【1-22】簒奪者
白煙が吹き出してすぐ、迂闊にもそれを吸ってしまった騎士が糸を切られた操り人形のように倒れる。
「毒か!?」
「吸うな、息を止めろ!」
騎士たちが慌てるがもう遅い。
特製の催眠煙幕弾は、このような閉所では絶大な効果を発揮する。
瞬く間にノエル以外の全員が意識を刈り取られて倒れ伏した。
――ね、眠って……たまるか……
一瞬反応が早く、息を止めていたノエルは、少しでも煙を避けるために床に這いつくばったまま出口の扉を目指した。
頭の芯が重くなってぐらぐらと揺れている気がする。
確かこの煙は吸わなくても目や肌から吸収される仕組みになっているのだと聞いた覚えがあった。
這いずりながら進んで、地下室の扉にノエルが手を伸ばそうとした時、その扉は勝手に開く。
頭をすっぽり覆う、カラスのクチバシのようなものが付いた防毒マスクを被った男がそこに居た。
身体に密着した黒い服を着ていて、鋼線を編んだかの如き体つきだ。
――誰だ? 煙幕を投げ込んだ奴か……?
彼は室内の様子を見回すと、さっとノエルを小脇に抱え上げて風のように走り出した。
等間隔に小さな魔力灯照明が並ぶ暗い地下廊下を、人を抱えているとは思えない速度で、石床だというのに足音も碌に立てず。
白い煙が遠のくと、彼は邪魔なマスクを脱ぎ捨て腰帯に無理やり挟んだ。
「久しぶりだな、嬢ちゃん」
「あん、たは……!」
狼のような目を持つ白髪頭の老爺。
ノエルの拳術の師でもある男、数ヶ月前に故郷の街を飛び出す時に酷い目に遭わせてきたリベルだった。
「なんで、ここに……」
「あんたみたいな嬢ちゃんにやられ…………回ったもんさ。俺ぁもう………………にして隠居だ。だが最後に………………として、あんたを追いかける………………したぜ、まさかこんなとこに居やがるたぁ」
ぐったりと抱えられて運ばれるノエルは、途切れ途切れの意識の中で彼の声を聞いた。
眠くてよく分からないがノエルただ一人を追って、単身はるばるペクトランドまでやってきたようだ。
――よく分からんが最悪だ……余計な災難がまた増えた……
さっき王子様を誘拐した穴は……なんなんだ……こいつの仕業か……?
いや、それは何かおかしい。
確かにリベラは暗殺・誘拐・破壊工作、なんでもござれの達人だが、しかし魔法が得意だという話は聞かない。そもそも彼はアーノルドを攫う理由も無いと思われるわけで。
冷たい夜風がノエルの頬を撫で、幾度か浮遊感を覚える。
奇妙なほど誰にも会わないままリベラは城を抜け出し、明かりが落ちた真鍮色の工場を横目に街の闇の中を駆けて行く。
走り方が綺麗すぎて適度に揺れるものだから揺り籠の如き効果を発揮し、眠気との戦いは熾烈を極めた。
「あ?」
そんな歩みが急に止まり、リベラは訝しげな声を上げた。
闇に紛れるように漆黒のローブを被った男たちが行く手を遮っていたからだ。
「仲間か?」
そのリベラの言葉はノエルに対する問いだったが、生憎と、この状況で自分を助けに来るような人物は心当たりが無い。
――仲間? 助けに来る奴なんか、居るわけ……
そこで遂にノエルは意識を手放し、昏々とした眠りに落ちた。
◇
敵意や殺気には慣れている。
だが同時に、眼前の男たちからは何か尋常ならざる気配を仄かに感じるようにも思えた。
長年の仕事で培った嗅覚が反応する。
どうにも彼らもリベラと同じで、大手を振って太陽の下を歩けるような身分ではないという気がした。
「その娘を渡してもらおうか」
男たちはリベラに高圧的に命じる。
助け、ではなさそうだ。
彼らもまた何らかの理由でこの娘を狙っている。
リベラはこの街に来たばかりだ。既にこの街でノエルに狙いを付けていた連中が、突然やってきた余所者に獲物を掻っ攫われそうになり、泡を食って出て来た……というところだろうか。
「へえ? 悪魔の上前を掻っ攫おうたぁ、根性のあるガキ共じゃねぇか」
抱えていたノエルを下ろし、リベラは身構える。
そんなリベラを見て黒ローブの男たちは低く笑った。
「……悪魔と言ったか」
「それがどうした」
「奇偶だな。こちらも悪魔だ」
次の瞬間、月明かりによって生じていた彼らの影が膨れあがった。
「あん!?」
影から這い出すように、奇妙な獣が姿を現す。
それは全身が血に濡れたような毛並みの狼、にも見えた。
しかし、ややずんぐりとした巨躯で、しかも体中から角だか乱ぐいの牙だか分からないものが突き出している。
「この使い魔、さては邪術師……! 悪魔崇拝者どもか!」
仕事柄リベラはそういう連中と付き合うこともある。
悪魔を崇拝し、生贄などの捧げ物をすることで力を賜る連中がこの世界には存在するのだ。
彼らは悪魔の力を借り、常人には操り得ない邪悪な魔法などを行使することもある。
狼のような使い魔は、その類いらしかった。
「そいつを食い殺せ」
「グルオオオオオオッ!」
二匹の使い魔が同時にリベラに飛びかかってくる。
リベラは地を這うようにその爪牙を掻い潜り、さらに擦れ違いざまに肘打ちを使い魔の脇腹に叩き込む。
アバラを砕きつつ内臓の一つくらいは潰した……はずだった一撃だが、どうも感触がおかしい。
――魔物だって一応は肉体を生き物に似せて構成してるってのに、こいつらはそれすらねえ。
『痛み』だの『急所』なんてもんは存在しねえんだろうな。
リベラは振り向きざま、ベルトと一体化するかのように腰の後ろに収めていた剣を抜き、同時に袖口に仕込んでいた鋲をローブの男たち目がけて鋭く擲った。
頭蓋をぶち抜き脳を掻き回して殺すつもりの一撃だったが、鋲は不可視の力場に弾かれて地に落ちる。防御の魔法だ。
「ちっ」
戦闘は使い魔に任せて防御専念。
情けないようでも賢くはある。
「グルルァ!!」
使い魔が大口を開けてリベラに迫る。
突進を見切ったリベラは使い魔の頭に手を突いて倒立するように跳躍。突進の上を乗り越えながら背中を深々と剣で抉った。
着地の瞬間を別の使い魔が狙うが、リベラはその鼻面を蹴りつけて動きを押しとどめ、体勢を崩したところで首に巻き付くように斬り付ける。狼のようなマズルが切り飛ばされて上顎が無くなった。
その時だ。
「ルォオォォウ!!」
使い魔のもう一方が奇妙に低い声で歌うように咆えた。
すると、背中に突き出した牙が淡く闇色の炎を帯びる。
その炎は鞭の如く振るわれてリベラに叩き付けられた。
「ぐぬっ!?」
骨の髄を抉り出されているような激痛が走る。
――≪痛哭鞭≫か! ……あの野郎、魔法を使う頭があったとは!
これは、悪魔の力を借りて行使する『呪詛魔法』と呼ばれるものの一つ。
相手に激痛を与える魔法だ。
主な用途は拷問や、敵の隙を作り出すこと。
激痛に竦み上がって、ほんの一瞬だが前後不覚になったリベラ目がけ、上顎の無くなった使い魔が体当たりを仕掛けた。
焼けるような痛み、そして鮮血が舞う。
使い魔の脇腹から突き出している象牙のような角がリベラの胴を薙いでいた。
――不覚……! この程度の隙を突かれるとは、俺も衰えたか。
傷を押さえてリベラは蹈鞴を踏む。
老いて尚、一線で仕事をし続けてきたリベラだが、老いは確実にリベラの肉体を蝕んでいた。
若い頃のような無茶はきかない。
そうだ、先日もよく分からないままにこの娘に負けた。
あの一件で老いを痛感し、引退を決意したばかりだ。
――退くか。こんな相手との戦闘は想定外だ。
状況を計算し、リベラは『勝てない』と判断した。
無理な仕事で成果に固着するのは二流のすることだ。
そうと決めたら未練など一欠片も残さず逃げるのみ。
地べたに寝かされたままのノエルをおいて、リベラは脇目も振らずに逃げ出した。




