彼女だけの音色
次の日、私は気がつくと音楽棟へ向かっていた。
本当は、そんなつもりじゃなかった。
入学したばかりの私はまだクラスにも馴染めていないし、他にやることも、考えることもたくさんあったはずなのに。
それでも、足は勝手にあの場所へ向かっていた。
(……また、会えるだろうか)
少しだけ、胸が早鐘を打つ。
きっと、九条先輩は今日もあのピアノ室にいる。そう思っていた。でも、もしかしたら昨日の出来事はただの偶然だったのかもしれない。
私は音楽棟の廊下を歩きながら、昨日と同じ扉の前に立った。
ゆっくりと、ノックをひとつ。
「……どうぞ」
内側から聞こえた声に、胸が跳ねた。
私はそっと扉を開ける。
その向こうに、昨日と変わらぬ姿の九条先輩がいた。
「来ると思ってたわ」
ピアノの前に座ったまま、彼女は私を見て微笑んだ。
その表情は、凛としていて、どこか寂しげで、でもやさしい。
「……迷ったんですけど」
「来てくれて、うれしいわ」
私の言葉を遮るように、先輩はぽつりとつぶやいた。
まるで、それが本心だったかのように。
私は言葉に詰まってしまって、ただ黙って頷いた。
九条先輩は、私に隣の椅子を指さす。
私はおそるおそる近づき、静かに腰を下ろした。
「昨日の曲、覚えてる?」
「……いいえ、でも……心に残ってます」
「ふふ、うれしい。即興だったの」
先輩は少し笑って、また鍵盤に指を置いた。
音が、静かに流れ出す。
それは昨日と同じように即興で——
でもどこか、昨日よりも“私のため”に弾いてくれているような気がした。
「……私、ピアノ、好きです」
演奏が終わったあと、思わず口にしていた。
「でも、上手じゃないし、人前では弾けなくて……」
「そう。じゃあ、私の前では?」
「えっ……?」
「ここでは、ふたりだけよ。他の誰にも聴かれない」
先輩は、私の目をまっすぐに見つめて言った。
「この場所でなら、あなたの音を聴きたい。……ダメ?」
その瞳はまるで、音よりも柔らかくて——
私は首を横に振ることができなかった。
「わかりました……少しだけ、なら」
そう言って、私は恐る恐るピアノの前に座った。
指先が震える。
「……緊張してる?」
「はい……すごく」
「じゃあ、私が手を添えてあげる」
「えっ?」
先輩は、私の手にそっと触れた。
温かくて、やさしくて、心臓が飛び出しそうになる。
(……ずるい)
こんなふうにされたら、私の胸はすぐに騒ぎ出すのに。
先輩の指が、私の上に重なって、鍵盤に触れた。
小さく、ぽろん、と音が鳴る。
それだけで、世界が静かになる気がした。
「大丈夫よ。あなたの音は、きっと綺麗だから」
私は深く息を吸い、震える手で鍵盤に触れる。
——その瞬間、ふたりだけの世界が始まった気がした。