十年近くが過ぎたころ、科学誌が一つの論文を大きく取り上げた。
地方大学の研究チームが、ドリピルの長期服用者と非服用者を追跡した結果だった。
論文は、慎重な言葉で書かれていた。
ドリームレス・ピルの継続的服用により、夢見睡眠、すなわちレム睡眠に類する脳活動は著しく減少する。
短期的な健康被害は確認されていない。
その一文だけが、ニュース番組では大きく読み上げられた。
しかし、佐久間が目を止めたのは、その次の段落だった。
五年以上の継続服用者において、連想課題、仮定思考課題、創造的用途課題の成績低下が認められた。
佐久間は、画面の前で息を止めた。
創造的用途課題。
ありふれた物体の使い道を、制限時間内にどれだけ思いつけるかを調べる検査だ。
たとえば、新聞紙。
非服用者は、敷く、包む、丸める、折る、燃やす、濡らして窓を拭く、細く裂いて紐にする、と答えた。
ドリピル服用者の多くは、読む、捨てる、で止まった。
それでも、コメンテーターは笑って言った。
「まあ、でも新聞紙を読む以外に使う必要があるのか、という話でもありますよね」
スタジオに、乾いた笑いが起きた。
佐久間は笑えなかった。
必要があるかどうかではない。
思いつくかどうかなのだ。
世界から失われつつあるのは、役に立つ発想ではなかった。
役に立つかどうかもわからないものを、とりあえず思いついてみる力だった。
論文が出ても、世界はすぐには変わらなかった。
むしろ人々は、そこに書かれていた不都合な部分だけを、器用に読み飛ばした。
夢を見なくなるかもしれない。
想像力が落ちるかもしれない。
他人の立場を想像する力が弱くなるかもしれない。
どれも、「かもしれない」で済ませるには、あまりにも大きな問題だった。だが、社会全体がすでにドリピルの上に成り立っていた。工場も、病院も、物流も、役所も、編集部も、二十四時間動くことを前提に組み替えられていた。
いまさら眠れと言われても、誰も眠り方を思い出せなかった。
さらに数年が過ぎてから、政府はようやく重い腰をあげた。
「ドリームレス・ピル長期服用者における認知機能低下の可能性について」という、長いタイトルの報告書が公表されたのだ。
報告書は、製薬会社に配慮した表現で満ちていた。
直接的な危険性は確認されていない。
因果関係については慎重な検討が必要である。
さらなる長期的研究が求められる。
しかし、結論の一部には、明らかに奇妙な項目があった。
長期服用者には、未知の状況における判断停止、仮定的推論の遅延、非定型的問題への対応困難が見られる場合がある。
佐久間は、その文章を何度も読み返した。
未知の状況。
仮定的推論。
非定型的問題。
どれも、辞書に載せれば難しい言葉になる。
けれど、言い換えれば簡単だった。
もしも、を考える力。
まだ起きていないことを想像する力。
正解のないものに、ひとまず手を伸ばす力。
その力が、社会から減っている。
佐久間がそう感じたころ、編集部でも異変がはっきりし始めた。
新しい企画が通らない。
通らないというより、出てこない。
企画会議では、市場調査の結果と過去の売上データが並ぶ。似た本の販売部数、読者層、価格、判型、発売時期。資料は以前より精密になった。分析も速くなった。だが、誰かが「では、まだ誰も出していない本を作りましょう」と言うことはなくなった。
売れた本に似た本。
評価された本に似た本。
失敗しなかった本に似た本。
出版社は、まだ存在しない読者に向かって本を出す場所だったはずだ。
しかし、いつの間にか、すでに存在すると確認された読者にだけ、確認済みの商品を届ける場所になっていた。
辞書の改訂会議では、佐久間の意見が通らなくなった。
「この語は残したほうがいい」
「使用頻度が落ちています」
「頻度だけでは測れない」
「では、何で測るんですか」
「記憶だ」
会議室が静まり返った。
藤野が困ったように笑った。
「佐久間さん、それは基準になりません」
「言葉は、記憶を保存するものでもある」
「でも、辞書は個人の思い出帳じゃありません」
それは正論だった。
正論は、たいてい強い。
佐久間は、反論する言葉を見つけられなかった。
その日の会議で、「夢物語」は削除候補のまま残った。
「白昼夢」は削除が決まった。
「机上の空論」は用例縮小。
「捕らぬ狸の皮算用」は、現代用例が少ないため次回再検討。
佐久間は議事録を見ながら、言葉が一つずつ細くなっていく音を聞いているような気がした。
家に帰ると、彼は古い国語辞典を本棚から取り出した。
紙の辞書だった。
学生時代に買ったもので、背表紙は少し焼け、ページの端は指の脂で薄く黒ずんでいる。
彼は「夢」の項を開いた。
眠っている間に見る心像。
将来実現させたい願い。
現実から離れた空想。
はかないもの。
佐久間は、その説明を指でなぞった。
たった一つの漢字の中に、眠りも、希望も、空想も、儚さも入っている。
これを失えば、人間はいったい何を失うのだろう。
考えているうちに、眠気が来た。
昔なら当然のことだった。
夜になれば眠くなる。
疲れれば目を閉じる。
夢を見ることもあれば、見ないこともある。
けれど今、その当然のことは、世界で少しずつ例外になっていた。
佐久間は灯りを消し、布団に入った。
その夜の夢には、藤野が出てきた。
彼は真っ白な部屋に立っていた。部屋には窓も扉もなく、壁には無数の言葉が貼られていた。藤野はそれらを一枚ずつ剥がし、黙ってゴミ箱に捨てている。
佐久間は叫んだ。
それは捨てないでくれ。
藤野は振り返り、穏やかな顔で言った。
使わないものは、要りません。
目を覚ますと、佐久間の額には汗が浮かんでいた。
数日後、藤野が倒れた。
過労ではなかった。
薬の副作用でもなかった。
彼は会議中に、突然、何も決められなくなったのだ。
新企画の検討会だった。ある著者から持ち込まれた原稿について、刊行するかどうかを話し合っていた。内容は奇妙だった。売れ筋ではない。ジャンルも曖昧で、主人公の行動も非合理的だった。だが、佐久間はそこに妙な引力を感じていた。
「これは、出すべきだと思う」
佐久間が言うと、藤野は資料を見たまま固まった。
「類似作品のデータがありません」
「だからいい」
「比較対象がありません」
「新しいものは、最初は比較できない」
「市場規模が算出できません」
「売れるかどうかはわからない」
「わからないなら、判断できません」
藤野の声は平板だった。
だが、次第に呼吸が浅くなっていった。
「わからない。判断できません。比較対象がありません。前例がありません。前例がありません。前例がありません」
彼は同じ言葉を繰り返した。
やがて、椅子から崩れるように倒れた。
救急車を呼んだ。
幸い、命に別状はなかった。
診断名は、適応性判断停止発作。
そんな言葉が、いつの間にか医療用語になっていた。
医師は説明した。
「強いストレス下で、想定外の選択を迫られたとき、認知処理が停止することがあります。長期服用者に増えています」
「治るんですか」
佐久間が尋ねると、医師は少し間を置いた。
「薬をやめて、眠る訓練をすることになります。ただ、十年以上服用している方の場合、自然な睡眠に戻るまで時間がかかります」
「夢は見るんですか」
医師は、佐久間を見た。
「夢ですか」
「ええ」
「どうでしょう。最近、その質問をする方は少ないですね」
佐久間は病院の廊下で、しばらく立ち尽くした。
夢を見るかどうかを、誰も気にしなくなっている。
そのこと自体が、すでに答えなのかもしれなかった。
最後に、大きな事故が起きた。
世界最大級のデータセンターが、原因不明のトラブルで停止したのだ。
そこには、政府機関の行政データ、金融機関の取引記録、物流会社の配送網、病院の電子カルテ、出版社の原稿データまで、社会を動かす無数の情報が集まっていた。
バックアップはあった。
復旧手順もあった。
訓練も、何度も行われていた。
問題は、その手順書の途中に、ひとつだけ人間の判断を必要とする箇所があったことだった。
状況に応じて、最適な復旧経路を選択すること。
それは、ドリピル以前の技術者にとっては当然の一文だった。
システムは生き物のように振る舞う。まったく同じ障害など、二度と起きない。だから最後は、目の前の状況を見て、ありえたかもしれない原因を考え、まだ起きていない二次障害を想像しながら、手を動かすしかない。
しかし、その「かもしれない」を考えられる人間が、もうほとんど残っていなかった。
保守要員たちは、白い照明の下で端末を囲んでいた。
画面には、赤いエラーコードが表示されている。
マニュアルの該当箇所は、すでに読み上げられていた。
再起動。
失敗。
バックアップ接続。
失敗。
予備系統への切り替え。
失敗。
次に表示されたエラーは、マニュアルのどこにも載っていなかった。
そこで、作業は止まった。
「上に確認します」
誰かが言った。
上層部に報告が上がり、臨時会議が開かれた。
会議室には、管理職たちが並んでいた。全員、目は冴えている。眠気はない。判断のための資料も揃っている。過去の障害記録も、復旧履歴も、類似事例も、すべて画面に表示されている。
それなのに、誰も何も決められなかった。
「前例のない事態です」
誰かが言った。
その言葉だけが、会議室の中で妙にはっきり響いた。
前例がない。
つまり、前例を探すことはできない。
ならば本来は、前例のないものを頭の中で組み立てるしかないはずだった。
だが、彼らの頭の中には、まだ起きていない出来事を置くための余白がなかった。
「では、前例ができるまで待つしかありませんね」
別の誰かが、小さく言った。
冗談ではなかった。
誰も笑わなかった。
その日を境に、世界はところどころで止まったままになっていった。
信号のパターンが固定され、いつまでも青にならない交差点。
自動改札が閉じたままの駅。
預金の引き出しが一時停止したままの銀行。
病院の受付で、番号札だけが延々と発券され続ける朝。
人々は最初、苛立った。
「誰か、なんとかしてくれ」
だが、その「誰か」がもういないのだと理解するまでには、少し時間がかかった。
そのあいだにも、人々は決まった時間にドリピルを飲み続けた。
眠らないことで得たはずの時間は、止まったシステムの前で立ち尽くすために消費された。
出版社のサーバーも影響を受けた。
刊行予定表が開けなくなり、原稿データの一部が失われた。復旧できるものもあったが、できないものもあった。
編集部は混乱した。
それでも、誰も叫ばなかった。
怒鳴る者も、泣く者もいなかった。
ただ、画面を見つめ、手順書を確認し、同じ説明を繰り返した。
佐久間は、自分の机の引き出しを開けた。
そこには、古い紙の校正刷りが残っていた。以前、処分しようとして、なぜか捨てられなかったものだった。
赤字の入った紙。
余白に書かれたメモ。
著者の癖のある筆跡。
校閲者の細かい指摘。
どれも非効率だった。
データ化すれば済むものばかりだった。
だが、失われたサーバーの前で、それらの紙だけが妙に生々しく残っていた。
佐久間は、そのとき初めて理解した。
人間が残してきたものの多くは、効率とは逆の場所にあったのだ。
書き間違い。
言い淀み。
余白。
無駄話。
夢。
そういうものの中にしか、次に進むための手がかりはなかった。
佐久間は、ある決心をした。
自分の仕事を、「辞書を作ること」から、「最後の記録を残すこと」に、そっとすり替えることにしたのだ。
会社のデータベースに繋がらない夜、彼は自分のノートパソコンを開いて、ひとつのファイルを作った。
ファイルの名前は、最初、「夢を見る人々のための辞書」にした。
そこに、廃止候補になった言葉を、ひとつずつコピーしていった。
意味や用例だけでは足りないと思った。
佐久間は、その言葉にまつわる記憶も添えることにした。
「机上の空論」。
学生時代、まだ何者でもなかったころ、同級生と夜通し語った未来の計画。実現したものはひとつもなかったが、あの夜のくだらない議論がなければ、自分は言葉の仕事を選ばなかったかもしれない。
「捕らぬ狸の皮算用」。
宝くじを買った友人が、当たってもいない一億円の使い道を三時間も語った夜。馬鹿げていた。だが、その馬鹿げた時間を、佐久間は今でも少し羨ましく思う。
「雲をつかむよう」。
叶いそうもない恋について、酔った誰かが口にした比喩。誰に向けられた言葉だったのかは、もう思い出せない。ただ、その場にいた全員が、笑いながら少しだけ傷ついたことは覚えている。
書いているうちに、佐久間は気づいた。
これは辞書ではない。
言葉の説明をしているつもりで、彼は自分の記憶を書いていた。
記憶を書いているつもりで、彼は失われた世界の輪郭を書いていた。
つまり、これは物語だった。
その事実に気づいた瞬間、彼の指は止まった。
物語。
かつて人々が、眠る前や、眠った後や、夢から覚めた朝に、当たり前のように作っていたもの。
ありもしない誰かの人生を考え、起きてもいない事件を組み立て、まだ存在しない街を歩かせること。
ドリピルが奪ったのは、睡眠ではなかった。
ありもしないものを、あるかもしれないと思う力だった。
佐久間は、ファイル名を変更した。
「夢を見る人々のための辞書」
その文字を削除し、新しく打ち直す。
「夢を禁止されたので、物語が書けません」
打ち終えたあと、しばらく画面を見つめていた。
皮肉のつもりだった。
だが、読み返してみると、それはこの世界で最も正確な題名のように思えた。
物語が書けない。
なぜなら、人々は夢を見なくなったからだ。
なぜなら、まだ起きていない出来事を怖がることも、まだ会ったことのない誰かを愛することも、まだ存在しない明日を信じることも、できなくなったからだ。
物語とは、眠っているあいだに見る夢の、目覚めたあとの残り香なのかもしれなかった。
佐久間は、その残り香をかき集めるように、夜ごと文章を書き足していった。
それは小説ではなかった。
少なくとも、昔の意味での小説ではない。
主人公もいない。事件もない。結末もない。ただ、世界から消えかけている言葉と、その言葉がまだ使われていたころの人間たちの気配だけが、断片のように並んでいる。
けれど、佐久間は思った。
もしかすると、物語とは最初からそういうものだったのではないか。
誰かの記憶。
誰かの後悔。
誰かが言いそびれた一言。
それらを、別の誰かが拾い上げて、まだ終わっていないふりをすること。
世界が終わるとは、爆発することではない。
誰も続きを想像しなくなることだ。
翌朝、彼は市立図書館へ向かった。
地下には、「資料庫」と呼ばれる一角がある。古い新聞や、公的文書のバックアップが保管されている場所だ。
職員の一人に、佐久間はメモリースティックを差し出した。
「個人的な寄贈ですが、受け取ってもらえますか」
「何が入っているんですか」
「言葉です」
職員は少し迷った顔をした。
「言葉、ですか」
「はい。あと、物語になれなかったものです」
職員は意味を理解できなかったようだったが、結局、「一応受け付けます」と言って、書類を書かせた。
寄贈品の説明欄に、佐久間はこう記した。
「夢を禁止されたので、物語が書けません」。
ドリームレス・ピル普及後に廃止された日本語の一覧と、その用例、および記憶。
職員はそれを読み上げて、首をかしげた。
「変わった題名ですね」
「変わったものは、ここにはたくさんありますよね」
「まあ、そうですね。今は誰も読まないようなものばかりですけど」
職員は苦笑し、メモリースティックを封筒に入れた。
封筒は、「資料庫」と書かれた棚に置かれた。
それで、すべてが終わったような気がした。
そして同時に、それで何かが始まるわけでもないことも、佐久間は知っていた。
図書館を出ると、空はどんよりと曇っていた。
街路樹の葉は、風もないのに微かに揺れて見えた。
道行く人々の顔には、眠気がなかった。
あるのは、薄く均一な疲れだけだ。
佐久間は、ふと、自分がいつかこの世界で最後の夢を見る人になるのだろうかと考えた。
それは、妙に滑稽な想像だった。
たった一人で眠り、たった一人で夢を見続ける老人。
その夢を語る相手は、どこにもいない。
語ろうとしたところで、「夢」という言葉の意味を理解できる人間が、もういないかもしれない。
それでも彼は、少しだけ笑った。
理解されない言葉を残すこと。
読まれない物語を書くこと。
役に立たない夢を見ること。
それらはすべて、非効率だった。
そして、非効率なものだけが、まだ人間の形をしていた。
その夜、彼は時計の針を外してから、ベッドに入った。
世界のあちこちで止まってしまった時計たちの代わりに、自分の部屋の時計だけは動かしたくなかった。
秒針の音が消えると、部屋は異様に静かになった。
その静けさの中で、彼は目を閉じた。
眠りに落ちる直前、ひとつだけ、はっきりとした思いが頭をよぎった。
これが、世界の最後の動きかもしれない。
夢は、始まった。
そこには、言葉があった。
まだ辞書に載っている言葉。
もう辞書から消えた言葉。
辞書に載ることのなかった、誰かの口癖。
それらが入り乱れて、滑稽な踊りを踊っている。
目が覚めたとき、佐久間は、それをノートに書き留めようとした。
ペンを握りしめ、「夢」という字を書き始める。
夕の「夢」。
夕べに見るもの、と書きながら、彼はふと手を止めた。
この字を、誰かに説明する機会は、もう二度と来ないかもしれない。
そう思った瞬間、不思議な安堵が胸を満たした。
説明できなくてもいい。
伝わらなくてもいい。
残っているかぎり、言葉はまだ完全には死んでいない。
世界は、止まった時計のように動かなくなりつつある。
誰も新しいことを考えず、誰も古いものを振り返らない。
それでも、佐久間の頭の中では、いくつもの針がまだ回っていた。
それは、非効率で、意味がなくて、何の役にも立たない動きだった。
しかし、その無駄な動きこそが、かつて「生きている」と呼ばれていたものの正体なのかもしれない。
彼は、ペン先に残ったインクで、最後の一文を書いた。
眠らない人々は、考えることをやめた。
眠る人間だけが、まだ夢の中で世界を動かしている。
そこまで書いてから、彼はペンを置いた。
窓の外では、相変わらず、眠らない街の光が瞬いている。
その光は、もう何も照らしてはいなかった。
彼は目を閉じた。
次に目を開けたとき、その光の意味を理解できるかどうかは、誰にもわからなかった。
ただひとつ確かなのは、夢を見ない世界では、新しい朝が永遠に来ないということだけだった。




