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冬の戯れ  作者: 有月 晃
Último Capítulo / 終章
50/52

7. 義兄

本日、以下の三回分更新していますので、ご注意ください。


7. 義兄(← いまここ)

8. そして、戯れの先へ

後序

2009.08.21 00:52



 覚えている。彼女のことはどんな些細な事でも、この心に刻み込まれている。彼女が生まれる前に、両親が中国の孤児院から養子縁組したという義理の兄の存在も。


 その人物のことを話す時、彼女は少し複雑な表情を見せた。彼女が物心ついた頃からの遊び相手。ずっと仲睦まじい兄妹として育ってきたけれど、大学進学を機に彼女達の元を去ってしまった義兄。


「実はね、初恋の人なの」と呟いたアスティの、少しはにかんだ表情が目に浮かんだ。



 震える指先でノートPCを操作して、メールを開く。英語で綴られた長い文面が目に入った。


 最初に自分が彼女の義兄であること、オレと彼女が共に過ごした時間への感謝、そして、二人で別離の道を選んだことへの理解がまず述べられている。


 その後、ノルウェーに帰国した彼女が妊娠期間を順調に過ごしていたこと、数日前に突然破水して早産で女子を生んだこと。予後、母子ともに予断を許さない状態にあって、彼女がオレに会いたがっていること……



 添付されているファイルを開く。数秒の空白の後、唐突に画面を埋め尽くす光の粒達。


 アスティだった。分娩用の簡素な手術着で身を横たえて、その胸の上に小さな生命を抱いている。出産直後に撮影されたものなのだろう。赤みがかった肌、濃茶色に濡れた髪、嘘みたいに小さな手はそれでもアスティの指先をしっかりと握っている。


 そして、義兄からのメールを裏付ける様に、彼女の顔色は優れない。額に張り付く濡れた髪、ただでさえ透ける様な肌なのに、写真のアスティのそれは白貝の殻みたいに平坦で生命力が感じられなかった。


 だが、それでも彼女は微笑んでいた。オレが見たことのない、母親の顔で。この生命が愛しくて堪らないと。何もかもを洗い流す、ただ圧倒的な慈愛だけがそこには咲いていた。



 ノートPCの画面が、滲んで揺れる。一瞬で、ありとあらゆる感情が臨界点を越えた。アスティが去って以降、地の底を這う様だった心がいま、奥底から沸き立っている。

 最初に突き抜けたのは怒り。いくらなんでも、勝手過ぎる。一人で去ったのはアスティだ。いまさら会いたいだなんて、都合が良過ぎるんだよ。


 しかし、ネガティヴな感情は長続きしない。愛しい。会いたい。吐き気を伴う愛情の濁流が押し寄せ、一切の怒りを洗い流した。オレは君に会いたい。この世でただ一人、愛しい女。会って抱き締めたい。二人を抱き締めたい。


 嗚咽。身体の深部から止めどない嗚咽が漏れてきて、もうどうしようもなかった。ノートPCを脇にやって、ベッドの上にうずくまる。拳をマットレスに叩きつけ、顔を枕に埋めて叫ぶ。



 どれくらいの間、そうしていたのだろうか。感情の波がどうにか破綻しない水準で均衡する気配。そもそも選択肢なんて、最初から一つしか提示されていなかった。それを手に取らなかったのは、オレが臆病だったからだ。決断すら必要ない。


 恐る恐る上半身を起こす。目眩を覚えて、四つ這いでデスクに辿り着いた。プリンターをノートPCに接続して、メールと添付の写真を印刷する。メールの末尾に記された、彼女が入院している病院の住所を確認。メモと筆記具を手繰り寄せた。



 今日は……金曜日だ。窓外に目をやれば、うっすらと薄明が滲んでいる。冷静になれ。リスト。そうだ、まずはやるべきことをリストアップ。集中しろ。最短時間で目的を達成する。


 パスポートはまだ有効期限内。ビザは……インターネットでノルウェー大使館のサイトを開く。90日以内の滞在ならば、ノルウェーは事前申請不要。


 ならば、なによりも優先されるべきは航空券の手配。ノルウェーへの直行便は……ないのか。欧州の主要都市を経由することになるだろう。航空会社はどこでも良い。とにかく可能な限り早く、北欧へたどり着ける便を抑えたい。


 それから、荷造り。国内出張には慣れているので、スーツケースに一式セットされている。あれをベースにすれば、そんなに時間はかからないだろう。


 現地の気候は…… やはり日本よりはだいぶ涼しそうだ。クローゼットからアウトドアジャケット、パーカーやジーンズを掴み出す。



 ふと、メモを見詰めて考える。


 なんだ……

 たったこれだけなのか。


 決して越えることは出来ないと思っていた、オレと彼女との間に横たわる距離。少なくとも物理的にそれを埋めることは、こんなにも簡単だった。

 パートナーとして寄り添うことが叶わなくても、せめて近くで二人を見守ることは出来たはずだ。彼女を失った悲しみに溺れて、そんなことにすら思い当たらなかった。


 ……いや、待て。アスティの言葉を思い出す。「貴方の愛を見せて」と、彼女は言った。そしてオレはきっと、その意味を取り違えた。


 なぜ、彼女をあのまま行かせてしまったのか。

 どうしてもっと食い下がらなかったのだろう。



 ……いまは自分を責めている場合じゃない。グダグダ考える時間は機上で充分に取れるだろう。


 もう一度、状況を整理する。最も有効な手段は…… 確か、大学の同期に実家の旅行代理店を継いだ男がいたはずだ。


 早朝だったが、躊躇っている余裕はない。



 携帯のディスプレイに、数年振りに目にする名前を表示させる。同窓会で見掛けた彼の顔を思い浮かべながら、通話ボタンを押した。

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