ピアノ室の扉
*プロローグ*
この学校には、誰にも言えない“秘密”がある。
私立白鷺女学院。
高い塀と黒い門に囲まれた、格式高い全寮制の女子校。
その中で日々を送る生徒たちは、礼儀正しく、規律を守り、常に品格を忘れない——
……はずだった。
でも、本当はそうじゃない。
誰もが胸の奥に、見せられない「何か」を抱えて生きている。
それは、恋だったり、憧れだったり、あるいは——誰かに触れてほしいという願いだったり。
私も、そんな秘密をひとつだけ持っていた。
ある日、誰にも知られずに開けてしまった扉。
それが、私とあの人との関係のはじまりだった。
これは、音のない世界で出会った、私と“先輩”の、放課後の物語。
***
1話
四月。春の空気は甘くて、少しだけ不安を含んでいる。
新しい制服の襟元を指でなぞりながら、私は校舎の隅にある音楽棟へと足を運んでいた。
——椎名瑠璃。
今日から、白鷺女学院の一年生。
正直に言うと、この学校に来るのは少し怖かった。
全寮制で、格式高くて、生徒の誰もがしっかりしていて。
中学ではあまり友達ができなかった私には、馴染める気がしなかった。
「誰もいませんように……」
心の中でそっと呟きながら、私は静まり返った音楽室の前に立った。
音楽棟の一番奥、少しだけ重たい木製の扉。
入学前から気になっていた“ピアノ室”だ。
私は、昔からピアノが好きだった。
だけど、人前で弾いたことはない。
指の震えを見られるのが怖くて、音を外すたびに誰かの目が気になるのが嫌で、
結局、ピアノは“ひとりの世界”でしか触れられなかった。
それでも、音に触れているときだけは、心が自由になれた。
「……入れるかな」
扉に手をかけ、そっと開けようとした、そのとき——
中から、音が聴こえた。
それは……ピアノの音だった。
静かな、でも芯のある旋律。どこか寂しげで、でも凛としていて。
曲名も分からない、即興のような旋律。
(誰か、いる……?)
一瞬、立ち去ろうかと迷った。
でもその音に引き寄せられるように、私は隙間からそっと中を覗いた。
そこで見たのは——
黒髪をなびかせ、真っすぐに鍵盤を見つめる先輩の姿だった。
制服のリボンは少し乱れていて、瞳はどこか遠くを見つめていた。
(……綺麗)
思わずそう思った。
だけどその瞬間、彼女の指が止まった。
顔を上げる。
目が、合った。
次の瞬間、私は慌てて扉を閉めた。
心臓がドクン、と跳ねる。
足が震える。どうしよう。見られた。怒られる?
「——そこの子、入って」
内側から静かな声がした。
私は吸い込まれるように、もう一度扉を開いた。
そこにいたのは、学校の中で“氷姫”と呼ばれる有名な先輩だった。
「名前は?」
「し、椎名……瑠璃です。一年の」
「ふうん、いい名前ね。私は、九条紗夜。二年」
先輩は立ち上がることもなく、椅子に座ったまま、ただ優雅に微笑んでいた。
「音、気になる?」
「……はい、すごく、素敵でした」
「よかった。なら、特別に、聴かせてあげる」
その言葉と同時に、また旋律が流れ始める。
それは先ほどよりも優しく、どこか私に寄り添ってくるような音だった。
私は静かに部屋の隅に腰を下ろし、先輩の演奏に耳を傾けた。
(……どうしてだろう。泣きそうになる)
音楽の中にある感情が、言葉よりも強く胸を打つ。
初めて会ったのに、私はこの人のことをもっと知りたいと思った。
そしてこの日を境に、私は毎日のように音楽棟へ通うようになった。
それが、誰にも言えない、私の最初の“秘密”だった。