第1話 湖の不思議な二人
湖の畔で男が座って弁当を広げている。美味い弁当だった。しかし、妻が作ってくれたのではない、自分で作った弁当であった。
彼は冒険者としてこの近くの村に流れてきて定住し始めたばかりであった。湖面を見つめながら箸代わりになる小枝二本を使って弁当の料理を口に運ぶ。彼には多くの記憶がなかった。名前も本業も肝心なことは忘れていたが、どんな仕事をすればどんな結果が得られ、その仕事が村にどんな貢献が出来るのかは知っていた。不思議な感覚を持つ人物であった。
数か月前、彼は、素朴な住人が多い、外部からの流入したばかりの自分に対して優しい村が気に入り定住することを決めた。それから日々、村に役立つ仕事をして受け入れられた。彼はどうして知識が自分に湧いて出てくるのかは分からなかったが、その知識が凄く役立つということだけは予め分かっていた。
謎な人物である。
今日は、湖から水を取り入れ、水を奇麗なまま村へと運ぶ用水路の最終チェックをしに来ていた。これは井戸しかなかった村に潤いをもたらす工事という事で、立案から施行まで大歓迎を受けて実施された。
「僕には美しい妻がいて、立派な高校生の息子と中学生の娘がいたな……」
わずかに記憶に残る前世時代の家族へと思いを馳せる。
ここは彼の住んでいた場所とは違う異世界。彼の記憶は、転生して赤ちゃんから始まった。頭が冴えるものの、手足は充分に動かせず、言葉も発しようとすると「おぎゃー」と泣いてしまうだけなので困っていた。その期間が数年続き、へとへとな人生スタートになった。
言葉が喋られるようになって歩けるようになると、自分の置かれた世界を調べるようになった。自宅にはメイドが数人おり、貴族の嫡男として大切に育てられた。どうやらこの世界は、中世の世界に剣と魔法があり、精霊や神様が身近に存在する前世とは異なる異世界だという事が分かってきた。
「育った世界なのに、異世界感覚がぬぐえない。大人になってからもだ」
彼はこのように不思議な感覚を持っていた。
外見は四十歳前後、年齢不詳の見た目であり、考え方は若い頃からおっさんそのもので、周囲からも不思議な人材のように思われてきた。
思春期になった頃、僅かに残る前世の記憶と感情がせめぎ合い、家を飛び出した。そして独力で生活をするために冒険者になった。転生したからか、女神の加護が大変優秀で、冒険者ギルドでもめきめきと頭角を現し、所属したパーティでも一目置かれるようになった。
恋人が出来たが、残念ながらパーティ・リーダーに寝取られてしまい、一人で脱退して過去に仕事で訪れた訪問先を彷徨い、この村に流れてきた。この村では何年も前に魔獣退治で訪れ、温かく優しい人が多いという印象で気に入っていた。
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隣に座っていた少女が目をぱちくりさせながら弁当のお裾分けを貰っていた。白いワンピースでポニーテールをした可愛らしい娘で、湖の畔で腰を下ろして寛いでいると、いつの間にか横に来る知らない娘。
「ねぇ、先生、今日こそ名前を教えてよ」
「ダメだよ、僕は名前を知られると探しに来る人がいるからさ」
「むー」
彼は思っていた。彼女は頬を膨らませて拗ねるが、この娘と出会った時は、彼女は言葉を上手く喋ることが出来ず、少しずつ教えていったら今は普通に会話が出来るようになった。凄まじい成長率だと思いつつ、こんな賢い子が今まで何をして暮らしていたのか不明瞭で、一人だけのようだが両親はいないようで、接する時だけは優しく親代わりになっていた。
「おじさん呼びでいいんだよ」
「そうなの? 紛らわしいんじゃない?」
「それなら、もっと人が集まってきたら名前を教えるよ」
「分かった」
プクーと膨れた頬が可愛らしくて、つい彼は人差し指で突いてしまう。
「先生あらため、おじさん」
「やっぱり呼び方は”先生”で好い……ごめん」
「ほっぺたつつくの好きなの?」
「いや、そんなことはない……」
つついたばかりなのに変な言い訳をしてしまう。この娘は十歳前後の外見をしていて、前世の娘を彷彿させられるので、甘やかしたりを平然と行ってしまうことがあり、自分を戒めなければならないのに、ついつい、毎回のようにやってしまう。
「先生、ご飯を食べたら眠くなっちゃった……」
「いいよ、おいで」
膝をポンポン叩いて彼女が枕に出来るよう足を延ばした。彼女は少し顔を赤らめ、大人しく頭を太ももに乗せる。
「先生、ボク、友達が欲しい……」
「僕を友達だと思ってよ」
「先生は先生。同じ世代の友達が欲しいの」
「言葉が喋れるようになったんだ、直ぐに出来るよ」
彼女の頭を撫でながら、勇気づけるように彼は言った。
「ねぇ、面白いお話して」
「(子供を寝かす時にするお話か……何があったかな? いつも妻がしていた話……思いつかないや)」
「そうだな、猫の怨念という話があったな」
「え? 何それ、面白そう、というか怖そう」
「あそこに猫がおんねん(関西弁)」
「うわ~~~怖いっ」
彼は心の琴線を弾かれたかの様に調子に乗って続ける。
「恐怖、老婆の話というものもあるぞ」
「えーーー怖そう、聞きたい」
「娘に聞かれた。『ねぇ、おばあちゃんって今どこに居るの?』と」
「今日、風呂場(きょう、ふろば)」
「いやぁ~~ん、先生、怖いっ」
「ふふふ、続・猫の怨念という物語もある」
「え? なになに」
「あそこにネコがおんねん、ゾクッ!」
「いやぁ~~~、怖い、こわい、こわい~~」
更に調子に乗ってしまう彼。
「秋田の霊という怖い話もあるぞ」
「なんだか怖そう……ボク怖くて泣いちゃうかも」
「電車が来た、友人が俺に向かって声を掛けた。あー来た、乗れーー!」
「なんだか怖いよ先生、『あーきた、のれー』なのね、ムフー」
「よく分かったね、さすが」
「秋田がよく分かんないけど」
「小さいこと気にしたら負けだ」
「じゃ、続々・猫の怨念という物語も怖さひとしおだ。聴くかい?」
「聞く聞く、話してー」
「あそこにネコがおんねん、ゾクゾクッ」
「……ごめんなさい、もういいです」
平和な湖畔は、今日も日が暮れるまで続いたのであった。
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彼女は太ももを枕にして眠ってしまっていた。彼は愛おしそうに、娘をあやすように頭を撫でる。いつもこうである。解散するのは夜だ。彼女の家がどこにあるのか? 教えて貰っておらず、また、家庭環境も正確なことは知らない。
夜の帳がおり、周囲は暗くなっている。湖の水面は月明かりが反射してキラキラし、静かな神秘的な雰囲気をまとっていた。虫やカエルの声がしている。それらをBGMにして彼もウトウトしていた。
すると静寂を破る音が聞こえた。唸り声もする。彼は目を覚ました。
「おっと、寝すぎてしまったな。起きて」
彼女をゆすって起こす。
「へっ」
「声を立てないで。魔獣が近寄ってきている。僕が相手をするから、君は岩の陰に隠れていて」
「う、うん」
彼女はまだ寝ぼけたままだった。怖がらせないように彼女の髪を撫で、彼は周囲を見渡す。横に置いてあった片手剣を掴む。冒険者として頭角を現しただけに、身のこなしも一流で、相当な魔獣に対しても遅れは取らず、速やかに処分することが可能な腕だ。魔獣を倒した後は、種類にもよるが食料となる可能性が高いものは村へと持ち帰り村人はじめ家畜への貴重なタンパク源にしている。
「うぅ~~~~~」
魔獣が一頭、唸りながら近づいてきた。狙いは彼らだろう。食料にするため今にも攻撃してきそうだった。彼は片手剣を抜き、草原を滑るように音を立てずに魔獣へ接近した。魔獣が気付いて応戦する前に剣を振り、首を落とした。
「よしっ」
仕留めてから彼女の方へ眼を向けた。
「これは食べられる銀魔狼だ。今夜は焼肉パーティだな」
「先生、すごいっ! 大きなオオカミね、三メートルぐらいあるんじゃない?」
「そうだな、大物だ。三メートル半ってところだな。担ぐために自分に体力強化魔法を付与しないといけない程度に立派な魔狼だ。ふふ……村の皆も喜ぶぞ」
この銀魔狼、冒険者ギルドでもA級に指定されている強力な魔物である。通常なら諸手を挙げて喜ぶレベルなのだが、彼にとっては貴重な食料を得たという気分の方が大事だった。
「君も僕の家に来て食べるかい?」
「何でボクが欲しい言葉をくれるんですか?」
甘えた口調で、質問に質問を返して聞いてしまう。彼女は無意識の内に彼のシャツを掴んで縋っていた。
巨大なオオカミである銀魔狼を担いで村へ戻り、村の井戸の側で血抜き、解体し、集まってきた住人達へ切り分けた肉をお裾分けしていく。
「先生、すごい獲物を狩ったな」
「ありがたいわ~、さすが先生ね」
ここで冒険者ギルドの窓口職員で仲のいい若い女性が来た。
「冒険者ギルドへは報告していく必要はありませんからね。私が今、確認を受け持ちますから……」
「優しいですね、マリーナさん」
「あなたに優しいのはいつもです。明日のお昼には報酬金が支払えるように手続きしておきますから」
「ありがとう。明日の午後にギルドへ伺いますよ」
「はい、お待ちしておりますね、おやすみなさい先生」
少し頬を赤らめたマリーナがニッコリとして頷き、踵を返して戻っていった。肉片の一切れを持ち帰るのだけは忘れなかった。
「先生、あの美人で村の男性を相手にしないマリーナが、先生にだけは対応が優しく、頬や耳を朱らめてくれるだなんて、ほんと幸せ者ですぜ」
「そんなことないですよ、からかわないで下さい」
解体が大方済んで、最後に内臓を分けるために最後に集ってきた農家の人達へ分配していく。土に埋めておくだけで良い肥料になるからだ。発酵用にもいい。
「肥料用、ありがとう、先生。また明日な」
「ああ、おやすみ。霧が出始めている、気をつけてな」
家に戻り、残った肉片の一部は干物にして保存し、早速、二人分を調理していく。焼肉に塩をまぶして、草原で採取してきた香草を加えて、即席の香草焼きにする。
「お待たせ。さぁ、召し上がれ」
「いただきまーす!」
見た目の年齢相応にパクパクと食べていく湖の娘。その食べっぷりを眺めていると、実に幸せな気分にさせられる。目を細めて彼女の食事を見続けてしまう。
「そんなに、じ~っと見られると恥ずかしいよ」
「あ、ごめん。今夜はうちに泊まるかい?」
「え? 先生、ボクに親切にしてくれるのはどうしてですか? ボクを喜ばせるタイミングで言葉を選んでるのはどうして?」
湖の娘が何を言っているのかよく理解できなかったが、彼はすかさず無難と考えた返事をする。
「――僕が、君を(娘のように)好きだからだよ」
「そ、そんな……」
勘違いした湖の娘はモジモジしはじめた。どうやら無難どころか間違った言葉を使ってしまったらしい。彼はこのことに全く気づかなかった。