薄氷の王と亡国の王妹 2
わたしは、鏡の中のわたしを、わずかな驚きを持って見つめた。
長年幽閉されていた身だ。ひどいだろうとは思っていたが、これは予想以上だ。
まるで骸骨の頭に、汚れた長い髪を乗せたかのような姿だ。
残念には思ったが、羞恥はさほど感じなかった。仕方ないだろうと受け入れていた。
あの日々の中で、身体を清潔に保つために、わたしにできる最大限のことはした。湯浴みなど不可能で、ときおり差し入れられる濡れた布や、水の入った小さなタライを、大切に使っていたのだ。
その結果が、墓場を連想させるこの外見であっても、やむを得ないだろう。
「姫様、どうぞこちらへ」
女官たちへせかされて、浴室に足を踏み入れる。
仕事場へ到着したからだろう。彼女たちの顔には、動揺や恐怖よりも、意気込みと焦りが感じられた。この薄汚い王妹を磨き上げるのは、大仕事になると、彼女たちも悟ったのだろう。おまけに、戦場では後衛に控えていたディゾルド王は、夕刻にはこの王宮に到着するという。時間はさほど残っていない。
わたしは、本当ならば、この十年間について、彼女たちに色々と聞きたいと思っていたのだけれど、大人しく口をつぐんだ。そうでなければ、石鹸の泡が口に入ることは明らかだったからだ。
殺気立った女官たちに、洗濯物のように丸洗いされながら、考える。
湯浴みをさせられるだけで、愛妾行きが決定したのだなと早合点してしまったが ─── 、こんな骸骨のような女を、王にあてがおうと思う人間がいるだろうか?
これがまだ、王族としての政略結婚ならば、血筋や身分が優先されるため、容姿や教養には目をつぶるという状況もあるだろう。
しかし、わたしの国は滅んだ。王は民を捨てて逃げ出し、今やこの王宮を支配するのは敵国 ─── オーランド国の将軍である。わたしの姓でもあるイアス国は、この先恐らく、イアスの名を失って、オーランドの領地となるのだろう。
つまり、わたしの血筋も身分も価値を失った。
この状況で、わたしを愛妾にと望むならば、わたしが見目麗しい姫君であるだとか、深い教養と見識の持ち主であるだとか、あるいは、その……、閨で素晴らしい魅力を発揮する女性であるだとか、そういった何かしらの才能が求められるだろう。
骸骨のような外見で、10年も世間から取り残されて、無知で、閨でのことなど何一つわかっていない人間に、愛妾が務まるとは、愚かなわたしですら考えない。
あの将軍は、本人のいう通り、頭の切れる人物のようだった。ならば当然、わたしに愛妾など無理であるということは、一目でわかっていただろう。それでも、ボロ雑巾のようなわたしを前にして、不快そうな顔一つ見せず、姫君として扱ってくれただけ、あの将軍は人間ができている。
わたしは、そこまでつらつらと思考を巡らせて、最後に納得した。
─── やはりわたしは、処刑台に上がるのだろう。
将軍は、恐らく、わたしへの慈悲か、あるいは、ボロ雑巾のままで王の前に立たせることはできないと考えて、湯浴みをさせているのだろう。
わたしは、密やかな安堵とともに、その結末を受け入れた。
※
身支度を終えて、部屋に戻る頃には、すでに日は暮れていた。
女官たちは口々に「見違えましたわ」「磨き上げたかいがありましたね」「元の素材がよかったんですわ」などと褒めてくれたが、元が酷すぎただけである。ボロ雑巾でも洗濯されれば、多少はきれいになるのと同じ現象だ。長い髪が綺麗に洗われて、結われただけでも、たしかに見違える。
まあ、現実には、不潔な骸骨が清潔な骸骨になったというだけのことだろうけども。
女官の後を、できるだけしずしずと歩いてついていく。
控えていた兵士たちが扉を開け、中に入ると、室内にはすでに人がいた。
女官たちの肩が跳ねる。動揺と恐怖が広がり、小さな悲鳴が上がる。
部屋の中にいたのは、将軍と、もう一人、身なりの良い青年だった。
椅子に腰かけていた青年は、わたしと視線を合わせて、がたりと立ち上がった。
わたしは、動揺する女官たちの前に出た。
青年の端正な顔立ちに、たしかに、見覚えがあったからだ。
懐かしさが胸をつく。
ドレスをそっとつまみ上げて、礼を取りながら、思わず言葉が零れ出ていた。
「お久しぶりでございます、ディゾルド陛下」
本当に、大きくなった。あの子犬のようだった子供が。
「ええ……、本当に、お久しぶりです、リジエラ姫」
その声も、昔とはちがう。低く、どこか凄みのある声音だ。
ディゾルドの隣に立っていた将軍は「では、僕はこれで失礼します」と告げて、部屋を出て行った。
将軍の目配せを受けた女官たちが、そそくさと後に続く。
室内は、わたしとディゾルドの二人きりだ。
いいのだろうか。いくらわたしが武器も持たない非力な女とはいえ、今のこの状況で、王に護衛の1人も付けなくて、大丈夫なのだろうか。わたしが、国を滅ぼされたことを恨んで復讐に走ったら、いったいどうするつもりなのか。もちろん、ディゾルドがわたしを剣の一閃で切り捨ててくれればいいけれど、顔見知りの女が相手では、彼だって躊躇してしまうかもしれない。その一瞬が命取りになるというのに。
わたしが、彼らの不用心さに腹を立てていると、ディゾルドは、にこやかにいった。
「とりあえず、座りませんか、姫。今、食事を用意させますので」
「……まさか、わたしの分も?」
「どうしてまさかなんです?」
甘い顔立ちの男が、笑ってそう答える。
わたしは内心で困惑しつつ、椅子に腰を下ろした。
これが最後の晩餐というものなのだろうか。
何から尋ねようか考えている内に、本当に二人分の食事が運ばれてきた。
わたしとディゾルドの間にある丸いテーブルの上に、いくつもの器が並べられていく。
侍従や女官ではなく、兵装姿の男性たちが運んできたので、オーランドの兵士だろう。王宮を制圧したばかりだ。イアスの料理人に作らせては、何を盛られるかわからない。そう考えるのは当然の判断だ。
わたしが困惑しているのは、ただ、用意された食事が、あまりに量が多いことだった。
ディゾルドに勧められ、わたしたちは黙々と食事を始めた。
彼に聞きたいことは多くあったのだが、わたしはすぐに、それどころではなくなった。食べきれない。今までの食事から考えると、軽く十倍はある。腹は瞬く間に膨れて、次に嘔吐感がやってきた。
しかし、残すのはあまりに申し訳ない。
せっかく作ってもらったのに、手を付けていない皿もまだあるのだ。
わたしが必死で喉の奥に押し込んでいると、ディゾルドがじっとこちらを見ていった。
「……姫には申し訳ありませんが、さすがにまだ、ここの料理人たちに作ってもらうわけにはいかないので、食事はうちの補給部隊から調達させました。俺は美味いと思っていますが、俺の味覚は破壊されていると評判なので、あてになりません。なので、口に合わなかったら正直にいって欲しいと思っていたんですが……」
「美味しいです。何の問題もありません」
「ええ。その様子だと、問題があるのは味じゃなくて量ですね?」
わたしはつい、押し黙った。
ディゾルドは、気にしないでくれというように、軽く手を振った。
「謝るのは俺のほうですから。俺が、量を多くするように命じたんです」
なんと。
わたしがじっとりとした視線を送ると、ディゾルドは気まずそうに眼をそらした。
「だってねえ? あなたがあまりにも痩せていたから……」
それをいわれてしまうと、抗議もしにくい。
「不躾なことをいってすみません。それに、食事の量も、謝ります。こういうのは、少しずつ量を増やしていくべきでしたよね」
少しずつ?
わたしは首をかしげた。
そして、聞かなくてはならないことを尋ねた。
「今夜が、最後ではないのですか?」
ディゾルドは、少しだけ、驚いたような顔をした。
彼の薄緑色の瞳が、灯りの加減で、まるで薄氷のような輝きを見せる。冷たい光だと思った。ディゾルドは何か真意を隠している。そう気づいたけれど、聞いていいことなのかはわからなかった。
ディゾルドは、自分の分の食事と、わたしが手を付けられずに睨みつけていた皿まで、きれいに平らげてから、一式を下げさせて、今度は良い香りのするお茶を淹れてくれた。
そうして、わたしをじっと見つめて、穏やかに微笑んだ。
「どこから、お話したらいいか……。俺は迷ってるんですよ、リジエラ姫」
「先ほどから思っていましたが、陛下がわたしに敬語を使う必要はありません」
「それは俺の台詞ですよ、リージェ」
懐かしい呼び名だ。
わたしが驚きとともに瞬くと、ディゾルドは嬉しげに頬を緩めた。
「ねえ、俺のことも、昔みたいに呼んでくださいよ」
「……今のあなたは、王子ではないのですから」
「そうですよ。一国の王です。最高権力者だ。なんだって好きにできる。その割には不自由が多くて旨みのないお仕事ですけどね。……あなたに、昔みたいに呼んでもらうことくらい、叶ったっていいでしょう?」
子供の頃のような、甘える口調だ。
心がぐらぐらと揺れた。
あぁ、これは本当に、夢じゃないんだろうか? あの小さな王子が、弟のように可愛かった子が、こんなに大きく、立派になって、それでもまだ、昔のようにわたしの名前を呼んでくれる。
もう、この王宮で、誰もが忘れ去ってしまっただろう、わたしの名前を。
「……ディー」
声が震えた。
それでも、ディゾルドも、大きく眼を見開いて、一瞬、泣き出しそうに顔をゆがめたから、いいのだと思った。わたしが目尻を濡らしても、気にしないでもらえただろう。
沈黙が下りる。それは、湯気のように温かな沈黙だった。
けれど、わたしにはまだ、聞かなくてはならないことがあった。
ぐっと眉間にしわを寄せて、壊れそうな涙腺を引き締める。
腹の底に力を込めて、強い声でもう一度、彼の名前を呼んだ。
「ディー。久しぶり……、です……」
「いやいや、そこは敬語は無しでお願いしますね?」
「陛下がわたしに敬語を使う方が間違っています」
「間違ってませんね。なぜって俺は年下ですから!」
ぐっと親指を立てていわれた。
「俺とあなたの仲ですから、地位も身分も関係ありませんが、年齢は関係あります。あなた、昔、さんざん俺のことを子供扱いしたでしょう。たった二歳しか違わないのに、年上のいうことは絶対だといわんばかりに、俺をまるで子犬か何かのように扱って! 忘れたといわせませんよ、あの湖での一件。俺も一緒に行くといったのに、危ないから駄目だと俺を置き去りにして、あなた一人で行って一人で死にかけて……! 俺が怒ったら『わたしは年上だからだいじょうぶ』ってほざきましたよね。二歳しか違わないのに!」
「……なにを、怒っているんだ……?」
「昔のあなたと俺の間に横たわっていた二歳差を恨んでます」
なるほど。
よくわからないが、恨まれていたらしい。
「とにかく、俺があなたに敬語を使うのは、昔のあなたのせいなので諦めてください」
「なら、わたしも」
「リージェは駄目です~。俺が駄目といったらダメなんです~」
ふざけた口調だが、眼は笑っていない。
わたしは、とうとう諦めていった。
「では、聞こう。まず、お前は、この国をどうするつもりなんだ?」
「最終的には、解体して吸収します。でも、しばらくは、名目上の同盟国扱いですね」
「実質は属国か」
「悪いようにはしませんよ。あなたの顔に泥を塗るような真似はしません」
「わたしに今さら傷つくような体面はない。わたしのことは気にしなくていい。ただ、この国の人々のことは、どうかよろしく頼む」
頭を下げる。
下げたままいった。
「わたしは、処刑台に行くのでも構わない」
しばらく待ったが、答えはなかった。
わたしが恐る恐る顔を上げると、ディゾルドは、困ったような、それでいて苦しそうな眼をしていた。
「ねぇ、リージェ」
その声で、気づかれているのだと悟る。
本心ではなくて、本心でもあった。
─── わたしはこの10年間、わたしを打ち負かそうとしてくる絶望に、必死で抗った。膝を折り、独り慟哭して、それでもなお、抗い続けた。生きなくてはならないと思った。……そして、そうやって、耐え続けることに、疲れ果てていた。
「……本当は、もう、終わりにしたいんですか?」
わたしは答えられなかった。
ディゾルドの、長い指が、そっとわたしの頬に触れる。
いたわるような、慈しむような触れ方だった。
「あなたの10年間について、俺に触れる資格はない。つらかったでしょうね、なんて、そんな言葉で片付けられるものではないでしょう。あなたが話したければいくらでも聞くし、話したくなければ何もいわなくていい。 ─── でもね、リージェ。それだけは駄目です」
すうっと、ディゾルドの瞳が冷たくなる。
凍りつくような、それでいて燃え盛る炎のような眼差しだった。
「俺を傲慢だと罵っていい。けれど、それだけは許さない。死だけは、俺はあなたから奪うと決めている」