薄氷の王と亡国の王妹 3(終)
わたしは、ディゾルドの指から逃げるように身体を引いて、ぼそぼそといった。
「べつに、そんなことは考えてない」
「そうですか! それは何よりです!!」
ディゾルドが胡散臭いほど晴れやかな笑顔でいう。とても胡散臭い。
わたしは少しばかり苛っとして、顎をそらせて言い放った。
「わたしは王族としての責務を全うすると決めている。必要があれば命も差しだすが、無為に死ぬような真似はしない」
「さすがです、リージェ。その意気で、我が国での生活も楽しんでください」
「……我が国?」
「オーランドです」
……そうか。
やはりこれは、愛妾だな?
わたしは内心で納得した。
オーランド王の愛妾として暮らせということなのだろう。亡国の王族を生かすためには『王の戦利品』になるしかない。何事にも建前は必要なのだ。
あの将軍もいっていたではないか。処刑台か、あるいは愛妾かと。
そこまで考えて、わたしは、すうっと青ざめた。
もしかして、わたしは今まさに、愛妾としての既成事実を作るべき状況にいるのだろうか?
ディゾルドが、夕食を終えても、この部屋に留まっているのは、そういう意味だったのか?
わたしは密やかに動揺した。
これは、嫌だとか良いだとか、そういう話ではない。
わたしはわたしの責務を果たす。
しかし、だ。
わたしは子供の頃に幽閉され、それ以来、教師の1人も得られずに生きてきた。世の中の淑女は、適齢期になれば、恐らくは、その類の教養を得るのだろうが、わたしにはない。
寝台の上での手管というものが、まったく、さっぱり、わからない。
どうすればいいんだ。とりあえず服を脱げばいいのか?
そう考えて、わたしはますます血の気が引いた。
なんてことだ。 ─── 服が、脱げない。
なぜって、こんなドレス、10年以上着た覚えがないからだ。
自由があった子供の頃でさえ、このような上物のドレスを着た覚えがない。どこをどうほどけばいいのか、さっぱりわからない。まさか、今さら、着せてくれた女官たちに、脱ぎ方を教えて欲しいと頼みに行くわけにもいかないだろう。
わたしは、脱ぎ方のヒントが見つからないだろうかと、ちらちらっと自分のドレスに目を走らせて、早々に降参した。これは無理だ。下手に脱ごうとしたら引きちぎりそうだ。一生かかっても弁償できる気がしない。
しかし、だからといって「すべてお前に任せる。好きにしてくれ」などといってしまうわけにはいかないだろう。
それは苦労の押し付けというものだ。
ディゾルドとて、この骸骨同然の身体に欲望を抱くのは、たいそう難儀にちがいない。それでも彼は、王として責務を果たそうとしている。
ならば、わたしも、最善を尽くさなくてはならない。
わたしはすっくと立ち上がり、椅子に座るディゾルドの真横へおもむいた。
「リージェ? どうされました……か……ッ!?」
ディゾルドの語尾が跳ねる。
彼がわたしを見上げたときに、わたしもまた、ぐいと身をかがめたからだ。
ディゾルドが、酷く近い。彼の瞬きの音すら聞こえてきそうだ。
美しい薄緑色の瞳が、うろたえながらわたしを見つめている。
わたしの無駄に長い髪が、彼の頬にかかってしまったので、耳にかけることで取り除くと、彼の瞳はますます大きく見開かれた。
「リージェ……ッ!?」
焦りすら滲む声だ。
さて、わたしはこれからどうすればいいのだろう?
とりあえず口づけの一つでもしてみようか?
だが、そういったことは無断でしてはいけないのだ。わたしにもそのくらいの常識はある。
わたしは、ディゾルドの瞳を見つめたまま、唇が今にも触れ合いそうな距離で、彼に許可を求めた。
「キスをしてもいいか?」
「ハァッ!? なっ、ななななっ、なにをいい出すんですか、あなたは!? いえ、誤解してほしくないんですが、決して駄目だといっているんじゃないですよ!? ダメじゃないですからね!! 全然ダメじゃありませんが……、でも、あなた、なにか変なこと考えてません……!?」
「わたしにできることといったら、これくらいしか思いつかなかったんだが……」
お前の好みじゃなかったか。残念だ。
そう呟くと、すうっとディゾルドの眼の色が変わった。
「……もしかして、俺への見返りのつもりでしたか?」
何かを押し殺すような声だった。
彼の端正な面立ちに、苛立ちの混じった冷たさが滲む。
わたしはゆるく首を横に振った。
「お前を侮ったわけじゃない。わたしはただ、協力したかっただけだ」
「へえ? 何を協力してくれるというんです」
「愛妾としての既成事実作り」
ディゾルドが、絶句した。
わたしは力強く続けた。
「お前がわたしの命を救おうとしてくれていることはわかっている。そのために愛妾にするのだということも」
「はっ? えっ? 何もわかってないですよね?」
「わかっているとも。愛妾として、一度くらいは既成事実があった方がいい。だが、わたしの身体に欲情するのは至難の業だ。お前はそう思っているんだろう?」
「本当に何にもわかってないですよね、あなた!!」
ディゾルドが絶叫した。
「愛妾になってくれなんて、俺は一度もいってませんよね!?」
「わかっている。言いにくい事柄だものな」
「考えてないからいってないんだという発想に至ってくれません!? なんで躊躇なく人にキスしようとするんです!? 百歩譲って愛妾だと思い込むまではともかく、その後の行動がおかしいでしょうがッ!!」
そこまで叫んでから、ディゾルドはハッとした様子で息をのんだ。
「リージェ……、まさか……」
彼の瞳が、驚きから、怒りへと移り変わっていく。
底知れない怒りの奥には、憎しみすら垣間見れる。
「誰かが ─── あの塔に近づけた“誰か”が、あなたに、そうしろといったんですか? あるいは、そうすることが正しいのだと、あなたに教えた……?」
ディゾルドが、懸命に、激情を抑え込んでいるのがわかった。
彼は必死に冷静さを保って、わたしを見つめている。
─── あぁ、優しい男だな。
わたしを気遣っている。わたしを傷つけまいとしている。
わたしの10年間について尋ねることを、彼はひどく、ためらっているのだろう。わたしの傷を抉るも同然の行為だと考えている。わたしが無知であることを指摘して、わたしに恥をかかせるような真似をしたくないと思ってくれているのだろう。
良い男だ。立派な青年に成長した。
わたしはこんなときだというのに嬉しくなって、微笑みながらいった。
「気にしなくていいよ、ディー」
声が甘ったるくなるのは、弟同然の彼が可愛いからだ。
子犬のようだった彼が、今では大型犬のように愛らしい。
「わたしは何も気にしていない。全部終わったことだよ。ディーも気にしなくていい」
ディゾルドは、食い入るように私を見て、それから深く息を吐き出した。
何もかもを、沈黙とともに飲み込んだ男の顔だった。
わたしの強がりを見抜いているのだろう。
だけど、触れない。
わたし自身ですら触れたくない事柄だということもまた、わかっているからだ。
沈黙は温かな毛布のように優しい。
「……まず、誤解を解いておきますが、俺はあなたを愛妾にする気はありません」
「そうか」
「もちろん処刑台もあり得ません。あなたには、我が国へ留学に来てもらいます」
わたしは首をかしげた。
それはかつて、どこかで聞いた覚えのあるフレーズだったからだ。
「リジエラ姫は、現在、この国で唯一の王位継承者です。我々はいずれあなたに女王となっていただき、同盟を結びたいと考えています。しかし、あなたは、王になるための教育を受けていない。そこで我が国へ留学し、しばらく帝王学について学ぶという……」
「建前だな?」
「建前です。実際は人質ですね」
ディゾルドはあっさりと認めた。
留学という響きが懐かしかったのは、かつて眼の前の青年が、まさに留学という建前でもってこの国へ来ていたからだ。
実情は、捨て駒同然の人質だった。
「こんな方法しか取れなくて、申し訳ないと思っています。でも、どうかわかってほしい。俺としても考え抜いた結論です。これが、最大限、あなたに自由を取り戻すことができる選択肢だ。どうか、この話を受けていただけませんか、リージェ」
わたしにためらいはなかった。
わたしはただ、思い出していた。
「……昔、大切な人に、いわれたことがある。『どこであろうと、あなたがいるなら楽園だ』と」
ディゾルドが大きく眼を見開いて、それから、へにゃりと眉を下げた。
「覚えてますよ……。俺がまだ、頼りないガキだった頃の話だ。必死で背伸びして、大人ぶって、でも実際には無力なガキだった。何もできなかった」
「それはちがう。お前は今も昔も頼りになる男だよ」
わたしはディゾルドの栗毛色の髪をそっと撫でて、視線を合わせていった。
「あのときの言葉を、そっくりそのまま返そう。わたしにとっても、ディーがいるなら、楽園だ。どこであろうとも構わない」
ディゾルドは、感情を抑えこむように、浅く息を吐いた。
彼は立ち上がり、わたしを一度は見下ろした。
それからおもむろに、その場で片膝をついた。
「感謝します、リジエラ姫。あなたの自由と安全は、オーランド国王の名にかけてお守り致します。何かあれば、必ず、すぐに俺にいってください。俺が対処します。今後は、あなたには、一滴の憂いもない暮らしを ─── 」
「大丈夫だ。自分のことは自分で何とかする」
「いやいや俺を頼ってくださいね!? 俺、国王ですからね!? あなたが望むのなら、どんな暮らしだって提供できるんですよ!? 豪奢なドレスも、最高級の宝石も、大勢の侍女も、あなた専属の画家や音楽家だって、いくらでも惜しみなく揃えることができるんですよ?」
何を馬鹿なことをいってるんだろうか、この男は。
あぁ、もしかして、疲れているのか?
戦の後だ。当然だな。
わたしはポンポンとディゾルドの肩を叩き、今夜はもう休むように伝えた。
「お前も大変な1日だったな。早く寝るといい」
「……はぁ……。まあ、いいですけど……。あなたもちゃんと休んでくださいね?」
「わかっている」
「……一人で大丈夫ですか? 俺でよければ添い寝しましょうか? 俺には鋼の理性がありますし、子守唄も結構うまいんですよ。自信を持ってお勧めできる人型枕です」
そういってディゾルドがわざとらしく両腕を広げてみせる。ふざけた口調だが、眼差しは真摯だった。
わたしはくすりと笑って、首を横に振った。
「大丈夫だ。愛妾にする気がないなら、国王がみだりに女性の部屋に泊まるものじゃない」
「それはわかってますけど……、心配なんですよ」
いつでも俺の部屋に忍んできていいですからね、と軽い口調で付け足される。
そうして、部屋を出て行こうとする後姿に、私はつい、尋ねてしまった。
「陛下は……、イアス国王は、見つかったのか?」
ディゾルドがクルリと振り向く。
軽い笑みを浮かべて、彼は肩をすくめてみせた。
「残念ながら、まだですね。……もしかして、見つけて欲しくないと思ってます?」
わたしは答えられなかった。
あの異母兄に、家族としての愛情があるわけではない。
ただ、わたしは、これ以上誰かの死を見たくない。
「まあ、俺としても、見つからなければ、それはそれで構わないと思ってますけどね」
「そうなのか?」
「だって、あの男に、再起できるような人望はないでしょう。放っておいてもそこらで野垂れ死にますよ。イアスの王族はあなたがいるから問題ないですしね」
わたしはホッとしていた。
気が狂いそうなほどに憎んだ異母兄でも、処刑台に上がる姿を見なくてすむということに安堵していた。
ディゾルドは、労わるようにわたしを見つめて、優しくいった。
「あんな屑のことは、もう考えなくていいじゃないですか、リージェ。今夜はゆっくり休んでください。明日は一緒に朝食をとりましょう。昼食も、夕食も一緒にね。あなたが行きたい場所に行きましょう。どこへでも、お供しますよ」
温かな声だった。
わたしは頷いた。
緊張がほぐれると、睡魔が襲ってくる。眼をこすったわたしに、ディゾルドは小さく笑うと、戻ってきてわたしの手を取り、寝台までエスコートしてくれた。
「ここで休んでいてください。今、女官を呼んできます。そのドレスじゃ寝苦しいでしょう?」
一人では脱げないということは、とうに見抜かれていたらしい。
※
かりそめの寝室へ戻ると、右腕の男が待っていた。
「おや。本当に泊まってこなかったんですね、陛下」
「お前、俺をなんだと思ってる?」
憮然とした声が出た。
「今のあの人に手を出すような屑がいたら、俺が八つ裂きにして殺すぞ」
吐き捨てて、長椅子にどっかりと腰を下ろす。
酷い気分だった。ここが敵国でなければ、浴びるように酒が飲みたいところだ。
彼女に会えて嬉しい。震えるほどに嬉しい。歓喜が胸をついて、あらゆるものに感謝を捧げたくなる。
けれど、同時に、すべてを呪いたくなる。あの痩せ細った姿はなんだ。絶望の滲む眼差しはなんだ。悲しみすら枯れ果てたかのような、恐ろしく静かな面差しはなんだ?
─── 俺は、なにをしていた。
なぜ、もっと早く助けに来れなかった!?
自分自身への怒りと、あの屑への殺意が収まらない。
平静を取り戻そうと、深く息を吐き出す。背もたれに深く身体を預ける。
友人が水の入ったグラスを差し出してくれる。一息に飲み干してから、苦い顔で友人を睨みつけた。
「お前、あの人に、俺の愛妾になれだとかほざいたか?」
「そういう選択肢があるとは話しましたよ」
「よーしよしよし、お前が処刑台に上がっとくか?」
「一般的な話をしただけです。処刑台が似合う人間は、ほかにいるでしょう」
淡々といわれて、ふっと笑う。
喜びではない。楽しさでもない。
憎しみと、怒りの笑いだ。
「捕えたか?」
「ええ。簡単にね。あの手の人間が取る行動なんて、わかりきってますから」
「有能な男だよ、お前は。ご褒美は何がいい?」
「溜まっている書類にサインをください。それから臨時の給金も弾んでください」
「わかった、わかった。好きなだけ書類を積んどけ。金も要るだけ持っていけよ。その代わり、あのゴミは、しばらくお前の管理下な」
「生かしておくんですか? 何のために」
処刑台に引きずり出すために捕えたのではないのかと、友人が眉根を寄せる。
たしかに、戦の終わりとイアスの敗北を見せつけるためには、首があったほうが簡単にすむ。
だが、今のところ、イアスを根こそぎ潰す計画はないし、王宮まで制圧しているのだ。首がなくとも片は付けられる。
「だって、もったいないだろう? 俺は信仰心の厚い男じゃないからな。死後の地獄なんてものは信じてない。だが、生きている間なら ─── 」
沈黙に含みを持たせて、空のグラスをもてあそぶ。
友人は、無言で銀色の水差しを取り、俺のグラスに注いだ。
そして深くため息をついた。
「それで? あの姫君には秘密にしておくんですか?」
「そうだな、あの人が自分の手で八つ裂きにしたいという日が来たら教えるさ」
「来ますか、あの姫君に? 僕の印象では、あの姫君は、そういうタイプではないと思いますけどね」
「だが、本来、復讐の権利はあの人にある。俺よりもな」
「姫君が権利の行使を望まなかったら?」
しつこく聞いてくる奴だ。
屑への憐れみなどではないことはわかっている。こいつは単に、管理を任されたのが面倒なのだ。
しかし、俺の預かりにするわけにはいかない。視界に入った瞬間に斬り殺してしまう。
俺は軽く肩をすくめていった。
「さあな? いつかは、どこかの浜辺に打ち上げられるんじゃないか? 仕方ないさ。民を見捨てた国王なんて、誰も引き取っちゃくれないからな」