薄氷の王と亡国の王妹 1
わたしは、じっくりと窓の外を観察した。
はめ殺しの窓は、開くことはできない。大きさもせいぜい、私の上半身が収まる程度だ。だからわたしが見回せる範囲には、すぐに限界が訪れる。それでも、隅々まで見つめて、わたしはホッと胸をなでおろした。
少なくとも、見える限りでは、煙は上がっていない。赤い炎もまた、見つけられない。
滅ぼされた王国の首都としては、幸いだといえるだろう。
※
わたしは王妹である。
もっとも、この十年間は、王宮の森にある塔に幽閉されていた。
国王であるわたしの異母兄は、玉座に就くと同時に、次々とほかの兄弟たちを粛清していった。
王の暗殺を企てた、あるいは反乱を起こすつもりだった、などと、理由は様々で、表向きだけは筋が通っていたが、それが事実ではないことは誰もがわかっていただろう。国王は、王位継承権を持つ兄弟たちが目障りだったのだ。
わたしが生かされたのは、わたしが女であり、未婚の姫は、わたししかいなかったからだ。
ほかの異母姉たちは皆、国内の有力な貴族や他国の王族へ嫁いでいた。わたしは王にとって唯一残った『政略結婚のための手札』だったのだ。
わたしは、殺されずにすんだ代わりに、わたしの身の安全のためという、さすがに笑うしかない理由で、幽閉された。窓もない狭い部屋に押し込まれてから、十年間、わたしは一人で暮らしてきた。
いずれ、どこぞの有力者へ嫁がされることが決まった日に、わたしはこの塔から出られるのだろう。それにしたって、政略結婚に使う気ならば、最低限の教養を身につけさせるべきだろうに。教師の1人もつけず、この狭い一室に閉じ込めて、わたしが勝手に立派な淑女になってくれると思っているのだろうか。……そんな風に、毒づきながら、気が狂いそうな日々に耐えてきた。
一度も想像したことはなかった。
まさか、我が国が攻め落とされて、国王が、王宮を捨て国民を捨てて、逃げる時間を稼ぐために、身代わりとして解放される日が来るとは。
わたしはやはり、世間知らずなのだ。
つくづくとそう思う。
十年も幽閉されていたのだから、時勢について知らなくとも仕方ない。そう自分を慰める一方で、王族でありながら、守るべき国が亡びる日まで何も知らなかったことが、あまりにも情けなかった。
荒い靴音とともに、兵士たちが駆け込んで来たとき、わたしはてっきり、国王の気分が変わって、ついにわたしも処刑されるのだとばかり思っていた。
しかし、兵士たちに両腕を掴まれ、国王の前に引きずり出されると、王は血走った眼をしていった。
「お前は王族だッ! お前には責任がある。王族としての責務を果たすのだ、わかったな!?」
わからない。さすがに意味がわからない。
しかし、素直にそう答えれば、この男は子供のような癇癪を起して、わたしを殺すだろう。そう思って、わたしはただ、はいと頷いた。
「よし……、よし、それでこそ王家の姫だ」
王は荒い息を吐きながら、満足げに頷いていった。
「よいか。余は生き延びなくてはならない。いずれこの国を取り戻すためにも、余は、あらゆる悲しみを乗り越え、数多の犠牲を払ってでも、生き延びなくてはならぬのだ。お前のことは忘れぬぞ、余の愛しい妹よ」
なにをいっているんだろうか、このクソ男は。
つい言葉遣いが悪くなってしまう。わたしはさすがに呆気にとられていた。余の愛しい妹とは誰のことだ。まさか十年間幽閉してきたわたしのことじゃないだろうな?
わたしは、そっと、視線をさまよわせた。謎の悲劇に浸っている王に状況説明を求めても、無駄どころか、わたしの命の危険が生じるだけだ。誰でもいい。誰か説明してくれる人間はいないものか。
結論からいうと、その場には一人もいなかった。
有能な官吏たちは皆逃げたのか、それとも命を落としてしまったのか。残っていたのはただ、王に追従することしかできない者たちだった。
彼らが逃げて、わたしは途方に暮れた。
しかし、しばらく経つと、ようやく説明してくれる人が現れた。
─── それは、敵国の将軍だった。
※
そのとき、わたしは、ひとり、所在無く立っていた。
その頃には、さすがに、薄々察してはいた。人々の怒号や、叫び声、馬のいななき。そういったものが、わたしに戦が起こっていることを教えてくれる。そして、王も側近たちも、逃げられる者はすべて逃げ出したのだろう、この人の気配がしない王の間だ。敗北は疑いようもない。
責務を果たせとは、つまり、わたしに王の代わりに死ねということだろう。
わたしは笑った。唇を上げて苦く笑い、声を上げてけたたましく笑い、それから ─── 深くため息をついた。
逃げ出そうとは思わなかった。あの王は屑だが、それでも正しい。王家の誰かが敗戦の責任を取らなければならない。今、この国を攻め込んできている敵国の兵たちも、誰かの首を落とさなければ、戦を終わりにできないだろう。本来、王の首があるべきだが、すでに逃亡済みだ。不満はあるだろうが、王妹の首で我慢してもらうしかない。
無いよりはマシ、というやつだ。
わたしが、そんなことを考えながら、空の玉座を見下ろしていたとき、扉は開いた。
※
将軍だと名乗った男は、その地位からは想像しにくいほど、ほっそりとしていた。
向かい合って座る、わたしの驚きに気づいたのだろう。
気分を害した様子もなく「僕は頭脳派なので」と淡々といった。
一見、人畜無害な人物にも見えたその将軍は、すっと眼差しを冷ややかにして、わたしを見た。まるで測るような眼差しだった。わたしは内心焦りを感じていた。疑われているのかもしれない。王妹だと嘘を吐いていると思われてもおかしくない。そもそも、十年間、一度も人前に姿を現さなかった王妹など、彼らは存在すら知らない可能性が高いだろう。この計画は最初から破綻しているのだ。
しかし、だからといって、ここで役割を放棄するわけにはいかない。
わたし以外に首を差しだせる王族は残っていないのだ。
わたしが王妹であることを、どうにか立証しなくてはならない。
わたしは、必死で頭を巡らせて、あッと目を見開いた。一人の少年の顔が脳裏に浮かんだからだ。
けれど、同時に思う。
彼は、まだ生きているだろうか ─── ?
わたしはためらいながらも、他に手立てが浮かばずに、せいぜい胸を張っていった。
「わたくしの身分を疑うのなら、ディゾルド王子に聞けばよろしい。かの王子は、幼少のみぎり、この王宮で過ごしたことがあるのですから」
あの子は、人質として差し出された王子だった。
母君の身分が低く、母国ではいつも一人で過ごしているといっていた。わたしも同じくらい一人だったから、彼がこの国にいる間は、ずっと一緒にいた。二つ年下の、可愛らしい男の子。まるで二匹の子犬のようにじゃれ合って過ごした。今となっては、数少ない、わたしの幸せな思い出だ。
だが、身分の低い王子だった彼が、今も無事でいるだろうか……?
王子の名前を出しておきながら、わたしは、残酷な事実を知ることが恐ろしい。
ぐっと奥歯を噛みしめる。
もしも、そんな名前の王子はいないといわれたら? とうの昔に、わたしの異母兄たちと同じように、理不尽でむごたらしい目に遭っていたら? 知りたくなかったと、きっと私は思ってしまう。わたしの人生が、せいぜい数時間も残っていないのだとしても、いや、だからこそ、知ることが怖い。
将軍は、冷たい眼差しでわたしを見つめたまま、やはり淡々といった。
「それは不可能ですね」
崩れ落ちそうになるのを、必死で耐えた。
わたしが声も出せずに歯を食いしばっていると、将軍はふと表情を和らげた。
「誤解させてしまいましたか、すみません。ディゾルド王子はいないというだけの話ですよ。ディゾルド王はいらっしゃいます」
わたしは ─── 、とても、まぬけな顔をしていたと思う。
ばかみたいに瞬きを繰り返して、将軍を見つめる。
将軍は、ううんと小さく呻いて、天井を仰いでから、再びわたしへ視線を戻した。
「どうしたものかな……。僕は、状況次第では、僕の命を賭けてでもあなたを殺す予定だったんですが」
わたしは、不可解な心地になりながらも、つい尋ねていた。
「わたしが、将軍が命を賭けるほどの強者だと? そのような噂が伝わっているのですか?」
「いやあ……。あなたでしたら、僕でも剣の一振りで殺せます」
それはそうだろう。
わたしは頷いて同意を示す。
「でも、王命に背けば死は免れないでしょうからね。いくら、陛下のお気に入りの僕とはいえね。少なくとも、この一件に関しては無理だろうなぁ……」
わたしはじっと将軍を見つめた。
睨みつけたといってもいい。
我が国のボンクラ王とちがって、この将軍は状況の説明ができる人物だろう。にもかかわらず、まるっきり意味が分からない言葉ばかり並び立てている。
将軍は、ふっと笑ってから、ひどく真剣な顔になって、わたしを見つめた。
「姫君。あなたには、三つの選択肢があります」
「……処刑台以外の道があると?」
「あなたは姫君ですからね。我が国王陛下の愛妾となって生き延びることも可能です」
「あぁ、なるほど。だから将軍は、王命に背いてでも私を殺すべきだと思われたのですね。わたしに、間違っても、王の子など産まれては困るから」
わたしはようやく合点がいって嬉しかった。
しかし、将軍は残念そうに首を横に振った。
「そういう話ならよかったんですけど」
「ちがうのですか?」
「三つ選択肢があるといったでしょう? 三つ目は、あなたが我が王を滅ぼす道です。閨で暗殺するだとか、王を骨抜きにして政を乗っ取るだとか。そういう道です」
「……将軍は、想像力が、豊かでいらっしゃいますね……」
「僕は常に事実に基づいて考えていますよ」
妄想としか思えない。
わたしにそんな真似ができるわけがないだろう。
あのディーが王になっているという事実には驚いた。正直なところ、今も驚いている。わたしの知らない十年で、世界はどう変わったのだろう? 確かめる時間がわたしにないことが悔しい。
けれど、相手がディーだから殺せないなどという話ではない。王を暗殺すれば、眼の前のこの将軍は、必ず報復するという現実だ。この男の王へ対する忠誠心は、我が国を完膚なきまでに叩き潰すだろう。無知なわたしにも、そのくらいのことはわかる。
王を骨抜きにするという話は、もはや論外だ。
この将軍は眼が悪いのだろうか? わたしのこの平凡な容姿と貧相な身体が見えていないのか。
わたしはいささか剣呑な眼をしていった。
「将軍はご存じないのでしょうが、わたくしは十年間幽閉されておりました」
「知ってます」
あっさりといわれた。
まさかの事態だ。わたしの幽閉話は他国に伝わるほど有名だったのか。
わたしは、仕切り直すように、咳払いをして続けた。
「ご存じなら話は早いですわね。お恥ずかしいことを申し上げますが、わたしはろくな教育を受けておりません。ディゾルド陛下の愛妾が務まるとも思えません。まして、骨抜きにするなど、とてもとても」
「野心はないと? 本当に? 権力が欲しいとは思いませんか。あなたを虐げた連中に報復したいと考えたことは?」
探る眼だ。
わたしはただ、その眼差しを受け止めていった。
「三つの選択肢があるとおっしゃいましたね? わたくしは無知ですから、将軍に教えていただきたいのです。どの選択肢が、もっとも、我が国の民のためになるのかを」
わたしは背筋を伸ばした。
腹の底から声を響かせた。
ここで怯んではならなかった。
「教えてくださいませ、将軍。わたくしは、ためらいなく、その道を行きましょう。このときのために、わたくしは生きてきたのですから」
※
……そうして、今に至る。
将軍は答えなかったが、処刑台に連れて行かれることはなかった。今のところは、だけども。
手荒な扱いを受けることもなく、王宮の一室へ案内された。本来は、後宮だった場所だろう。逃亡した王の愛妾は、一人も残っていなかったけれど。まさか連れていったのだろうか。
ひとしきり、窓の外を眺めてから、椅子に腰を下ろした。
さて、これからどうしたものだろう?
できることなら直に街の様子を見て回りたいが、どう考えても不可能だ。わたしに叛意があると思われてはまずい。王宮内を敵国の兵士が闊歩している状況なのだ。完全な敗戦だ。わたしにできることといえば、最高責任者として大人しく処刑されるか、あの将軍のいうようにディゾルド陛下の寵愛を得て、我が国への寛大な処遇を求めるくらいなものだろう。
後者がどう考えても無理なのだが。
まあ、愛妾になると決まったわけでもないしな……。
わたしはぐたりと背もたれに体重を預けた。さすがに疲れていた。
あまりにもめまぐるしく状況が変化してしまって、まだどこか、現実味がない。夢を見ているような気さえする。こんな気分のまま、首を落とされるのだろうか。
あぁ、でも、処刑台からでも、最後に一目、あの小さかったディーが立派になった姿を見れるのならば、幸せに終われるかもしれない……。
─── 願わくば、どうかあの子が、わたしの死に心を痛めませんように。
そう、ひっそりと祈ったとき、扉が開けられた。
入ってきたのは、数人の女官たちだった。表情はひどく強張っていて、動揺と恐怖が垣間見れる。敵軍に同行してきた人間ではないだろう。おそらくは、我が国の、以前から王宮に勤めていた女官たちだ。
彼女たちは、怯えたように、小さな声でいった。
「姫様、湯浴みの支度が整いましたので、どうぞこちらへ」
「……それは、誰の命令ですか?」
女官は、泣きそうな顔をしていった。
「将軍と呼ばれる方です。名前は存じません……ッ!」
わかりましたと頷いて、わたしは立ち上がった。
同時に、内心で悟っていた。
あ、これ、愛妾行きが決定したな。