【1-19】悩める筋肉
「お待たせしちゃいましてごめんなさい」
「いや、大したことはない」
薬屋を出るとアーノルドは、ノエルが店に入った時の体勢のまま。
筋肉に効きそうなポーズで荷物を持って待っていた。
「……なんだ、私の顔に何か?」
「いえ、何でも……」
今し方、店主の老人から聞いた話をノエルは反芻する。
勝手なシンパシーだ。
ノエルは『力不足』であることの辛さを知っている。ただ、アーノルドが同じように辛いのかは分からないし、きっと彼は冒険者としてすら半端だったノエルに比べたら遥かに優秀なのだろうし。
「これで用事は全部か?」
「はい。後は帰るだけです」
「もう夕方か。なんだかあっという間だったな」
いつしか日は暮れかけ、空は赤く染まっていた。
街には仕事帰りの(ただし常識的な時間に帰れる職場の)労働者たちが増える。彼らは家へ帰るか、あるいはその前に酒でも飲みに行くのか。
通り沿いの飲み屋や食事処にぽつぽつと客が入り始め、何かを焼くような良い匂いが漂う。
「命の恩には足りないが、食事でも奢らせてはもらえないかな」
「案外発想が庶民的ですね、王子様」
「他所の国はどうだか知らないけれど、我が国は王族も街へ出る方針でな。特に若いうちは」
周囲の店を見て思いついたのか、相変わらずカカシのように荷物を持っているアーノルドが提案する。通りに人が増えてきたので、威圧感があって物理的に邪魔なこのポーズはそろそろやめさせるべきだろう。
それはともかく。
問題は彼に飯を奢らせる行為の是非だ。
後々面倒なことになりはしないかと思ったが、この顔で誑かしたわけではなく形式上は命を救ったお礼なので呪い的な意味ではセーフだろう。
政治的にはどうなのか。少なくともその辺の配慮はしてくれる筋肉だと思いたい。
後は往生際悪く変な下心を抱いてはいないかという問題もあるが、まあ、彼はそういうものを隠して行動できるタイプではないと既に分かっている。
懸念事項を天秤の皿に積み上げても、反対の皿に積み上がる『食欲』という重石には勝てなかった。
「迷惑だろうか」
「いえ、全く。
……収入が少ない質素な暮らしなのでたまには浴びるほど肉が食いたいです」
「そうか」
「お酒でもいいです」
「そうか……」
聖女とは、と呟く声が聞こえた気がした。
* * *
飯を奢ってもらう、と一口に言っても、その店選びには慎重にならざるを得なかった。
と言うのも、あんまり高級な店だとアーノルドの顔を知っている客がいるかも知れないというのが理由だ。
彼曰く、『王都以外では碌に顔が知られていない』そうだが、庶民はともかく上流階級となると、どこで会っているかも分からない。実際、ノエルも以前、父に連れられて行った何かのパーティーで故国の王族の顔を見た経験がある。
しかし店の格を落とすと客層も悪くなる。
何しろノエルは、災難を招く呪われた美貌の持ち主だ。酔客がノエルを巡って血みどろの大喧嘩、とかになりかねない。多分そうなる。
と言うわけで選ばれたのは、概ね『中の上』くらいの店だった。
バルコニーのような柵で仕切られ、あまり意味の無い高低差が付いた店内に入ると、品の良いウェイターが出迎える。
「これはこれは。噂に名高き『仮面の聖女』様にお越しいただけるとは。何をお作り致しましょうか」
「肉」
「へ?」
店の奥では黒光りするグランドピアノが趣深い曲を奏でていた。
* * *
多少誤算があったとすれば、この街では思ったより『仮面の聖女』が有名だったということだ。
店内で多少早めのディナーを楽しんでいた人々は、明らかに会話が減ってノエルの方をチラチラ見ている。囁く声を聞く限り、彼らはノエルを『偶然出遭った、変な仮面を着けた変な美女』ではなく明確に『仮面の聖女』と認識している模様。
そんな人々の興味は、もちろん同席するアーノルドにも向けられる。俗世の穢れを絶つかのような暮らしをしていたノエルが謎の男と一緒に居るのだから。
そして、こんな場所で若い男女が会っているとしたら、想像するのはもちろん……
――誤解です誤解。それだけは絶っっっっっっ対違いますので。
不穏な勘ぐりをする視線が混じっているような気がして、ノエルは心の中で弁明した。
とは言え、これではまともに話もできない。
と、思っていたらアーノルドが何か取り出してテーブルの上に置いた。
小さな軸の上に浮遊する七面体ダイスのような物体だ。
アーノルドがそれを置くなり、周囲の話し声もピアノの音色も一切が断ち切られる。
「おお、高いやつだ。親父が使ってたな」
音を消す魔法の障壁を周囲に張り巡らせるマジックアイテムだ。
一応周囲の様子を確認してから、アーノルドは苦悩と申し訳なさの滲む表情で切り出す。
「改めて、此度は迷惑を掛けてしまったな……」
「王子様が自殺しようなんて物騒極まりないですよ。しかもこんな国境も近い辺境に一人きりで?
どうしてこんなことに?」
ノエルも王侯貴族の生態をそこまでよく知っているわけではないが、アーノルドの状態が尋常でないのは誰でも分かることだ。
どう見ても嘘のつけない奴だし、頭がおかしいわけでもなさそうだから、彼が第一王子というのは多分本当なのだろうけれど、それすら半信半疑にならざるを得ないくらいである。
「あなたはこの国の政治状況をどの程度理解している?」
「噂程度にしか……」
噂を聞いただけなので嘘は言っていない。
「そうか。ならまあ、巷間流れている噂のおさらいだと思って聞いてくれ。
……ざっくり説明するなら、父上が少し前に若くして急死したのだ。しかも、後継指名も無いままに。
それで次の王は誰かという話になっていて、有力なのは二人。この私と、ヨルド公イブラヒムだ。
血筋の上でより正統なのが私であり、政治的な力が強いのはヨルド公だ。
そのどちらを王にするかで国を割る騒ぎになっている……」
それは歴史上幾度起こったかも分からない王位継承争いの一類型で、しかし当事者と当事国にとっては本当に洒落にならない深刻な懸案であるという、言ってみればそれだけの話ではあった。
アーノルドは、運動しやすい長さに整えた赤髪を毟るように頭を抱えていた。
「だが当事者の一方である私はヨルド公が王になるべきだと思っている!
彼は素晴らしい男だ。果断であり、政にも通じ、素晴らしい僧帽筋を持っている」
「最後のそれ必要ですか?」
「しかし、私を王に押し立てようとする人々は、もはや私の考えなど意に介さず動いているのだ。
父上の下で権勢を手にした者らはそれを失うことを恐れているし、未だ若い私を傀儡にせんとする者もあり、血統を重視することで国の形を守ろうという筋の意見もある」
「ありがちですね……」
アーノルドはただ単純素朴に、争いが起こっていることそれ自体を厭うている様子だった。少なくとも玉座はどうでもよさそうだ。
この場合、彼が完全に利用されているだけならまだ救いがあるのかも知れない。アーノルドが即位した方が良い理由もある辺り、話が余計に複雑になっている。
「そも、私は自身に政の才が無いとよく分かっている……
第一王子でありながら玉座を避けるなど言語道断だが、私が王になったところでまともに国を動かせる気がせん……
それは万民への裏切りではないかと思うのだ」
声音に苦悩が滲む。
己には王たる資質が無いと自覚し、そのことにずっと悩み続けてきたのだろうと察せられた。
――家業に向いてなくて出奔した身の上だから、それはちょっと気持ち分かるな。
いや、裏の仕事と王様を一緒にしたら失礼か?
……ああ、でも似たようなもんかもな。権力握るって事は汚え事もするって事だから。
とにかく問題は、ノエルは実家を嫌って逃げ出すことが(少なくとも冒険者になることが)できたが、アーノルドの場合そうはいかなかったのだろうということだ。
「それで自分が死ねば丸く収まると?」
「……まあそういうことだ! 色々とありすぎて嫌になって逃げてきた、と言う方が正確かな。
それで、いっそ死のうと思ったが助けられた。だがよく考えてみれば私には死ぬほどの覚悟も無かったな。ただ自棄になっていただけだ」
少々決まりが悪そうに、アーノルドは想いを吐露する。
自己犠牲を以て争いを収めようとしたと言うよりも、それを口実に人生から逃げ出そうとした。
逃げたことを恥じているようでもあったが、こちらもこちらで逃げた身の上であるノエルがどうして彼を責められよう。
「自棄にもなると思いますよ。
自分の意思を無視して権力争いの駒にされたわけですもん。王子様だってのに」
「いや……確かにそれもうんざりしたが、何より恐ろしかったのは寄せては返す荒波のような女どもだ。
我が国で未婚の王は基本的にあり得ないものとされるのだが、そのせいで政治的駆け引きをしつつもう少し様子を見て行うはずだった私の花嫁選びが急加速した……!」
恐怖の場面を思い出してか、アーノルドは震える手で顔を覆う。
「政治的圧力で婚姻を成立させようとするだけならまだマシで、当の娘たちが目をぎらつかせて私に纏わり付いてくる!
特に、王都には王族や一部の上級貴族しか入れないサロン的なトレーニングジムがあり社交の場となっているのだが……」
「やっぱこの国おかしくないです?」
「あり得ないほどはしたなく肌を露出した特注トレーニングウェアの令嬢たちが、汗まみれの肌でベタベタと私にひっついてくる……! 王宮の庭で見てしまったことがある蛇の交尾を思い出して恐ろしい気分になるのだ。これではおちおち筋トレもできぬ!」
「やっぱこの国おかしくないです?」
「あと、抜け駆けしたとある侯爵令嬢に寝所に忍び込まれたときは心臓が止まるかと……! これは流石に親子共々問題にされたが……
考えてもみてくれ、一日の勤めを終えてさあ眠ろうと毛布をめくったら、そこで下着姿の娘が目を光らせていた恐怖を……!!」
「うわあ。それは女性恐怖症待ったなし」
話を聞く分には滑稽にすら思える成り行きだが、当事者にとってはサイコホラー小説もかくやという話だろう。
――そんな中に居たら女性恐怖症にもなるだろうけど、逆に『王子の肩書きを出せば女はいくらでもなびく』って勘違いもするわなあ。鼻持ちならんクソ野郎かと一瞬思ったけど、こりゃ環境の被害者だわ。
ともあれ、理解できたかも知れない。
女が恐ろしいから逃げたと言うより、それもまたきっかけの一つでしかなく、自分の人生が自分のもので無くなっていく感覚をまざまざと味わったために、真綿で首を絞められるがごとく息苦しく感じて、やがて彼は窒息したのだろう。
およそ政治の世界には適さぬ、嘘すらつけない真っ直ぐな気性であるために。
「最近は年頃の女性の姿を見るだけで身構えて震えが来るようになってしまった。
だがその点、あなたは不思議と話しやすい」
「……わたしを女性の勘定に入れるのは色々間違ってると思うので止めた方がいいっすよー」
「何故だ?」
「やー、そこは色々とくそめんどーな経緯がありまして……」
ノエルはヒラヒラ手を振って曖昧に誤魔化す。
――そりゃあ見た目が絶世の美女でも中身は男だかんな。
……今更だけどちゃんとその辺の事情も説明した方がいいのか?
ひとまずアーノルドは求婚を諦めてくれたようなので、敢えて面倒な話をすることは避けていたのだが、こういう事情ならちゃんと説明した方が良いかも知れないとノエルは思い始めていた。
なんかこう、色々とこじれそうな気がして。
「あのー、王子様?」
「静かに」
話を切り出そうとした、だいたいちょうどその時だった。
アーノルドは浮遊するサイコロみたいなマジックアイテムを傾けてスイッチを切ると、それを仕舞い込んで身構える。
周囲の物音が一気に戻って来た。
「あなたは戦えるか?」
先程までとは別人かと思わせるほどの緊張感を漂わせ、アーノルドは周囲を鋭く見回し警戒する。
店の中は相変わらずだ。歓談しつつ食事に舌鼓を打つ人、こちらの様子をうかがう人、ちょうどワゴンに乗せて料理を持ってきたウェイター、優雅に黙々とピアノを奏で続けるドレス姿の女……
だが。
その空間に似つかわしくない、荒々しく金属質な足音が突如として侵入してきた。




