第270話 記憶の旅 その3
——それから、たくさんの過去を見た。
『ルーシー、編み物はこうやるのよ。……あ、そうじゃなくて、こうよ。ふふ、それで合ってるわ……あなたまだ小さいのに器用ね』
『ルーシー行くぞ〜! ついてこい! お前はお姫様役だ! 俺は王子様! ハッハッハッハッ〜!』
『へぇ……あなたルーシーって言うの? ラ、ラ〜♪ こんな声出せるかしら? ま、あなたには縁のないことね』
『お嬢様……そちらは危ないです……プールに落ちたら私が旦那様や奥様に叱られてしまいますので……!』
『ルーシー……雷怖かったよね。今日は僕と一緒に寝よう。あ、良いことを思いついた。確か父さんが耳栓持ってたはず。ん〜、ルーシーの耳に合うかはわからないけど……』
『わわわっ、ワタクシがおおっ、おともだちになってさしあげますわっ! ええ、このコウキでうつくしいワタクシがっ!!』
『今日は疲れましたね。お嬢様、お車でぐっすりお眠りください……』
『そのふくろ……さしぇ! なくすなよ、るーしー! じゃあね!』
ほとんどが温かく、じんわりと心をぽかぽかにする思い出だった。
小さな私はワガママで、家族にこれでもかと大切にされ、愛されていた。
ただ一人、知らない女の子が出てきたけど、見覚えがない。誰なのか、検討もつかなかった。
誰なんだろう。
思い出に出てきたということは、特別な人なのだろうか……。
と、そう思った時だった。
私の意識が白い靄に飲み込まれていくのがわかった。
あぁ、そんなに多くの思い出ではなかったけど、心温まるような……そんな思い出だった。
◇ ◇ ◇
「んっ…………」
ルーシーがふと目を覚ます。軽く目を擦り、日差しを弾き返すような強い肌が、夕焼けの光を綺麗に反射させていた。
「ルーシー、おはよう」
「ひか、る……」
起きると、ルーシーは俺と目が合い、そして周囲を確認するように首を振った。
どこにいるのか理解したようで、落ち着くように背もたれに寄りかかった。
ここは車内。須崎さんが運転する車の中だった。
既に緑が多い山道を抜け、車窓からは富良野市の中心街の様子が見えていた。
ルーシーが倒れてると、俺と須崎さんですぐさまルーシーを車の中へと運び、そのまま帰路についたのだ。
呼吸は落ち着いているし、眠っているかのような状態だったため、それほど心配はないと判断した。
記憶のフラッシュバックは、人にとって大変な出来事だ。もし、この後のルーシーの話を聞いて苦しそうなら病院へ連れて行こうかとも考えたのだが——、
「頭痛い? 大丈夫?」
「ううん……痛くない……それよりか、スッキリしてる気がする……」
「病院行こうか?」
「大丈夫だよ。ありがとう……寝起きでぼやっとしてるだけだから」
ルーシーは大丈夫そうだ。
俺は須崎さんにバックミラー越しにアイコンタクトをして、そのまま祖父母の家へと送ってもらうことにした。
◇ ◇ ◇
祖父母と一緒に夕食を取り、お風呂に入ったあとは二人きりの時間となった。
古紙の匂いに包まれながら、目の前に敷かれた二つの和布団。安心する匂いに、俺は心地よい気持ちになった。
聞いていた通り、富良野の夜は寒く、Tシャツ短パンでは少し肌寒かったので、一般的な長袖のパジャマを着込んだ。
一方のルーシーはふわふわもこもこの気持ちよさそうな素材のパジャマだった。それだけであまりにも可愛い。
と、言うか。隣同士で一緒に寝るのって……初めて!?
ルーシーといる時はいつも近くにいるので、そこまで気にはしていなかったが、よく考えてみると、とんでもないことになっているのでは?
「光流……お布団、くっつけよ?」
「あ、あぁ……」
ルーシーも少しばかり今の状況を気にしているのか、どこか上の空のように思えた。
俺とルーシーは布団をくっつけて、枕も近づけた。
「——いろんなこと、思い出したんだ」
俺からは聞かなかったが、ルーシーが静かに五歳より前の記憶のことを話しはじめた。
今、俺とルーシーは布団の中で向き合い、手を握り合って会話している。電気は消しているため、ほとんどルーシーの顔は見えないが、すぐ目の前にルーシーの温かさを感じる。
ルーシーから聞かされたのは、五歳より以前の話。誕生日会で大勢の人からプレゼントを贈ってもらったことやイギリスの祖父母のこと、それに家族や親しい人のこと。
一人知らない女の子が出てきたと言っていたが、名前はわからなかったらしい。
「じゃあ、悪い思い出はなかったんだ」
「うん、私……ワガママやってたけど、幸せだったみたい……」
良かった。ショックな出来事が思い出になくて。それならば、これからルーシーはどうするのだろう。
「思い出して、これからどうしたい?」
「……思い出した人に会いたい。それで、子供の頃にやってたこと、もう一度したい」
ルーシーはまた一歩前に進めたようだった。
すると、ルーシーの握る手の強さが強くなった。
「光流……もうちょっとこっちきて……」
「…………」
少しだけ恥ずかしそうに呟いたルーシーがぎゅっと俺の手を引く。
「これでいい?」
「うん……いい」
今、俺はルーシーを抱きしめているようなポーズになっている。そのルーシーは俺の胸に顔をうずめていた。
「こうするの、久しぶりかも……」
「そう言えば、そうかもしれない」
彼女の良い匂いと体温を感じる。
こうしているだけで、どこまでも幸せを感じた。
だから、もう……良いよな。
この数ヶ月で、よくお互いを知ったよな。
「ルーシー……俺、ルーシーのこと……」
「…………」
名前を呼ぶも反応がない。
「ルーシー?」
「…………」
もう一度呼びかけるも変わらなかった。
寝てしまったようだ。しょうがない。彼女も富良野まで遠出して疲れたんだろう。
だから俺も彼女の寝息を聞きながら、夢の中へと入ることにした。
◇ ◇ ◇
「────」
え?
え、え……?
今、光流何を言おうとしたの?
胸が、熱い……。
なんで私、寝たふりなんてしてしまったんだろう。
しなくて良いはずなのに……なんで……。
その、覚悟がまだ自分には足りてないから?
もう十分に私のことも知られて光流のことも知って、互いに理解してきたのに?
私って、本当にタイミングに恵まれていない。
いや、私の勇気がないだけなんだ。
次は……次こそは……ちゃんと気持ちを伝えられる機会がくれば──、
「光流……」
大好きだよ。
そう声にして言いたい。
私は彼の心音と寝息を聞きながら、眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇
そのニュースは突然舞い込んだ。
朝起きて、光流と祖父母と一緒に朝食を食べている時だった。
『これは快挙です。ジュニアの部では世界最高峰とも言われる『クラヴィオ国際ピアノコンクール』にて、なんと日本の藤間しずはさんが第一位を取りました』
「────え」
光流の祖父母がつけていたテレビから流れてきたのは朝のニュース番組。朝食を食べながらBGMとして聞いていただけなのに、聞き逃せないキーワードが出てきたのだ。
『これはどのくらいの快挙なのでしょうか?』
『十年前の五位が最高だったので、その記録を打ち破るとんでもない快挙ですね』
司会者がアナウンサーの解説を聞き、うんうんと頷く。
『であれば、ピアノ界では今後注目の女子高生ということになりますね』
『はい。それに藤間さんの母親が世界的にも有名なピアニストの藤間花理さんだと言うのですから、これは母親の血を濃く受け継いでると言ってもいいのではないでしょうか』
「…………」
しずはの紹介が終わると、私と光流は顔を見合わせた。
「ね、ねえ光流! ねえ!」
「わ、わかってるよ! だからそんなに揺らさないで!?」
興奮で光流の肩をぐらぐらとゆすってしまった。
「なんだいこの子と知り合いなのかい? ルーシーちゃんもそうだが、この子も偉い別嬪さんじゃないか」
「そうなんです! しずははすっごく可愛くて私の友達なんです!」
光流の祖母がそう言うと私が自分のことのように自慢げに話した。
それにしても、しずは……本当に凄い。
最近だってほとんど皆と遊ばず、顔を出してくれたのは勉強合宿とコスプレ撮影の日くらい。他は一切遊ばず、すぐに家に帰ってピアノの練習をしていた。
「なんでしずはメッセージ送ってくれないのよ! 約束してたのに!」
「約束?」
「うん──」
あれは、勉強合宿の時だ。
しずはと二人きりで話した時の。
『あんたのために私が頑張って優勝したら、どうなるのよ』
『何でもしてあげる。私にできることなら、何でも』
『――良いよ。ルーシー、あんたの為に優勝してやる』
「コンクールで優勝できたら、私がしずはに何でもしてあげるの!」
「そんな約束を……」
「でもその前に、なんで優勝したこと連絡しなかったのって言わなくちゃ!」
「俺にも連絡なかったしな。忙しかったのかもしれない」
しずはへの怒りもありながらも、嬉しさの方が上回っていた。
最後まさかのニュースで驚いたものの、私と光流は、彼の祖父母に挨拶し、東京へ戻ることとなった。
この記憶の旅は、私に新しい自分を与えてくれた。
やりたいこともできた……全部叶えられるかわからないけど、いずれ全部叶えたい……。
だから光流、この場所に一緒に来てくれて、本当にありがとう。




