3. Agua de Valencia(アグア・デ・バレンシア)
2008.04.17 22:10
金属製の重い扉を引いて、薄暗い店内へと足を踏み入れる。
赤を基調とした間接照明が、世界各国のアルコールで満たされた空間をゆらりと浮かび上がらせる。壁面のラックに収まったカラフルなボトルは、まるでこの空間に所在無げに漂うホタルみたいだ。
「そろそろ来る頃だと思ってたわ、臣ちゃん」
そして、カウンターの向こうでオレを待っているのは、このバー「delay」の店長。バーテンダーというよりも、この空間の支配者みたいに見えてしまうのはきっと、その端正な顔に浮かぶ不敵な笑みのせいだろう。
「客相手にいきなりドヤ顔で勝ち誇るの、やめてもらっていいですか」
「あら、今夜はご機嫌斜めなのね? じゃ、最初からキツいのでおもてなししちゃおっかな?」
「おまかせしますよ。あ、ジントニック絡めたのが飲みたいかも」
「わかった。今夜は臣ちゃんのためにこのお店開けたから」
「いや、たまたま他に客いないだけでしょ」
唇の端で笑いながら、店長が手に取ったのはスパークリングワイン、ウォッカ、ジントニック、そして手絞りのオレンジジュース。それらがあっという間に、一つの飲物に纏められていく。
「お待たせ。Agua de Valencia、スペイン発祥のカクテルよ」
口に含むと、柑橘系のキリッとした爽やかさの奥に強いアルコールが香る。喉を落ちていくカクテルの冷たさを、目を閉じて味わう。
「それ、飲み過ぎるとお話出来なくなるから気を付けて」
「何の話ですか。たまには静かに飲ませてください」
「あら、若い人は手が掛かるわねぇ。まぁ、いいわ。ちょうどもう一人、手の掛かるのが階段上がってきてるから」
「え、足音聞こえるんですか」
「バカね、気配よ。イイ男の気配がするの。いえ、どちらか言うと匂いかな? ほら、来たわ」
オレが振り返るのと、金属製の重い扉がスライドして開かれるのは同時だった。穿き込まれて色褪せたデニムの上に、洗い晒しの真っ白なシャツを羽織った精悍な男性が店内に入ってくる。
「ヴィっくん、いらっしゃい」
「やぁ、店長… って、あれ? 貴方は」
「やっぱり二人はお知り合い? そうじゃないかと思ってたわ」
「いや、知り合いってゆーか… ってか、ヴィっくんって何ですか」
「私の名前はヴィクトル。だからヴィっくんと呼ばれてます」
「いや、それはわかりますけど」
ヴィクトルは慣れた様子でオレの隣に座ると、店長にオーダーを告げる。聞いたことのない銘柄のビールだったが、マスターは一本のボトルを素早く手に取ると濃琥珀色の液体をグラスに注ぐ。
「では、乾杯。私達の再会に」
極上の笑顔でグラスを差し出すヴィクトルに、なんとなくグラスを合わせてしまうオレ。こんな笑顔を向けられて抵抗出来る人は少ない。さぞ女性にモテることだろう。一般的に欧米人は、日本人に比べて大人っぽく見える傾向がある。ヴィクトルの場合も年齢は読みにくいが、それでも彼の落ち着いた物腰から40歳前後ではないかと思われた。
「貴方とは少し話をしてみたいと思ってました。でも、まずは自己紹介させてください」
「はぁ」
そう言って、ヴィクトルは自分のことを話し始める。
出身はドイツ。彼の勤め先は中規模の投資銀行で、米国のITバブル崩壊後、運用先を失って溢れた資金の投資先として、日本企業の株式や先物市場の動向を現地調査、有望な投資先をスクリーニングするというのが当面の仕事らしい。
大学の専攻こそ畑違いだったが、オレも現在は会計業界に籍を置いている。おおまかな概要は掴めた。
しかし、熱が入ったヴィクトルがマーケットの細かな動向に言及し始めると正直ついていけなくなってきた。
店長は素知らぬ顔でグラスを磨いていて、会話に混ざるつもりはないらしい。
「孝臣さんは、こういう話にはあまりご興味がないですか?」
「いや、ちょっと不勉強で。あと、お酒飲む場所での話題としてもちょっと」
「そうですか? 日本人はお金持ちなのに、不思議な人々ですね… いえ、私が偏った世界に生きているのかな。では、ここからはアスティについてです」
「えっと、先日の女性ですよね。なぜ彼女の話をするんですか?」
「その理由は、私の話を聞いてもらえばわかります」
今回またちょっと雰囲気変えてみました。ってか、話の内容はさておき、アルコールが飲めない体質の私はこういう空間に憧れるんですよ。酒が飲める人、いいなぁ。
あ、ちょっと中途半端ですが、長くなってきたので前半ここまでです。後半も本日中にアップします。