1.白雨
「――すまん、ほんまに、心から、申し訳ないと思うとる。俺は許されへんことをした。一生許してもらえへんのは分かっとる。でも、俺、あかん……お前しかおらんねん……お前しか……」
真っ黒な分厚い雲が空を覆い尽くして、嵐のような土砂降りの雨が降っていた。
着物が汚れるのも厭わず雨で濡れた地面に膝をつき、雪のように真っ白で細い手をぎゅっと握って額に押し付けながら謝罪する『自分』を、じいっと見下ろす獣のような視線。
その鋭い視線に耐えられずにごくりと生唾を飲み込み、細い指が折れるのではないかというほど強く握りしめて小さく震えながら返答を待つと、息を吸い込む微かな音で空気が揺れた。
「――ええよ。そん代わり、一個だけ約束してほしいことがあんねん」
その『約束』が何なのか、雨音のせいでうまく聞き取れない。
「なぁ、この約束、ちゃぁんと覚えとらなあかんで?」
強く握りしめていた俺の手を解いて、細い指がくいっと顎を掬う。大量に降り注ぐ雨と分厚い雲に覆われて暗い視界に映ったのは、三日月が二つ。
――三日月が二つ?
ピピピッ ピピピッ ピピピッ
「………夢か……」
耳元で忙しなく鳴っているスマホのアラーム音を解除して、意識はもう一度夢の中に旅立とうとしていた。どうせ5分後にもアラームを設定しているし、いま二度寝してもさほど影響はないだろう。
二度寝を決め込もうとしたのだけれど、意識が飛びそうになる寸前、アラームではなく大音量の着信音によって四之宮晴臣は眉間に皺を寄せながら通話ボタンをタップした。
「……はい……」
「あ、晴臣?母さんだけど」
「はい……」
「今日こっちに帰ってくるんでしょ?新幹線に乗る前に、駅で売ってるジャムおばさんのチーズケーキ買ってきてくれない?」
「んー……」
「ちょっと晴!起きてさっさと支度しなさいよ、いいわね!」
「…わかった……」
「チーズケーキ買ってこなかったら、おじいちゃん家使わせないからね」
「……分かったってば」
何か急ぎの用事かと思ったのに、実家に帰省する息子に『チーズケーキ買ってきて』なんて、別に電話じゃなくてもいい用件ではないだろうか。
母との通話を終えると、もう一度セットしていたアラームが鳴る時間。けたたましい音が鳴り響く前にアラームを止めると、最初から起きようと思っていたら何だか気持ちがいいけれど、束の間の眠りを邪魔されて起きた時は『うるさいアラーム音まで聞きたくない』と多少イラっとして解除するものだ。
晴臣は一度大きく伸びをしてからベッドを出て、カーテンを開けると柔らかい朝の光が部屋の中に差し込んだ。
「晴れてよかったなぁ」
寝起きには眩しいほどの太陽がぴかぴか輝いている。今日はこんなに晴れているけれど昨日までは土砂降りの雨が続いていた。実家には新幹線で帰るのだが、運行休止になるかもしれないほどの天気だったのだ。
一応新幹線の運行状況を確認すると運休にはなっていなかったので、予定通り出発できるだろう。
「チーズケーキも頼まれたし、早めに出るか」
母に念を押されたので買い忘れたら本当に地獄を見ることになる。というか、祖父母の家を使わせてもらえないなんてことになったら一大事になる理由があるので、母の機嫌を取っておくに越したことはない。
荷造りは昨夜あらかたしておいたので、あとは細々としたものを入れたら家を出るだけだ。まあ、忘れ物をしたとしても実家に帰るので何とかなるだろう。
予定していた時間より30分早く家を出て、母から指示された『ジャムおばさんのチーズケーキ』とやらを見つけるために構内をうろうろと捜索する。構内を彷徨って何分か経った頃、どこかに続いている大行列が『ジャムおばさんのチーズケーキ』を売っている店に続いていると分かり、絶望した。元々新幹線の時間まで大分余裕はあるし、なんなら昼ご飯を食べてから乗るつもりだったので行列に並ぶことはできるのだが、いかんせん待っている時間が暇だし面倒くさい。
「晴!マジで並んでたんだ!」
「燐……!来てくれてよかった」
「そりゃ来るでしょ、待ち合わせ場所にいないんだから」
「ごめんごめん」
並び始めて何センチか列が進んだ頃、今回一緒に実家に帰るつもりの恋人・黒須燐が列に合流してくれた。
「お母さんに頼まれたんだって?」
「うん。まさかこんな行列になってると思わなかったけど」
「この前テレビで取り上げられてから更に人気出たらしいよ。あ、てか、俺が買うから!晴はお金出さないで」
「なんで?頼まれたのは僕だって」
「ダメダメ、こういうところで気が利く奴アピールしとかないと」
「あ、なるほど……」
燐は晴臣にとって初めての恋人で、同性同士の付き合いをしている。今回の帰省は家族に恋人を紹介するために帰るわけではないし、晴臣に恋人がいることすら誰にも言っていない。
晴臣と燐にとっては『二人で』帰省するという共通認識だけれど、晴臣の家族には友達が泊まりにくると伝えている。燐は密かに晴臣の家族からの株を上げようと思ってくれているのか、晴臣が母に頼まれたチーズケーキを燐が買ってくれると言い出したので、彼の健気さにくすりと笑った。
「晴の地元に行くのさぁ、めちゃくちゃ楽しみにしてたんだよね」
「本当?」
「うん。恋人の実家っていうだけで、連れて行ってくれるのすごく嬉しい」
「そっか。僕は燐を誘うとき、結構緊張した」
「そうなの?」
「僕も恋人を家に連れて行くとか初めてだから。父さんたちにバレないかが心配」
「俺はバレてもいいけどね?」
「もう少し僕に優しくしてよ、燐」
「俺はいつも優しいだろ〜?」
できることなら、燐を恋人として家族に紹介したいのは当たり前だ。でもカミングアウトもしていないし、こういうことはどうやって進めたらいいのか分からない。慎重に話を進めないと自分も家族も傷つくかなと思うと、もう少し時間をかけて家族と燐の関係を築いていきたいと思っている。
「そういえば店の下見もするんだっけ?」
「うん。今までずっと手付かずだったけど、母さんが少し綺麗にしてくれたらしくて。リノベとかしないといけないんだよね」
「前はお豆腐屋さんだったんだよね。俺、お豆腐ってスーパーでしか買ったことないかも」
「スーパーで何でも揃うからなぁ。うちの両親も継がずに、じいちゃんたちの代で終わったし」
「へぇ、そうなんだ」
晴臣の母親の実家が昔豆腐屋を営んでいた。両親が共働きで忙しかったのもあり、晴臣はよく祖父母の住居でもある豆腐屋で過ごしていたのだ。
自分の家での思い出より、祖父母の家で過ごした思い出のほうが幼少期は多いかもしれない。豆腐を作っている祖父母の手伝いをしたいと幼い頃の自分はよくわがままを言ったもので、近所では豆腐屋の看板息子だと呼ばれていたのを覚えている。
祖父が亡くなってからも祖母が一人で切り盛りしていたが高齢だったのもあり、豆腐屋は閉店したのだ。それから祖母は施設に入所したので祖父母の家は手付かずのまま残っていた。 そんな祖母も亡くなり、母もその家をどうしたらいいのか悩んでいたらしい。
晴臣は調理専門学校を卒業後、今は料亭で料理人として働いている25歳だ。いつか自分の店を持ちたいと思っていて、そのための資金も貯めていた。そこで母から祖父母の家をどうしようか迷っているという話を聞き、自分が譲り受けるという話をしたのだ。
ちなみに、燐とは働いている料亭のお客さんとして出会い、彼のほうからアプローチをされて付き合い始めた。今まで色恋沙汰とはほぼ無縁で、燐は初めて付き合った人である。そんな人が一緒に実家に来てくれるなんて、晴臣にとっては夢のようだった。
「うわーっ、最悪!」
「燐、一旦ちょっと雨宿りしていこう!」
新幹線や電車を乗り継いで地元に着いた頃には夕方で、それまではぴかぴかの晴天だったのに、家に着くまでの道をのんびり歩いていたら突然雨が降ってきた。
「にわか雨だからすぐ止むとは思うけど……」
田舎なのもあり、コンビニや店などが近くになく雨宿りできる場所が少ない。まるで導かれたかのように、廃れた神社に足を進めた。
「まさかこのタイミングで雨が降ってくるとはねぇ」
「本当に……ごめんな、燐」
「ううん。こういうのも旅行の醍醐味じゃん!」
悪いことが起こっても燐はこうやって笑いながらポジティブに考えてくれる。そういうところに晴臣はいつも助けられているし、燐の好きなところだ。
「寒くない?」
「晴にくっついてたら大丈夫」
実家に行くとこういうスキンシップも気軽にできないから、雨が降ってくれて逆によかったかもしれない。
「ちょうど神社があってよかったね」
「あー…だね」
この神社に来たのは大分久しぶりだ。晴臣の記憶の中よりも少し荒廃しているが、油揚げのお供え物があるということは、今でもこの神社に通っている人がいるということだろう。
神社の建物自体は老朽化しているが、ゴミ一つない境内を見ることで晴臣がここに通っていた頃の情景を思い出した。昔、中学生の頃だったか、今のように夕立に降られてこの神社で雨宿りをしたことがあったのだ。
制服は学ランだったのだが、家で洗濯をするのは難しいんだから汚さないでと母から口酸っぱく言われていた。いつも折り畳み傘を鞄を入れておきなさいと言われていたのに忘れていたので、二重の意味で怒られるのを恐れた晴臣は雨が止むまで神社にいることにした。
この神社は昔から結構廃れていて、常に管理者がいるわけではない。それなのに神社によく通っていたしここなら大丈夫だと思っていたのは、理由があった。
「――なんや、懐かしい子ぉがおるなぁ」
忘れたわけではなかったけれど、会うのにはとても勇気が必要だった。降り注ぐ雨に紛れるようなウィスパーボイスが晴臣の鼓膜にねっとりと絡みつく。
昔から変わらないこの声の主に心臓を握られているかのように、晴臣の胸がぎゅっと締め付けられた。
「おっきなったなぁ、ほんまに」
そろりと目線を声のほうに向けると、サラサラの金色の髪の毛からぴょこんっと縦長の狐耳を揺らしている美麗な男性が笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
髪の毛や耳と同じように金色の尻尾が四本ふわりと揺れていて、細長い金色の瞳が三日月のように弧を描いている。
久しぶりに会った『彼』の姿を見て、その美しさに息をするのも忘れてしまった。
「晴ーっ!あんたこんなところにいたの!?だから駅で待ってなさいって言ったじゃない!」
彼の金色の瞳を見つめたまま、まるでここだけ時間が切り取られたように静止していたが、大声を出しながら神社の鳥居をくぐる母の声にハッと我に返った。
「晴のお母様ですか?初めまして、黒須燐です!ちょっと雨に降られて雨宿りしてました」
「この子が気が利かないばっかりにごめんねぇ、黒須くん。晴の母親です、よろしくね」
燐と母が和やかに挨拶を交わしている中、二人のやり取りを見ている晴臣の後頭部には鋭い視線が突き刺さっていた。
その視線に耐えられなくて再びチラリと『彼』を見ると、ニコッという効果音が聞こえてきそうなほどの笑みを向けられる。この状況を『気まずい』と思っているのは、もしかしたら自分だけなのかもしれない。
「二人とも濡れちゃってるじゃない!風邪引いたら大変よ。さっさと家に帰りましょ」
「ありがとうございます!ほら、晴!行こう」
「あ、うん……」
母も燐も『彼』に気づいていない。
気づいていないというか、二人は『彼』のことが見えないのだ。
「ふふ、おかんが迎えに来んのも昔のまんまや。ほんなら"またな"、晴臣」
いつの間にか雨が止んでいた。雲の隙間から地上に差し込む光が地面に反射して、白んだ光が眩しくてくらりと眩暈がした。
「晴、行こう!」
燐の声に晴臣が目を開けると、白んだ光のように白く細長い手を『彼』が左右に揺らし、口元に笑みを浮かべて鳥居の内側から晴臣を見送っていた。
「どうしたの?具合悪い?」
「いや……大丈夫」
「あの神社、ちょっと怖かったね」
「え?」
「なんか寂れてたし、狛狐も一体しかいないの気味が悪かった」
一匹狐の玲瓏稲荷神社。
昔は二匹の狛狐がいたらしいが、番の一匹がある日突然台座からなくなっていたらしい。狛狐は像なので勝手に動くことはないので、誰かに盗まれたのだろうと言われている。でもそれは何百年、いや、何千年も昔の話だから現代の今では何が原因だったのか明確な理由は分かっていない。
ただ、一匹になった狛狐が夜な夜な番を探しに出掛けているとか、あの神社で白い幽霊を見たとか、番をなくした狐と同じように不幸になるなどの不穏な噂が広まって、いつしか玲瓏神社には誰も近寄らなくなり廃れていったのだとか。
でも一部の人は今でも供え物をしたり境内の掃除をするなど、まだ信仰心を失っていない人がいるらしい。
不穏な噂とは別に、神使である白い狐を見た参拝客が幸せになったとかそういう話もあるので、そういった一部の参拝客の支持で今でもあの神社は完全に廃れずギリギリで保っているのだろう。
「……でも、そんなに悪いところでもないよ」
「晴、昔からあの神社のこと好きだものね」
「そうなの?」
「何かといえば神社に遊びにいってるような子だったのよ。この子のおじいちゃんが豆腐屋をしててね、そこで油揚げをもらってはお供えしに行ってたわよねぇ」
「へー!そんな可愛い頃があったんだ」
「あとでアルバム見せてあげるわね」
「いや、アルバムはちょっと恥ずかしいから!」
「お母さん、ぜひぜひ見せてください!」
「燐……!」
家に帰ってからは結局、母の計らいでアルバムを何冊も取り出して燐と盛り上がっていた。父も社交的な燐を気に入ったようで、酒豪でもある燐と日付が変わるまで飲んでいた。
「めーっちゃいいご両親だね、晴」
「そう言ってもらえてよかった」
「晴がいい男に成長した理由が分かったよ」
晴臣の部屋に布団を敷いて、燐は赤くなっている顔でふにゃりと笑いながら晴臣に手を伸ばす。その手を取るといつもよりとても熱くなっていて、火傷してしまいそうだった。
「おやすみぃ、晴。大好きだよ」
「ん……おやすみ、燐」
眠気もあるのかとろんとしている燐の体を一度ぎゅっと抱きしめて、目を閉じる彼の頭を撫でながら燐が就寝するのを待った。
「――またなぁ言うて、まさかこんなに早う会えるとは思わへんかったわ」
午前2時。すっかり深い眠りについた燐を起こさないよう、晴臣はこっそり家を抜け出した。
寝ようとしてもなかなか寝付けず、夕方あの神社で出会った『彼』のことで頭がいっぱいになってしまったから。
「あかんで晴臣。小さい子ぉがこんな夜中に家出たら危ないて言われとるやろ?」
「……もうそんなに小さい子じゃないですよ」
「ふふっ、ほうか。せやなぁ…ほんま、人間の子ぉはすぐにおっきなるなぁ」
家を抜け出した晴臣が向かったのは玲瓏稲荷神社だ。神社の中は月の光でなんとなく青白く発光しているように見えて、境内に座っている『彼』もまた、体の周りがぼんやりと光っているように見えた。
「……閏さん、僕、もう25歳になりました」
「んー、でも、おれにとっては赤ちゃんみたいなもんやで」
「昔っからそれしか言わないじゃないですか……」
美しい金色の四本の尻尾を持つ『彼』の名前は閏という。
閏の姿は他の人には見えないが、晴臣にだけは『人間』の姿も『狐』の姿も見える。物心つく前から晴臣には閏が見えていて、高校を卒業するまでこの玲瓏神社に足繁く通っていた。
昔は晴臣も玲瓏稲荷神社に通う信仰深い参拝者の一人で、祖父母が営む豆腐屋から油揚げをもらってはお供え物として閏に渡していたのを思い出す。
閏はこの神社に残る『番のいない一匹狐』で、この神社の守護神である神使なのだ。今も昔も閏は変わらず綺麗――いや、妖しい雰囲気を纏っている。
月明かりの下で見る閏はより一層幻想的に見えて、自分は夢の中にいるのかもしれないと思ったほど。
「晴臣、帰ってきたのは何年振りや?」
「えっと…5、6年振りくらい、ですかね」
「人間の時間で言うと長いやんな、6年って。ほんで、恋人連れて帰ってきたんか」
「こっ、恋人、って」
「ふ、かわええなぁ。おれが分からへんとでも思うた?」
閏には昔から晴臣が考えていることを全て見透かされてしまう。昔はそれに驚いて閏に心を読む力があるのか聞いたのだが、彼は『神使やから言うてなぁんでもできるわけやない。人の心なんて読めへんわ』と笑っていた。
だから閏にそういう力がないと分かっていても、彼に紹介もしていない燐のことを『恋人』だと言い当てられたことに多少驚いたのだ。
「晴臣がこれから先もあの子ぉと上手くいきたいんやったら、そのお願いを聞いたってもええよ?晴臣だけ、特別や」
「いや、それは――っ!」
困る。
そう言い終わる前に晴臣は自分の口を手で塞いだが、閏には意味がない行動だろう。
恋人である燐とこれから先も仲良く、上手くいくのであればそのほうがいいに決まっている。恋人や好きな人がいる人は大体、その恋愛がいい方向にいくように願う人が多い。頭の中では晴臣もそう思っているのだけれど、考えていることと心と言動が一致しなかった。
燐との『未来』を叶えられて『困る』理由に、少なからず心当たりがあるからだ。
「――ふふ、ほんまにかいらしい。晴臣はこまいときから変わってへんなぁ」
長い前髪の隙間からこちらをじぃっと見つめている閏の瞳が弧を描き、三日月が『二つ』浮かんでいるように見えた。
「おれに言った"約束"、ちゃぁんと守ろうとしてるんか?晴臣」
真っ白な手に優しく頬を撫でられると、閏との過去が晴臣の頭の中を駆け巡った。
白雨 -はくう-
夕立、にわかに降りやむ雨のこと。