【1-15】仮面の理由
その瞬間を何に喩えればいいのだろうか。
まるで全身の筋繊維が一斉に断裂したかのような衝撃だった。
彼女の美しさをなんとなく察してはいたが、アーノルドの予想など軽く飛び越えていく、奇跡の具現だ。
自分が世界最高の詩人ではないことをアーノルドは悔やまずに居られなかった。生半な言葉で彼女の美しさを称えたくない。
無垢無欠。透明感のある美貌は、大人の色香を仄かに漂わせながらも童女の無邪気さを感じさせ、劣情と紙一重の庇護欲を掻き立てる。
生身の生き物がこれ程完全な形を持っていても許されるのだろうか。視線一つ、吐息一つにも神学的意義を見いださずに居られない。
呆然と彼女の顔に魅入っていたアーノルドは、彼女が慌てて仮面を着け直したことで我に返った。
「ま、待て! 待ってくれ! 何故そのように顔を隠してしまうのだ!?」
「あなたは幻か何かを見てしまったのでしょう。タヌキって知ってます?」
「何をわけの分からぬ事を……!
そ、その顔を隠すことは歴史的損失だ!」
仮面の女は後ずさり距離を取る。
アーノルドは強引に追いすがりこそしなかったが、糸を引かれるように立ち上がり彼女を追った。
「頼む、もう一度その顔を見せてくれ!
女性に対してこのような気持ちになったのは初めてなんだ……!」
「このようなってどのような!? いやホントお願いですから勘弁してください!」
彼女は本気で『何か』を恐れていた。
だがそんな細かいことはどうでもいい。過去の人生においてアーノルドが感じたことのないほどの、情熱の奔流が全身の筋肉を突き動かしていた。
早くもアーノルドは焦れていた。
どうしても彼女を手に入れたい。
そのためなら、自ら厭うていた武器を使うことも致し方ないと。
「し、失礼。今まで身分も名も明かさなかった非礼を詫びたい!
私はこの国の第一王子、アーノルド・レイ・ディル・トイード。
正統なるトイード王朝の血を引く者である」
「えっ……」
緑がかった青色をした彼女の目が、陰った。
絶望する彼女の表情を見て、急激に、水でも被ったかのようにアーノルドは冷静になった。
取り返しの付かない何かを壊してしまったかのような罪悪感が、じわりと這い上る。
「……その……今のは、何だ?」
「ちょ、ちょーっと事情がありまして……
第一王子様ってなると面倒なことになったなー、どうやって断ればいいのかなーって……」
アーノルドの想定と全く違う反応だった。
「うむ、今のは……まずかった、かも知れない。
私は自分が第一王子であることを明かせば、あなたがそれだけで私に夢中になると……根拠も無く思っていた。
だが、今の困り果てた様子を見て、それが間違っていると気付いたし罪悪感でいっぱいだ。
その……済まない」
あたふたと宙に手を彷徨わせながらアーノルドが謝罪すると、何故か彼女は唖然としていた。
そしてそれから、溜息をつく。
「ああ、もう。
あなた割と冷静っぽいからちゃんと全部説明しますよ。
……これ、呪いなんです」
「呪いだと?」
盾のような……『盾』という第一印象は正しかったのかも知れない……仮面を嵌め直しつつ、彼女は立ち上がる。
「ええ。美の悪魔に呪われた結果の、呪いの美貌。
老若男女問わず……まあ特に男性がメインなんですが、とにかく魅了しまくって、美しさが原因の災難が無限に降りかかってくるというクソッタレな呪いです」
「クソッタレ……」
「しかも自分の美しさを私欲に使ったり、これで利益を得るほどに呪いが深まって反動が来るみたいで。
玉の輿に乗ったりしたら間違いなく死ぬより酷い目に遭うんです。
いっそ顔を傷付けようとしてみたりもしたんですけれど……どうもこの呪い、外見を完璧な状態に保ち続ける力もあるらしくて、どう考えても跡が残る怪我だったのに半月もせず元通りに……」
「なんと」
「って言うか傷が付いた血まみれの顔とか包帯グルグルの顔すら美しかったんだけど。そういうのも悪くないかもって思っちゃったんだけど。なんなのこれ。性癖歪むわ」
「性癖?」
奇妙で数奇な話だった。
しかし、もしその話が本当なのであれば先程の彼女の態度も合点がいく。
求婚する王子など、彼女にとっては疫病神同然だ。
「そ、そんなこととはつゆ知らず……申し訳ないことをした」
「取り消してくれるならいいですよ、それで」
心底ホッとした様子の彼女を見るに、こんな場所に落ち着くまでの苦労が忍ばれた。
その時。
部屋の隅に置いてあったタライの水中から、バネ仕掛けの魚の頭みたいなものがびっくり箱のように飛び出して叫んだ。
『モケケ、モケケケ、モケケケケ! 1時!!』
「あっ、もうこんな時間!? 街に行かないと」
「ちょっと待てあれは時計なのか」
「入門書を読みながら作ってみた時報使い魔のカマトロ君です。わたしの実力だと、まだこんなのしか作れなくて」
「こんなの、って……」
バネの先っぽに着けられた魚の頭みたいなものがビヨンビヨンと揺れていた。
仮面の女は何やら大きな鞄を出して、中身を確認しつつ色々と詰め込み始める。
「すいません、街に行ってきます。暗くなる頃には戻りますんで、待っててくれますか」
「……その、付いていっても構わないだろうか。
無論、迷惑でなければだが」
慌ただしく身支度をしていた彼女が、動きを止めてアーノルドの方を見る。
彼女を手に入れたいという衝動は堪えなければならないのだろう。
だが、それはそれとして、やはりアーノルドは彼女に興味があった。今まで自分の周囲には居なかったタイプの人物だ。
『自分はどうすべきなのか』。答えが無かった問いに、彼女が何らかの示唆を示してくれるのではないか、というのは少し期待が過ぎるだろうか。
少し考えてから、彼女は答えた。
「……ま、大丈夫でしょう。そっちの事情も聞いておきたいですし……
でも体調の悪化を感じたらすぐに言ってくださいよ?」
そして、思い出したように付け加える。
「そう言えば、まだ名乗ってませんでしたね。
わたしはノエル。今はそういう名前です」
「良い名だ」
「三秒で考えた名前なんだけどなあ……」
ノエルは少し、苦笑した気がした。




