墓場を愛する従姉妹姫と留学中の王妹 5
ハッとした様子で、うろたえたのは、ディゾルドが先だった。
「すみません、リージェ! 俺は、その、不埒なことを考えていたわけじゃないんですッ! 本当ですよ!?」
手首を離される。
わたしは「気にするな」とだけいって、席へ戻った。
内心の動揺は、うまく隠せていただろうか?
ディゾルドは決して、強引ではなかった。手首をつかむ掴む力も、強くないどころか、花弁に触れるかのような繊細な手つきだった。それでもわたしは、今のディゾルドからは逃れられないだろうとわかった。
圧倒的な力の差だった。
昔とはちがう。子犬のような少年なら、わたしはかけっこで勝てた。剣術ごっこも、わたしのほうが得意だった。腕相撲だって、いい勝負だった。
でも今は、ディゾルドが本気を出せば、わたしは瞬きより早く地面に叩き付けられるだろう。
その確信は、少し恐ろしくもあり、寂しくもあり、そして悔しくもあった。
ディーが、昔と変わらない態度で接するから、わたしはどこかで、十年前から何も変わっていないような気がしていたのだ。ディーと話していると、あの十年間が、ただの悪夢でしかなくて、わたしたちはずっと一緒に育ってきたんじゃないかと、そんな錯覚まで覚えてしまっていた。
でも、ちがう。
わたしはもう、たとえこの先訓練を積んでいっても、かけっこで彼には勝てないのだろう。ひざをすりむいた彼を、おんぶしてやることもできないだろう。
わたしは胸の内で、密やかにため息をついた。
眼の前の青年は、眉を下げて、わたしを見ている。まるで、叱られた子犬が、主人の機嫌を窺っているようだ。
─── だけど、その表情のどこまでが真実だろう?
昔のままのディー。
話し上手で、笑顔が可愛くて、物おじしなくて、そのくせ本当は誰も信じていなくて、だれにも気を許さなかった小さなディー。
……あれから10年も過ぎている。身体が成長するように、内面だって、昔と同じであるはずがない。
何も変わらないように見えるなら、それは彼が、わたしを気遣っているという証拠だ。
わたしが密かに悔しく思っていると、ディゾルドはひどく情けない声を出した。
「信じてください、リージェ。俺は鼻がいいだけなんです。なにも、あなたの匂いを嗅ごうとしたわけじゃないんです、本当ですよ!」
……この少々残念なところは、わたしを気遣っての芝居なのだろうか。うん。きっとそうだ。
わたしは自分を納得させつつ、ディゾルドにいった。
「さきほど湯浴みをさせてもらったから、石鹸の匂いがするんだろう」
体力づくりの訓練をしたら汗をかいたんだ、と付け加えると、ディゾルドは納得した顔になり、それから妙に張り切った様子で手を上げた。
「それじゃ、リージェ。明日の朝は俺と走りましょうね!」
「断る」
「なぜ!?」
「自分の立場を考えろ。軽々しく王宮を出てくるな。パルマが明日も付き合ってくれるから、お前はいなくて大丈夫だ」
「またパルマですか! たしかにあいつはいい奴ですが、俺のほうがもっと顔良し身体良しのいい男ですよ!」
「あぁ、腹筋の件は謝った。彼は笑って許してくれたぞ。寛大な人物だ。信頼できる」
「俺のほうが百万倍信頼できますよ! 心だってこの空より広いです!」
「まあ、陛下。陛下の心より狭い空の下では、草一本育ちませんわ」
「それに、パルマは訓練メニューも作ってくれた。優秀だろう? さすがはラヴィの執事見習いだ」
「ありがとう、リジィ」
ラヴィが嬉しそうな顔をする。
彼女が笑ってくれると、わたしも嬉しくなる。二人でにこにこしていると、ディゾルドが再びおどろおどろしい声を出した。
「話を戻しましょう……。墓荒らしの件です。二人とも気になっていたんでしょう? 詳しいことが知りたいんでしょう? 喉から手が出るほど情報が欲しい? そうですか、そうですか! 俺は非常に優秀な男なので、知りたいことはなんでも答えて差し上げますよ!」
そこで、わたしたちはようやく、情報交換に入った。
「ダンはどうやら、ミス・ケリーが病にふせっていることを知らなかったようですね」
夕食を取りながら、ディゾルドが話す。
先にわたしたちの『大家さん情報』を聞いた彼は、驚くどころか「じゃあ俺は、墓荒らしのダンの話をしますね」とあっさりいった。わたしたちが調べたことは、ディゾルドもあらかた掴んでいたらしい。
いくら国王といえども ─── いや、国王だからこそ、ただの庶民の情報など、そうたやすく集まるものだろうか?
ミス・ケリーは元軍人とはいえ、下から数えた方が早い階級だ。孤児だったダン青年が、異例の出世をしたとも考えにくい。
もちろん、国王であるディゾルドがダン青年を呼び出しでもすれば、ダン青年とてなにもかも洗いざらい喋るだろうが、そんな真似をすれば王宮中の噂になる。
国王は権力の巨人に等しい。ディゾルドが国王として表だって動けば、その意図がなくとも一軍人など簡単に踏みつぶしてしまうだろう。
ディゾルドがそんな愚かな真似をしたとは思わないので、裏から手を回したのだろうけど ─── ……。
わたしの疑問は、眼差しにこもっていたらしい。
ディゾルドは少しだけ困った顔をして「俺にも情報源は色々とあるんですよ」といった。
それ以上は明かせないのだろう。わかっていたから、わたしはただ頷いた。
「ダンは当時、オーリアに赴任していました。あぁ、オーリアというのは、この首都からかなり離れていまして」
「地理はわかる。今日習った」
家庭教師の最初の授業は、まず国内の地名を覚えるところからだった。
ディゾルドは頷いて続けた。
「去年オーリアに転属になってるんですが、これは左遷ではなく、優秀さを見込まれての転属ですね。軍人で転属が多い人間は、将来を期待されて各地へ回されているか、各地で嫌がられてたらい回しになっているかのどちらかなんですが、ダンは前者だったようです。この若さでオーリアに赴任したなら、ゆくゆくは一等軍曹、運と才覚があれば曹長も目指せるでしょうね。……ミス・ケリーは、当然それをわかっていたでしょう。彼女は最終階級は三等軍曹でしたからね。それでも十分立派なものですが。……おそらく、ミス・ケリーは、息子同然のダンの邪魔をしたくなかったんでしょう。オーリアと首都は、気軽に行き来できる距離じゃない。重い病であることを知れば、ダンは出世どころか、軍を辞めてでも自分の看病をしてしまうと思ったんじゃないでしょうか。二人は手紙のやり取りはしていたようですが、ミス・ケリーは病については一度も触れなかったようです。見舞いに訪れた彼女の元同僚たちも、ダンには黙っていてくれと頼まれたと証言しています」
「では、彼が真実を知ったのは……」
「ミス・ケリーが亡くなってからですね。さすがにそれ以上は黙ってはいられなかったんでしょう。元同僚の1人が手紙を出し、それによって事態を知ったダンは、上官に頼み込んで馬を借り、必死で家まで駆けてきた。ミス・ケリーのアパートにね。しかし、彼女はとうに埋葬された後だった」
わたしは、深く息を吐き出した。
ラヴィが、沈痛な面持ちで呟いた。
「あのとき、墓荒らしの彼がいっていた“また間に合わなかった”というのは、そういう意味だったのね……」
師匠であり、恩人であり、そして母親同然である人の死に目に会えず、葬儀にも出られなかった。
そのうえ、彼女から託されたのだろう鍵も、誰かに奪われてしまった後だった。
わたしは眉根を寄せていった。
「鍵を持っているのは、例の“ロクデナシの義弟”だと思うか?」
「まず間違いないでしょうね」
ディゾルドは頷いた。
「金庫を管理している憲兵の詰め所を確認させたんですが、義弟を名乗る男が毎日のように押しかけてきて、金庫に挑戦しているそうですよ」
「でも、まだ金庫は開いてないのよね?」
ラヴィが不思議そうな顔をする。
「その義弟が鍵を盗んだのなら、とうに開けられているはずではありませんの、陛下?」
「鍵自体に仕掛けがあるんだろうな」
ディゾルドはあっさりと答えた。
「リージェのいう通り、鍵はミス・ケリーが普段から身に着けていた何かでしょう。彼女の装飾品に紛れていたのかもしれません。たとえば、ネックレスやブレスレットなら、彼女を埋葬するときに、わざわざ剥ぎ取ろうなんて考えませんからね。ただし、一見して鍵には見えない何かです。そのまま鍵穴に差したんじゃ、開かないんでしょう」
「そうか……、義弟はミス・ケリーの遺品を片っ端から売り飛ばしてしまったと、大家さんが話していたものな。義弟なら、鍵が“どこにもない”ことに気づけただろう。遺品の中にはない。しかし、必ず、ダンに残しているはず……。それで、彼女の墓を荒らしたのか」
ラヴィが、眉を吊り上げて怒った。
「酷いわ。墓地は神聖な場所なのよ。そんな理由で永久の眠りを妨げるなんて許されないわ」
「お茶会をするのはいいのか、ラピス」
「あら、わたくしはいつも、墓地に眠るみなさんにきちんとご挨拶してから、みなさんの安らぎをお祈りしつつ、お茶会に励んでおりますのよ。一緒にしないでいただきたいわ」
ディゾルドを睨みつけてから、ラヴィがふふと笑った。
「でも、ミス・ケリーは、すごい方ね。一度は必ず墓を暴かれるつもりだったんだわ」
たしかにその通りだ。
彼女は一度の墓荒らしは想定内だったのだろう。望んでいたといってもいい。
遠い赴任地から大事な息子が帰ってくるまでの間、棺の中で鍵を守るつもりだったのだ。
「こうなったら、そのロクデナシの義弟から鍵を取り返して、ダンに返してあげなくちゃ。ねぇ陛下、わたくし、お願いがありますの」
「義弟の家に乗り込むってのはなしだぞ、ラピス」
「ディゾルド」
「だめ! だめです!! リージェまでそんな眼で見つめてきたってだめです! というかリージェはもっとだめです!! あのねえ……、屑で、暴力を振るう男だとわかっている人間の家に、あなたたち二人だけで行かせられるわけないでしょう? 護衛がついてるから大丈夫、なんてのは聞きませんよ。護衛というのは予期せぬ危険から守るために存在するのであって、危険に飛び込んでいっても良いという言い訳にはなりません」
正論である。
ぐうの音も出ない正論だ。
わたしは沈黙し、ラヴィは唇を尖らせた。
「では、憲兵に任せろとおっしゃいますの?」
「そういいたいところですけど……、ここまで乗りかかった船だと、今さら船から降りてくれないでしょう、二人とも? 金庫を管理している詰め所に、話を通しておきました」
俺だと大ごとになるので、ガリウスの名前でね。
ディゾルドはそう、にやにやと楽しげに笑った。
ガリウスというのは、たしか、あの将軍の名前だ。
ラヴィが、珍しく嫌そうな声を出した。
「ガリウスだって、十分、大ごとになりますでしょう。ほかに誰かいなかったんですの?」
「イアソンのおっさんとか? あ、イアソンというのはですね、うちの腹黒い宰相です」
それはどちらでも大ごとになるんじゃないだろうか。
わたしはそう思ったが、ラヴィはしかめっ面で「イアソン様のほうがましでしたわ」と、愚痴をこぼすようにいった。
「ガリウスときたら、まるで物語に出てくる悪役の舅のごとく口うるさいんですもの。あの男、将来は絶対に子供の嫁イビリか婿イビリをしますわ」
「可哀想に。信用ゼロだな、あいつ」
「リジィだってそう思うでしょう?」
話を振られて、わたしは面食らった。
「……わからない。将軍とは、ほとんど面識がないんだ」
将軍がイアスの王宮へ攻め込んだあのときに、話をしたくらいだ。
「そうなの? わたし、てっきり、首都につくまでは、ガリウスがリジィに付き添っていたのかと……、陛下? まさか、陛下がずっとリジィに張り付いていたんじゃありませんよね……!?」
「人聞きの悪いことをいうな。俺はただ、ようやく再会できたリージェの傍らに、寄り添っていただけだ」
胸を張るディゾルドに、わたしも、うんと頷く。
さすがにディゾルドは馬に乗っていたけれど、いつも馬車の近くにいた。
わたしも一応王族だから、貴人はまとめて一ヵ所においた方が守りを固めやすいのだろうと思ったが、なにかまずかったのだろうか。
ラヴィはふるふると拳を握りしめた。
「リジエラ姫に注目を集めたくないとおっしゃっていたのは、いったいどこのどなたですか、陛下! 何のためにわたくしの屋敷にいらしていただくことにしたのです! 陛下が張り付いておられたら、否応なしに人目を引くでしょう! ただでさえイアスの姫ということで、反感を持つ兵士も少なくないでしょうに、リジィを危険に晒すおつもりですか……!」
「まさか」
ディゾルドは、どこか面白そうに唇を上げていった。
「危険なんてないさ。俺の人質時代に、唯一優しくしてくれたお姫さまで、命の恩人でもあるんだぜと話しておいたから、一兵卒から士官まで、そろって感謝の眼でリージェを見てたぞ。今頃は皆、家に帰って、家族にも同じ話をしてるだろうよ。気高く美しいお姫様の話をな」
それは世論操作というのではないだろうか。
気高く美しいはともかくとして、悲劇のお姫様の話にはなっていそうだ。わたしの境遇はそれなりに世間の同情を買えるものだろうから、そこを利用して、イアスの王族であるわたしへの反感を抑えるつもりなのだろう。
ただ、もちろん、悲劇だけではこの策は成功しないが。
わたしはじっとディゾルドを見つめた。
途端に、甘い顔立ちがきまり悪そうに歪んで、彼は頭を下げた。
「すみませんでした。あなたの過去を利用する真似をしました」
「王が頭を下げるな。わたしの安全を考えてのことだとわかっている」
わたしのほうこそ迷惑をかけてすまない。そういおうとして、やめた。
代わりに、精一杯微笑んで見せた。
「いつもありがとう、ディゾルド。感謝している」
薄緑色の瞳が、大きく見開かれる。
ディゾルドは破顔して、がたりと立ち上がった。
「ええ、ええ! 任せてください、俺に何でも任せてくださいね!! 俺はこう見えても超有能な男ですからね!! 俺はただの子犬じゃないんですよ。頼りがいがあって包容力があって、さらには実力もあるという、夫にするには最高の男です。さあさあ、いかがですか! リージェにご家庭にも一人、俺のような男がいると、とっても安心だと思いませんか!!」
「うん」
「エッ」
「そうだな」
「ほんとですか!!!」
「お前のような男が王なら安心だ。お前なら、イアスの民も守ってくれるだろう」
「なんと……ッ、上げて落とす新しい手法……ッ!!!」
ディゾルドが大袈裟に肩を下げる。
冗談ばかりいう男に、くすくすと笑いながら、わたしは考えていた。
ただの悲劇のお姫様では、イアスへの反感が勝る兵士もいるだろう。イアスとオーランドは隣国ゆえに、長年いがみ合ってきた歴史がある。
オーランドの兵士たちが、わたしに感謝を向けたというなら、その真の理由は、ディゾルドへの厚い忠誠心だ。オーランド軍がこの男へ向ける、絶対的な畏敬の念だ。彼が敵国の姫を一人助けたくらいでは、微塵も揺らぐことのない崇拝だ。
おそらく、ディゾルド本人も、それを承知の上で、この策を立てたのだろう。
家庭教師が教えてくれた。
オーランド国王ディゾルド陛下。
─── その二つ名を軍神ディゾルドという。




