275話 海としずはの誕生日会 その3
「――はぁ、はぁはぁ……ありがとうございましたーっ!!」
「うおおおおお〜〜っ!!」
『空想ライティング』の演奏が終わり、挨拶をすると、その瞬間に拍手と称賛の声が響き渡った。ルーシーと真空は完璧とまではいかないが十分に弾けていたし、麻悠なんて一回しか聴いていないのにほぼ完璧だった。
演奏にしては上出来だったと思う。久しぶりのボーカルに息を使いすぎたのかもしれないけど、目の前のしずはが喜んでいる様子を見ると、よくやったと言える出来だろう。
俺たちはバンドメンバーでハイタッチをしてから、舞台を降りた。
「…………光流、かっこよかった」
「ありがとう」
しずはに近づくと彼女からの純粋な声が届いた。
正直、しずはのピアノの演奏とは比べるまでもないレベルなのだが、本物にそう言われると俺だって嬉しい。
「ちょっとー、私も褒めてほしいな〜」
すると後ろから遅れてルーシーがやってくる。
「はいない。あんたも良かったよ」
「光流のと全然違う〜」
「当たり前でしょう」
あからさまに俺とルーシーへの評価を差別しているが、これもしずはなりのルーシーに対する愛情のようなものだろう。ルーシーだって、それがわかっているから本気で怒っているわけではない。
「よう、九藤〜! お前すげーな! 惚れちゃいそうだったぜ!」
「そう? ありがとう」
興奮覚めやらぬ様子の家永が俺の肩に手を回してきて褒めてくれた。
彼は仲良くしている友達の中でも、一番感情が豊かな友達だ。
「九藤くん、僕からも……凄かったよ。宝条さんもね……これならいつか星さんにも……」
次にやってきたのは有悟。ちょっと意味深な発言もあったけど、今は気にしないでおこう。彼は俺の知らない芸能界のことをよく知っている。
「有悟にそう言ってもらえて嬉しいよ」
「うん。僕の目標だからね。あれくらいはやってもらわないと」
「なになに、目標〜? どういうこと?」
「ルーシー。今のは気にしないで」
「気になるじゃん〜〜っ!」
有悟は俺を目標にすることで、俳優業に戻り活躍すること。俺なんかを……とは思うが、彼の頑張る理由になっているならそれで良い。
そうしてしばらくバンドの話に花を咲かせたあとは、良い時間になったので、お風呂に入り、その後は寝る人は寝て、起きる人はリビングに再び集まってトランプなどをしたりして過ごした。
十二時を過ぎるともうほとんどの人が眠りについており、海際の波音しか聞こえない。
「…………」
時間が経ったはずなのに、まだ演奏した時の興奮を体が覚えていて、そのせいなのか眠れなかった。俺は起き上がり、ベッドで眠る冬矢と開渡を横目に一階のリビングへと向かった。カバンの中からとある物を取り出して――。
「あそこにしようかな」
大窓を開けると広がっていたプール。横にはビーチチェアがあり、俺はそこに腰掛けた。
「風が気持ちいい……」
クーラーはつけてはいるが、夏だけに寝苦しかった。でもここは海からの囁かな風が体に吹いてきて心地よく感じた。
「ひーかーるっ」
「うおっ」
風に身を任せていたところ、突然背後からガララと窓が開き声がした。
振り返るとそこにいたのは――
「しずは?」
「一人で何してるのさ」
「ちょっと寝苦しくて、外の風に当たりにきた」
少しばかり露出が多い部屋着姿のしずはがそこにはいた。
手にはブランケットを持っており、俺と同じように風に当たりにきたのかもしれない。
「隣失礼するね」
「……うん」
いつぞやのルーシーのようにビーチチェアをくっつけて、隣に座ったしずは。
少し距離が近い。
月明かりだけが照らすこの場所は本当に暗い。海も目を凝らさないと見えないほどだ。
「……光流はさ、これからどうしていくつもりなの?」
「唐突だね。……うーん、まだ全然わからない。バンドだってどうなるかわからないし」
そう聞くしずはの将来は決まっているようなもの。あとはどれだけ有名になれるかという領域まで到達している。まだ十六歳だということが信じられない。
「そっか。まだ高一だもんね」
「うん。だから少しだけしずはが羨ましい」
「そうかな……ううん、そうかもね。生まれた家が音楽一家だったらか、どの道似たような将来を目指してたと思う」
しずはの家は全員が音楽関係者。しかも有名じゃない人がいない。
その血統からもしずはは音楽の道へ進む運命になっていたのかもしれない。
「でもね、最近思うんだ。――バンドは続けないと思うんだ、俺たち」
「そう、なの……?」
これは感覚的な問題だ。
そして俺がそう思ったのは、あの四乃坂星と出会った時。
大スターへの道を駆け上がっている星さんに目をつけられているルーシー。
多分ルーシーの才能は放っておかれるわけがない。いずれ見つかってしまうルーシーは、エルアールへの道に進んでいくだろう。
だからバンドをやるとしても、そこにはルーシーがいない気がする。
「でも、自分なりに努力はしていくよ。何を努力するかはこれからだけど」
「うん……光流はそれでこそだよ。……私の好きな光流は」
「…………」
さらりと好きという言葉を使ってくるしずは。
今のしずはは、どこか湿っぽい雰囲気だ。
「てか……こんなタイミングなんだけどさ。これ」
「え……?」
俺は先程カバンから取り出してきた小さな袋をしずはに手渡す。
「本当はこっそりしずはの部屋の前に置こうと思ってたんだけど、深月もいるからさ。……誕生日プレゼント」
「へ……へ? だって、もう誕生日プレゼントは色々もらって――」
暗くてあまりしずはの表情は見えないが、驚いている顔が想像できた。
「今回は皆でのプレゼントって感じだったじゃん。あとコンクールで優勝したからさ、だから俺個人的なものを渡したくて……」
「もう……なんで光流こんなこと……っ」
しずはが涙声になっていくのがわかる。
まだ中身を開けてすらいないのに、嬉しそうにしているのがわかった。
するとしずはが袋をごそごそしはじめて、中身を取り出す。
中から出てきたのは――、
「え……これって……だって……え?」
「高い物じゃないよ。俺としずはと言ったらこれでしょ」
「ぁ……ぁ……っ」
しずはが手に持っていたのは、数千円で購入したハンドクリーム。
俺が二度しずはにプレゼントした"あのハンドクリーム"だ。
「ばかぁ……なんでこんなことするの……っ。ぐすっ……嬉しい……嬉しいけど……だから光流のこと好きになるんじゃん……っ」
「俺はさ、十歳のあの頃から、しずはのことを尊敬してる。それは今も変わらない。わかってると思うけどさ」
「ばかぁ…………」
しずはが俺の肩に軽いパンチを繰り出す。全く痛くはないが、彼女の気持ちが伝わってくるかのように、別の痛みを感じた。
しばらくすると、しずはは泣き止み、鼻水をすする。
「――光流……ずっと好き」
「……うん」
「私を狂わせた悪いやつ……でも……好き」
「……うん」
「私のピアノの実力をここまで引き上げてくれた光流……好き」
「……うん」
正直、俺がしずはに与えた影響など微々たるものだと思う。
そのほとんどが彼女の努力によるものだから。俺が関わったとしても、ほんの少しだけきっかけを与えたようなものだ。
その、気持ちには答えられないけど……。
「私ね――高校卒業したら、海外に行くの」
「………………へ?」
一瞬、何を言われたのか理解に苦しんだ。
海外? 日本にはいない。ずっと? いつまで?
もう、しずはには会えない?
「本当は今、言うつもりはなかった。高校三年生の卒業ギリギリで言うつもりだった。……でも、今言いたくなった」
「海外って……なんで?」
「もちろんピアノを学ぶためだよ。日本だけじゃわからないものを本場で学んで、もっと上に行くの。私が誇れるものはピアノだから……ピアノが全部を繋げてくれたから」
そうか……そうだったのか……。
確かピアノの聖地といったらオーストリアのウィーンとかドイツとかだよな……遠いなぁ。
「これ、他の人には言わないで……。深月と家族しか知らないから……ルーシーにも」
「え…………うん……でも……そんな……」
「――全部、光流のせいなんだから」
まだ頭の中が混乱しているというのに、しずははさらに追い打ちをかけるように言葉を続ける。
「こんな言い方ズルいけどね。私はずっとズルかったから……」
「何を言って――」
「――音楽室で光流に告白した時のこと、覚えてる?」
もちろん覚えている。あんなの忘れられるわけもないし、今思い出してもあの時のしずはの言葉と演奏は覚えている。
「あの時の私ね、ピアノのやる気がなくなってたの。光流のために頑張ってたようなものだったからさ……でも、深月に言われたんだ。もっと凄いやつになって見返してやりなさいって。光流が手の届かないくらい凄いやつになれって……」
「ぁ…………」
優しい声でしずはは俺が知らない、あの音楽室での出来事を語る。
音楽室から出たあとは、階段に深月が座っていて、俺と入れ替わりで音楽室に向かって――そのあとはわからなかったけど、そんな話が……。
「だから海外に行ってもっと凄くなろうって思ったの」
「そういうことだったのか……」
なら、俺が告白を断らなかったらどうなっていたのだろう。
……どうあっても、しずはは海外を目指していたのではないだろうか。俺はそう思う。しずはの努力の凄さは俺が知ってる。それなら、自然と海外を目指してもおかしくないのだから。
「光流、いいの? 私を逃したら……もっともっと会えなくなるよ?」
「なんだよ……ズルい言い方しやがって……」
「さっきも言ったじゃん、私はズルいって。ルーシーなんかより何倍もズルくて……でも、それだけ光流のことはやっぱり好きで……」
高校を卒業して海外へ行くなら、後二年――約一年半でしずはは日本を離れる。
なら、俺たちが一緒にいられるのはその一年半ということになる。簡単に集まったりもできない。
でも、そうだとしても俺はルーシーが好きで、それは最初から変わらなくて……しずはのことは絶対に選べなくて……。
「光流はほんとに一途で嫌になるね……全然ブレないんだもん。それが光流なんだろうけどさ」
「うん……ごめん……」
「ま、卒業するまでは諦めるつもりはないけどね……だから――」
その瞬間、頬に柔らかな感触が伝わった。
衝撃で俺は動揺し、どうしたら良いかわからなくなる。
あの、水族館以来だろうか……。
「えっと……」
「そんなんじゃ、いつか唇奪っちゃうよ? いいの?」
「いや……そうじゃなくて……」
「じゃ。私寝るね。光流も温かいからってここで寝たら風邪引くよ」
「ぁ――」
俺が何か言う前に、しずははそのまま室内へと戻ってしまう。
しずはの気持ちは十分に伝わってくる。
それでもその気持ちには答えられない。
十歳のあの頃から俺はずっとルーシーだけを見てきた。
努力も失敗も、すれ違いも乗り越えて、やっとここまできたんだ。
俺はルーシーが好きだ。
それだけは何があっても変わらない。
ブランケットを残していったしずは。
俺はそれを借りてもう少しだけ、この場所にいることにした。




