墓場を愛する従姉妹姫と留学中の王妹 3
一瞬、本当に一瞬ではあったけれど、俺は歓喜していた。
俺に覆いかぶさる、柔らかな身体。鼻孔をくすぐる、涼やかな香り。
雪原のような輝きを放つ長い銀の髪に、間近に覗く美しい青の瞳。
とっさに抱きとめた身体のか細さに恐怖し、その甘やかな温もりに狂喜する。
そして、瞬きにも満たない時間で、俺の理性は俺を殴り飛ばした。
─── 馬鹿か、俺は!
瞬時に体勢を入れ替える。リージェを敷布の上に横たえて、俺は身構え、剣の柄を握る。
リージェの行動の意図を読めて当たり前であるべきなのに、一瞬でも喜んだ自分が忌まわしい。
目を凝らしても、俺には夜の闇しか見えない。俺はリージェほど気配に敏くない。戦場で自分を鈍いと思ったことはないが、この条件下ではリージェの“感知”には劣るのだろう。
だが、俺の護衛なら、わからないはずがない。
「どうなってる!」
声を潜めて問いただせば、耳元で嘲笑混じりの声が響いた。
※
一瞬の出来事だった。
わたしは、気づけば、敷布の上に一人で横たわり、そしてディゾルドの背中が見えた。
庇われているのだとわかって、ぞっとする。
駄目だと叫びかけて、口を抑える。音を立ててはいけない。敵に見つかってしまう。
わたしが、無言でディゾルドの前に出ようとした、そのときだ。
『お姫様のその察しの良さは、使えるのか使えないのかわからないな』
耳元で、嘲笑混じりの声がした。
わたしはぎょっとした。どこか遠くから聞こえる声ではなかったからだ。まるで、耳元まで唇を寄せて囁かれているかのような響きだ。
だけど、それほどの至近距離には、わたしたち三人以外、誰もいないのだ。
背筋に冷たいものが走る。まさか幽霊だとでもいうのか。墓地に、本当に幽霊が現れたと?
うろたえる私に気づいて、ディゾルドが顔をしかめた。
「おい、誰が俺以外にも報告しろといった?」
『説明の手間が省けただろう? 感謝してほしいね』
声はくつくつと笑う。
そこまで聞いて、ようやく、わたしは理解した。
この奇妙な声の持ち主こそが“王の護衛”だ。
ラヴィが、安心させるようにわたしの手を握って、それから嫌そうな顔でいった。
「それならさっさと説明してちょうだい」
『冷たいな、ラピスラズリ姫』
この声は、わたしたち三人全員に聞こえているらしい。
『まぁ、いいか。報告してやるよ。お姫様のいう通り、男が一人、墓地を入ってすぐの辺りにいる。俺も見たことがない顔だな。歳は30くらいか。スコップを持ってるぜ』
「……スコップ?」
ディゾルドが怪訝な顔をする。
わたしも小さく首をかしげた。暗殺目的にしては、ずいぶんと珍妙な武器だ。
王の護衛は、ひどく愉快そうにいった。
『ただし、暗殺者ってのは、完璧にお姫様の見当違いだ。あれはどうみても ─── 、墓荒らしだな』
わたしたちは、いっせいに、顔を見合わせた。
木立の中をそろりそろりと移動して、一番太い樹の影に、三人とも隠れる。
そうっと影から顔を出してみれば、遠目ではあったけれど、たしかに何者かが墓を掘っていた。
「すごい、本物だわ……! わたし、お気に入りの墓場は五か所あるけれど、本物の墓荒らしを見たのは初めてよ」
「五か所もあったのか、ラピス。まぁ、王都の治安はいいほうだからな。俺も墓荒らしが出るなんて話は聞いたことはなかったが……」
「オーランドでは、埋葬の際に、なにか金品を棺に入れるのか?」
「いいえ。そういう風習は聞いたことがないわ」
「せいぜい、故人の思い出の品を入れるくらいですね。物によっては換金できるでしょうけど……、うーん、でもここは、市民の共有墓地なんですよ。貴族の墓地を狙ったほうが、まだ金目の物がありそうなのに」
わたしたちが、小声でそんな話をしている間にも、ざくっ、ざくっという土を掘り返す音が聞こえてくる。
そして、ついに棺にたどり着いたのだろう。
墓荒らしが、スコップを捨てて、身をかがめる。
木製の棺が、キィと軋んで開く音が、聞こえたような気がした。
つられて、私たちも、息をのむ。
棺から何かを盗もうとするなら、その場で捕まえるべきだろうか?
でも、墓荒らしが暴れたら、わたしでは抑えられないだろう。かといって、ディゾルドを危険に晒すわけにはいかない。どうしたものかと、そう頭の片隅で考えたとき、墓荒らしが叫んだ。
「ないッ!? 嘘だろう、どうして、そんな、ないはずが……ッ!? くそ、あいつか……ッ!!」
静まり返った墓場に、墓荒らしの叫び声が響く。
「……すみません。すみません、師匠……! 俺、こんな馬鹿な真似までしたのに……また間に合わなかったなんて……ッ!」
悲痛な声だった。金目のもの目当てに墓を暴いたとは、とても思えない。喪った誰かへの、悲しみと嘆きに満ちていた。
師匠。
その響きが、わたしの胸をえぐっていく。
「すみません、師匠……。どうか安らかに、眠ってください……」
そう涙声で告げて、墓荒らしはふらりと立ち上がると、再びスコップを手に取った。
そして今度は、上から土をかけていく。
墓を元通りにした墓荒らしは、スコップだけを手に、とぼとぼと去っていった。
その後姿を見送って、私たちは、そろって首をかしげた。
※
翌朝、わたしが階段を下りて、ダイニングへ入ると、いるはずのない姿があった。
「おはようございます、リージェ」
「ディゾルド?」
朝食の席についているのは、ラヴィだけではなかった。彼女の相向かいに、見慣れた栗毛色の青年が座っている。
わたしは、ラヴィの隣に腰を下ろしながら尋ねた。
「どうしてお前がここに? なにかあったのか?」
昨夜は、わたしたちをこの屋敷まで送り届けてくれた後で、彼も王宮へ戻ったはずだ。
本来、彼は多忙な身だ。国王として、一日の予定はみっちりと詰まっているだろう。まさか、朝食を取るためだけに、わざわざラヴィの屋敷まで来るはずがない。
ディゾルドは、にこやかに、胡散臭く笑っていった。
「リージェと一緒に朝食を取りたくて来ました」
「嘘よ。わたしに釘を差しに来たの。あの墓荒らしの件を調べるなって」
ラヴィが、ディゾルドを睨みつけていう。
わたしは、あぁと頷いた。
「それなら、さっき、墓守に話を聞いてきた」
「 ─── はっ?」
ディゾルドが間の抜けた顔をする。
わたしは気にせず続けた。
「墓地の近くに墓守の方が住んでいたんだ。申し訳ないとは思ったが、彼女の遠縁だと偽って、色々と教えてもらった。ああ、彼女というのは、ミス・ケリー・カーソンのことだ。墓石に名前が刻まれていただろう?」
「待って、ちょっと待ってください! 聞いてきたって、いつ!?」
「さっき」
「朝食の前ですか!?」
「当たり前だろう」
朝食はこれからいただくのだ。
「いつものように、体力作りのために街中を走ってきたんだが、せっかくだからと思いついてな。ついでに墓地にも寄ってきたんだ」
「素晴らしいわ! 愛してるわ、リジィ!!」
「褒めるな、ラピス! リージェ、あなたの行動を制限するつもりはありませんし、あなたが走りたいならいくらでもお付き合いしますが、俺がいないときはやめてくださいっていったじゃないですか! さんざん言いましたよね、俺!?」
たしかにいわれた。
だから、イアスからオーランドへの行軍中は、いつもディゾルドと一緒だった。
しかし、と、わたしは首を横に振った。
「お前がいったのは『一人では危険だから』だ。今朝はわたしは一人ではなかった。ラヴィの勧めで、この屋敷の執事見習いを務めるパルマがついてきてくれた」
「ラーピースー!?」
「そんなに怖い顔をなさらないでくださいな、陛下。リジィが体力をつけるために走りたいというなら、私に反対する理由はありませんもの」
「あるだろ!? 安全とか安全とか安全とかが!!」
「王都は治安がいい。そうおっしゃったのは陛下ですわ。それに、パルマをつけましたもの。彼が供をする限り、危険はありませんわ」
それに、陛下が毎朝リジィに付き添うなんて、絶対に無理でしょう?
ラヴィがそう、可愛らしく小首をかしげていう。
ディゾルドは、ぶるぶると身体を震わせて、呻いている。
わたしはラヴィの後押しをするつもりでいった。
「そうだぞ。パルマはすごい。どれほど走っても、息一つ切らさなかったからな」
「俺だってそうだったでしょう!? 俺のこともすごいっていってくださいよ!!」
「それに彼はなんと、腹筋が六つに割れているんだ」
「はっ?」
ディゾルドが驚いた顔をする。
そうだろう、そうだろうと、わたしは頷いた。
「見せてもらって、わたしもびっくりした。見事に鍛え上げられた肉体だった」
「リジィ、さすがにそれは、誤解を招くかも……!」
「はっ? えっ? どういうことです? 見せてもらった? 見たんですか? パルマの身体を? はっ? 奴があなたの前で服を脱いだということですか? えっ? 俺は今すぐ奴を斬首すべきでは?」
「馬鹿なことをいうな。わたしが見せてくれと頼んだんだ」
「なぜ!?」
「体力づくりの訓練の話をしている内に、彼が腹筋が割れているというので……、つい」
たしかに、こう考えてみると、気軽に頼む内容ではなかったかもしれない。
しかし、言い訳をさせてもらえるなら、わたしは、六つに割れている腹筋というのを、今まで見たことがなかったんだ。それに、パルマはとても優しげな顔立ちの青年で、屈強な戦士という風ではないから、そんなに鍛えているのかと驚いて……。
でも、やっぱり、不躾な頼みだったかもしれない。わたしは、恥ずかしさと申し訳なさで頬を赤らめた。
すると、ディゾルドが、なぜか、がたりと音を立てて、勢いよく椅子から立ち上がった。
「リージェ! 俺だって、腹筋くらい割れてます!!」
「やめろ。脱ごうとするな」
「どうしてですか!? 俺のも見てくださいよ! 俺の腹筋で記憶を上書きしてください!」
「何をいってるんだ、お前は。いいから脱ぐな。王がおかしなふるまいをするな」
「職業差別です! はっ、まさかあなた、王よりも執事見習いのほうが好みなんですか!?」
本当に何をいってるんだろう、この男は?
わたしは、とりあえず、紅茶をいただいた。喉が渇いていたのだ。
わたしが無言で紅茶を飲んでいると、ディゾルドが渋々という様子で座りなおした。
それから、苦い口調で尋ねてきた。
「それで? あなたまで、墓荒らしの一件を調べるつもりなんですか、リージェ」
「そうだな……、とりあえず、ミス・カーソンの大家に話を聞きに行こうと思っている。あの墓荒らしの素性もわかるかもしれないからな」
生前の彼女の様子を知りたいというと、親切な墓守が大家の住所を教えてくれたのだ。
ディゾルドは、ううーんと唸って、複雑そうな顔をした。
「ラピスは、昔から、不思議なことや奇妙なことが大好きでしたから、今回も調べるといいだすだろうとは予想してましたが……。あなたも、その手のことに興味があるんですか?」
わたしは答えられなかった。
不思議なことに興味があるというよりは、あのとき、あの墓荒らしが、あんなにも辛そうな声で「師匠」と呼んだから、だからわたしは気になっているのだろう。わたしの記憶を揺さぶるから。七日に一度だけ訪れてくれた人。わたしの師匠。アップルパイの思い出。
けれど、今はまだそれを、上手く説明できる気がしない。
押し黙ってしまったわたしに、ディゾルドはなにかを察したのだろう。彼はいつも、いたわりをもって、わたしの過去に触れないでいてくれる。
ディゾルドは、穏やかに微笑んでいった。
「やれやれ。2対1じゃ、俺に勝ち目はありませんね。仕事があるので、一緒には行けませんけど、できる限り協力します。実をいえば俺も、墓荒らしのことは気になってましたからね」
ただし、と、ディゾルドは真剣なまなざしで続けた。
「ラピス、リージェ。必ず二人で行動してください。絶対に一人にはならないように」
「わかってるわ、陛下」
「ああ、大丈夫だ」
ラヴィには護衛がついている。一緒にいれば、わたしの身も守れる。そう判断してのことだろう。
わたしは頷きながら、ディゾルドが賛成してくれたことに、内心ほっとしていた。