熱を帯びた動揺
大空には雲の塊が雄大な鯨のように泳いでいた。日差しは控えめだが、湿気が強く不快感が拭えない。そんな中、戦は学校の中庭にある花壇の手入れをこなしていた。金曜日になって安東からの依頼が舞い込み、紅井と共に雑草を抜いたり小石を除いたりする休日を過ごすことになった。
「先輩、この辺は抜き終わりました」
「ではこちらに手を貸してくれないか。なかなか活きのいい根が大地を掴んで離そうとしない」
紅井は力があまりないようで、草を引き抜く途中で千切ってしまう。辺りは細切れの草で散らかっていた。戦も子どもの頃に地域住民と行った草むしりでひたすら辺りを緑に彩って大人たちに笑われた記憶が蘇った。当時自分が向けられた、大人特有の子どもへのほのぼのとした気持ちを理解しながら戦は歩きだした。
「大げさですよ。先輩はおとなしく鎌とかシャベルを使って下さい。そういう手作業は俺がやりますから」
「すまないね。雑草程度どうということはないと甘く見ていた。文明の力に感謝」
紅井は土壌での作業のために学校指定のジャージに身を包み、不恰好に腰を落とす。土や砂が模様を作っているのが見えて作業への不慣れと真摯な姿勢が窺えた。ちまちまと鎌で草を刈る姿は戦の目には新鮮に写った。
「ていうか、学校来てまで草刈りとか冗談抜きで罰じゃありません?悪いことしてないのに反省しそうになります」
「広い枠組みで見れば、これも掃除の一環だろう。作業に没入し、心の萎びた性根も除草してしまえという意図だと思えばよい」
性根が萎びているというのは普通に失礼だろう、と戦はこめかみをひくつかせる。気を取り直して土いじりに戻るが、久方ぶりの屋外労働で腰や背中へ蓄積された疲労がやる気を削ぐ。さらにそれが作業の進行度に見合わないことがわかると、なおのことやる気がなくなっていく戦だった。
「先輩、喉乾きません?俺、水買ってこようと思うんですけど、先輩はなにか要ります?」
気温も徐々に上がり、戦は水分を欲していた。というよりかは、建前を使ってでも早く休憩がしたかったのだ。
「それならお茶を頼む」
「了解です」
戦は土まみれ軍手を脱ぎ捨て自販機へ向かう。
舗装が行き届いた道は太陽光や熱を反射し、戦の体温をぐんぐん上げていく。陽炎越しに映る自販機はさながらオアシスである。そして自販機の前には見知った顔が。
「夏門くん、どうしたのその格好」
「梅咲さんじゃないか。えっと、これはまあ、安東先生から頼まれた庭いじりのためというか」
「休日も学校のために作業してるんだね。偉いな、夏門くんは」
「いや~、あはは......。そっちだって休日のはずだろう?」
「私は先生に授業でわからなかった所を聞いてきたの。今はちょうどその帰りに喉が乾いたところ」
梅咲は自販機で飲料を購入しながら会話を進めている。ペットボトルががこんと落ちた音がしたが、なぜだか彼女はもう一度小銭を入れ始めた。余程喉が乾いたんだろう、と戦は梅咲の見えない努力を想像して感心する。
「はい。これどうぞ」
呆けていた戦の前には一つの清涼飲料で満たされたペットボトルがあった。
「え、くれるのか?いいよ、悪いし」
「でも私も二本は飲みきれないよ。せっかくだから貰っていってよ、頑張った夏門くんへのご褒美だと思ってさ」
戦にはわざわざ労いの品を渡される心当たりはなかったが、せっかくの好意を無下にはしたくない、と戦は礼を言って受けとる。元々喉は乾いていたので、すぐに口に含んだ。熱された体に冷たい水が染み渡っていく。これで萎びた性根も復活しないものか、と戦は暑さで浮かれたぼやきを心内に吐露する。
「最近こういうの始めたの?いろんなとこでお手伝いしているの見かけるようになったけど」
戦は自分の姿を教室外で見られていると思っていなかったので驚いた。戦は悪目立ちはしていたが、その分人から避けられている側面もあった。自分に向けられる視線は気だるげに教室に留まっている男のためにはない。戦自体も梅咲とのアイコンタクト以外で視線を巡らせたことはなかった。そのため、一方的に見られていたことに初めて気付いて少し照れた。
「安東先生に捕まってさ。ほら、俺ってば先生に目をつけられてるし、暇そうだし」
「先生に信頼されてるんだね。それに、素直にやってあげちゃうんだからすごいよ」
梅咲はやたらと戦を褒めている。戦は正直かなり動揺した。その動揺は不慣れというか、耐性のなさからくるものなのか、あるいは賛辞を貰うこと自体への抵抗感からくるものか、とにかく揺さぶられた。
「あ、そろそろ戻らないと。怒られちゃうや」
「ああ、引き留めちゃってごめんね。作業頑張ってね」
二人はその場で別れ、戦は駆け足で中庭へと引き返した。なぜ走りだしてしまったのか、戦は考えてもいなかった。素直に感謝の言葉を述べればそれでよかったはずなのに、戦の脳内には退散以外の選択肢がなかった。そして、アクシデントは連鎖し、特に本来の目的への意識を阻害してしまうものだ。
「おかえり。どうしたそんな息を荒げて。走ってきたのかい?」
「はあ、はあ、はい。えっと、時間開けすぎたかなって」
戦は息をなんとか整えながらなぜか言い訳をした。紅井は言い訳のことを知ってか否か苦笑する。
「気にするな。お茶を買ってきてくれている君に文句なんてないさ」
「お茶......。あ」
戦はしまった、と分かりやすく口を開けて動きを止めた。紅井はすぐになにがあったのか察知して肩を竦めた。
「まあ、気にするな。交代だ、これから休憩ついでに自分で買ってくることにする」
「はい、すいません」
戦は簡単なお使いもできなかったことにかなりショックを受けていた。まったく異なる種類の本日二回目の動揺に戦の脳は逆に冷静になる。止めどないなぜを頭で繰り返しながら溜め息をついてしまう。そんな分かりやすく落ち込む姿に紅井が微笑みかけた。
「確かに君がこの程度のことを忘れるとは思えない。何か忘れてしまうほどのことがあったと見ているんだが」
「えっと、クラスの子と話してて、なんか慣れない雰囲気になって逃げ出したくなって、駆け足で帰ってきちゃいました」
紅井は大きく目を開いた後、表情を綻ばせ吹き出した。
「あっはは!なんだそれは。流しのコミュニケーションは取れると豪語しているような君が柄にもなく緊張したのか。ほうほう、これはなにがあったか興味が深まったな」
「恥ずかしいので、絶対いいませんよ!」
戦は省みた自分の行動と笑われたことに羞恥を堪えられなかった。顔が熱くなっているのは外気だけのせいだと思いたい戦であった。今日も爽やかな風が草花を通り抜けた。