壊れる家族と、蠢く欲望
第1章 金
1時限目は数学だった。
恭二、十八歳。高校三年生。髪は相変わらず金色で、授業態度も悪い。
机に足をのせ、サングラスをかけて座っている。机の上には教科書の代わりに、Louis Vuittonの長財布が無造作に置かれていた。
担任の佐藤先生が注意しようと近づいてくる。四十代半ば、背は高く痩せぎすで、頭頂は寂しい。
「恭二君、態度を改めなさい」
声をかけられた恭二は、足を下ろして立ち上がる。サングラス越しに鋭い目を向け、ゆっくり二、三歩踏み出した。佐藤先生は思わず身を引く。
「……あ?」
殴られると勘違いし、佐藤は両手を頭上で交差させた。だが恭二は机の財布を取り、札を二枚抜き出すと、佐藤の胸ポケットにねじ込んだ。
「チップだ」
恭二は何事もなかったように席へ戻る。
教師の重労働と安月給を知っているからこその皮肉だった。佐藤は怯えながらも、その二万円を自分の財布にしまい、何も言えずに授業を再開する。
生徒たちは呆気に取られ、やがて嘲笑した。教壇から偉そうに見下していた教師が、簡単に買収される――それは痛快だった。誰も恭二の行動を止めようとしない。
隣の米倉智樹が笑いながら手を差し出す。
「今日もやったな、恭二」
恭二は軽く叩き返し、ついでに黒板を一瞥した。
「ところで、定積分の計算間違ってますよ。剰余の定理でもいけますが、数学的帰納法を使えばもっと簡単です」
淡々と指摘すると、今度はスマホを取り出してゲームを始める。
彼は高校生にしては桁外れの金を持っていた。その出所は――まだ誰も知らない。
「世の中のゲームも攻略は簡単だな」
ぼそりと呟いたそのスマホには、今日も女子生徒からのLINEが次々届いていた。
「今日は四万五千円で」
「三万でいいよ」
「私は二万で」
若い体を値札に変え、自らブランドとして売る少女たち。
恭二はそれを冷ややかに見下ろし、一言だけ返す。
「君、処女? 俺は処女以外は買わない」
画面に「桜島礼子」の名前が浮かんだ。
クラスの一軍女子。彼女は鬼のような形相で恭二を睨みつけている。
(バーカ。女は処女を失えば価値が下がるんだ。甘く見るなよ)
恭二は心の中で吐き捨てた。
授業が終わり、放課後が近づく。HRで配られたのは進路希望調査票。
担任の中島先生――二十年選手の女性教師が告げる。
「親御さんとよく話し合って、進路を決めてくださいね」
恭二は鼻で笑った。親と話し合うつもりなどない。
世間体しか口にしない父と、ヒステリックな母。
彼にはもう家族など存在しなかった。
今は港区のタワーマンションで一人暮らし。金の力があれば不可能はない。
「話し合う親なんていないし、俺に不可能なんてねぇ」
そう呟きながら、第一希望の欄に一文字を記す。
――ルパン三世
第2章 悪霊
春。高田まどかは小学校へ入学した。
だが入学式に両親の姿はなかった。代わりに、家事代行のサツキが付き添っている。
クラスは1年3組。担任は若い男性教師だった。黒いスーツに通った鼻筋、爽やかな笑顔。女子たちは色めき立ち、男子は冷ややかな視線を送る。
「今日からみんなの担任になる――」
その瞬間、まどかの記憶は途切れた。
名前がどうしても思い出せない。封じ込められたように。思い出そうとすると頭痛が走り、耳の奥で囁きが響く。
「ピアノ上手だね。君のYouTube、いつも見てるよ。今度、音楽室で二人きりで――」
――やめて!!!
記憶は暗闇に飲み込まれ、断ち切られる。
気づけば再び教室。隣の席の林芳美が笑顔で声をかけてきた。
「これからよろしくね」
彼女の服は少し古びて、襟には黄色い染み。昨夜のカレーだろうか。お世辞にも裕福とは言えない。
「まどかちゃんの服、可愛いね。羨ましいな」
今日はサツキが用意した高級ブランドの服。対照的だった。
「うちはお金がなくて……って、いつもお母さんが言うんだ」
芳美の言葉に、まどかは複雑な気持ちで頷いた。
二人は打ち解け、下校を共にする。
「今日、家に来ない?」
芳美に誘われ、まどかは首を傾げた。だが帰宅も気が重かった。母の様子が、この一週間ほどおかしかったからだ。
家の異変
ある晩、食卓でのこと。母が突然、まどかを見つめて言った。
「ねえ、あなた誰? なんでうちの娘じゃない子がここにいるの?」
「ママ、何言ってるの?」
近づこうとすると、母はまどかを振り払った。
「やめて! 近づかないで!」
父が慌てて止める間に、母は台所から包丁を取り出し、自らの喉元へ当てる。
「私の中に悪霊がいるのよ!」
必死に父が押さえ込み、床に落ちた包丁がまどかの足元で転がった。
「バイオリンのコンサートで海外に行ってからだ……また薬を飲まないとな」
父はそう言って、サプリメントのような錠剤を取り出し、母に水とともに飲ませた。錠剤の瓶には見慣れぬ文字――英語ではない。
「ごめんね、まどか……こんなお母さんで」
母に抱きしめられながら、まどかは混乱していた。
後に知ることになる。瓶に刻まれていたのはスペイン語。
そして、母がコンサートで訪れた国は――メキシコだった。
芳美の家
気づけば、まどかは芳美に手を引かれていた。
目の前にそびえるのは古びた団地。外壁には亀裂が入り、生活感に満ちている。
「6階が私の家だよ」
芳美が指を差す。
裕福な家とは正反対のその光景に、まどかは妙な高揚感を覚えた。
大人の監視もなく、子供だけで自由にできる空間。
母への背徳感が、その気持ちをさらに後押しする。
「うん、行こう」
二人は手をつなぎ、部屋に入る。芳美は鍵をかけ、自室へ案内した。
「あなた、YouTubeでピアノ弾いてるまどかちゃんでしょ。
私、ずっとファンだったの。この瞬間を……待ってた」
そう言うなり、芳美はまどかを抱きしめ、首筋に唇を寄せた。
「ちょ、ちょっと……芳美ちゃん!」
押し倒され、床に転がる雑誌が目に入る。女性同士が抱き合う写真。
(まさか……芳美は……)
芳美の手がまどかの服に伸びる――その時、家の電話が鳴った。
サツキの違和感
一方その頃。
サツキはまどかの家に来ていた。だが誰もいない。
「おかしいわね……」
ため息をつきながらも、いつも通り仕事を始める。
そのときスマホが鳴った。無言電話。
「もう、また!」
切っても切っても続く嫌がらせ。
苛立ちながら、ふと自分の娘のことが気になった。
「家に着いたなら連絡ぐらいよこしなさいよ」
スマホでキッズケータイの位置を確認する。画面に表示された名前は――
林芳美。
そう、サツキの娘の名だった。