6. 焦げ茶色に照り輝くアレ、再び
【注意】今回はお食事中の方でも大丈夫だと思います、たぶん。
2009.08.20 23:07
夏休み明けの職場。帰省や旅行帰りの土産物をやり取りする、恒例の風景が今年も繰り返される。
特に繁忙期というわけでもない。三々五々に引き上げていく同僚達を見送りながら、気が付けば今日もフロアに一人になっていた。
所属している監査法人のトップから、代表社員の椅子を提示された。入所最短にして、最年少者へのオファーだとか、なんとか。勘違いしている。オレが働いているのは、仕事で脳味噌を満たしている間だけは他の事を考えなくて済むからなのに。
いつもの手順でフロア全体のセキュリティをオンに切り替えて、守衛の警備員に頭を下げてビルの裏口から出る。
夜更けのオフィス街。叩きつける様な大粒の雨が、灼けたアスファルトから日中の残滓を洗い流していく。仕事鞄にいつも放り込んである折り畳み傘を取り出した。
ふと視線を上げると傘の骨が一つ折れていて、あまり用をなさない。その見すぼらしい様に、口角が少し上がった。今日、初めて笑った気がする。
すっかり乗り馴れた最終電車。乗客もまばらな座席に身を沈めると、雨滴に濡れたスーツの裾が目に入る。この三つ揃いはクリーニングに出して、靴もローテーションから数日外そう。
こういうマニュアル的反応の蓄積が、いまのオレの社会人生活を辛うじて支えている。死ぬまでこれを続けていくつもりなのか。とても正気の沙汰じゃない。だが、もはやここから抜け出す気力もなかった。
慣性に僅かな抵抗の意思を示しながら、潮視坂の駅に滑り込む車体。何も考えなくとも、身体は改札までの最短距離を選び取り、さらにその向こうへと勝手にオレを導く。
「delay」と刻印された無機質な金属プレート。今日最後の気力を動員して重い扉を開くと、薄暗い空間へ身を滑り込ませる。
こちらに向けられた視線を避ける様に背を向けて、荒っぽく脱いだジャケットをハンガーに掛けた。カウンターに近付いたオレが一日分の溜息を吐いても、店長は手許のグラスに視線を落としたまま。
互いに動こうとしない二人の男の間で、ビル・エヴァンスのピアノだけが所在無げに旋律を紡ぐ。
「Cucaracha」
「……ここはね、立ち飲み屋じゃないのよ、孝臣さん。まずはお座りなさい」
「なんですか、その他人行儀な呼び方。いつもみたいに臣ちゃんって呼んでくださいよ、店長。寂しいな」
「はぁ…… わざわざ口に出さなくてもね、顔に書いてあるのよ、顔に」
「……何が?」
オレの質問にいったん背を向ける店長。背後の壁面に並ぶボトルの群れから、その手が滑らかにピックアップしたのはカルーアと……ウォッカ。
丸みを帯びた透明のガラス容器に映える、青字のロゴ。ゆったりと揺れるスウェーデン製の透き通った蒸留酒に、視線が吸い寄せられた。込み上げそうになった何かを、生唾で慌てて吞み下す。
「……寂しい。死ぬほど寂しいって。そんなに寂しいなら、私が抱いてあげましょうか?」
「フフッ…… いっそのこと、それも良いのかも知れない」
「冗談。いまの腑抜けてるアンタなんて、犬も喰わないわ」
目の前にコトリと置かれたショットグラスを満たす、焦茶色の液体。その名である「Cucaracha」の通り、禍々しく照り輝くカクテル。そうだ。何を見ても、何かを思い出す。
慌てて目の高さにグラスを掲げ、店長と視線を合わせる。その冷ややかな眼差しを読み解いてしまう前に、一気に流し込む。
冬の記憶に、アルコールの蓋を浴びせる。
「だから最初に忠告したのよ。ああいう女に関わると、男は全部持って行かれるって。私が良い見本よ」
「……同じ物をください」
「私も付き合うわ。けれど、それ飲んだら今夜は帰りなさいよ」
「冗談でしょう。まだ飲みますから」
「さっさと帰って、鏡で自分の顏見てみろって言ってんだよ、孝臣」
長らく使っていない浴槽には、埃がまだらにこびり付いている。今夜も湯を使う気力なんて残っていない。熱めのシャワーで済ませた。
髪も乾かさずにベッドに入り、ノートPCで経済ニュースを流し読みする。デスクトップ右下に新着メールを知らせるアラートがポップアップした。
普段なら眠気に任せて無視するところだが、今夜はアルコールが足りない。なんとなく、メーラーを起動させる。
くだらないDMと迷惑メールに混ざって、地元の高校の同期から同窓会の報告が届いていた。盆休み中に開催されたもので、仕事漬けで帰省すらしていないオレはもちろん欠席。内容にザッと目を通して、ゴミ箱へ。
最後に残った1件の迷惑メールもゴミ箱に放り込もうとして……
ふと手が止まった。
差出人欄には見覚えのない名前。
いくつかの言語が入り混ざったツギハギみたいなその名を視線でなぞり、末尾に到達した瞬間。
わずか6文字のアルファベットがオレの記憶を抉った。
From : Yuen Lung Galeano Ekdahl
二人の物語は、もう少しだけ続きます




