5. Rías de Galicia
2009.01.15 19:14
海沿いの幹線道路。家路を辿る車のテールライトから一定の距離を保ちつつ、オレは静かにステアリングを切る。
助手席のアスティは唇を真一文字に結んだまま、薄く開いた瞳に黒い海面を映している。チラリと視線を向けても、冷ややかに不機嫌を宿した横顔に拒まれた。
無理もない。「これに着替えて」といきなりフォーマルドレスを手渡されて突然の外出、それも行き先すら告げられないまま車に乗せられているのだから。
だが、いまはその沈黙が有り難かった。バー「delay」の店長に教えられた交差点を右折してステアリングを山手に切ると、閑静な住宅街へと入っていく。
特徴のない交差点をいくつか曲がって、道を間違えたかと不安になり始めた頃。前方に鈍く光る、三角屋根の建物が見えてきた。遠目には小さな教会に見えなくもない、不思議な建物。
未舗装のパーキングエリアへと愛車をゆっくり進めると、店名を刻んだ横長の木片がヘッドライトに浮かぶ。
「Rías de Galicia(リアス デ ガリシア)」
こういった場面に相応しい店なんて全く心当たりなくて、バー「delay」の店長に紹介してもらったレストラン。何も言わずともさりげなくスペイン料理を推してくるあたり、今夜の結果に関わらず店長には何かお礼をしないと……
などと考えながら助手席に回ってドアを開き、手を差し伸べる。助手席のアスティは腕を組んだまま、ヘッドレストに頭を預けてこちらを見上げる。街灯の明かりが、彼女の翡翠色の瞳孔で無機質に輝いている。
「……ねぇ、孝臣」
「わかってる。でも」
オレが差し伸べた右手に、反射的に重なろうとしたアスティの左手。だが、シンと冷えた駐車場の空気をしばらく彷徨ったそれは、躊躇いがちに引き戻される。
駐車場の砂利道を「こんなヒール履くの、久し振りなのよ」と口を尖らせながら慎重に進むアスティ。年始早々、タフな交渉になりそうだ。それでも、引き下がる訳にはいかない。
――――――
木製の扉を開くと、半吹き抜けになった天井の高い空間。広さはそれ程でもない。せいぜい三席並べるのが関の山だろう。住宅街の中の隠れ家的レストラン、といった風情か。
アスティがコートを脱ぐのを手伝っていると、奥からひょろりと背の高い男性が進み出てきた。彫りが深いマスクの中央に、日本人離れした鷲鼻が鎮座している。
「ようこそ、いらっしゃいました」
「あの、急だったのにすみません」
「いえ、委細承知しております。どうぞこちらへ」
暖炉の灯りと抑制された間接照明に浮かぶ、飴色の木材で構成された空間。厨房の反対側、窓際にただ一つ配されたテーブルからは、対岸の街の灯りが望めた。
きっと「delay」の店長が伝えておいてくれたのだろう。給仕の男性は、料理を運ぶ時に必要最低限の説明をするだけで、すぐに奥へ下がってくれる。
メニューは、スペイン北西部、大西洋とカンタブリア海を望む「ガリシア」という地方の郷土料理らしい。シェフの腕前も優れているのだろう、海鮮類をメインに据えたメニューは日本人であるオレの口にも違和感なく馴染んだ……気がする。
正直、この夜のオレには料理を味わう余裕なんてなかった。デザートとコーヒーが供され、給仕の男性が再び奥に下がる。それまで料理と窓越しの灯りしか捉えていなかったアスティの瞳が、こちらに向けられた。
「美味しかった。お父さんの田舎で過ごした夏休みを思い出したわ。ありがとう、孝臣」
「そう。良かった」
「優しいのね。怒ってないの?」
「自分でもよく分からないんだ。初めての経験だから」
「そうね。こんなの私も初めてよ」
暖炉の中で赤い木片が揺れている。仕事鞄に伸びようとしたオレの手を制する様に、アスティが口を開く。
「孝臣、私ね、ある賭けをしたの」
「賭け? 何のこと?」
「これまで必死に追い掛けてきたキャリアをぜんぶ失くして、私は空っぽになった」
「そんなことないよ。仕事なんて、また探せばいい」
「いいえ、金融業界にはもう戻らない。そう決めたの。そんな私の中に僅かに残った物、それは貴方への思いだった」
「どうしてオレなんかのことをそんなに……」
「オレなんか、なんて言わないで。貴方は自分を常に過小評価してる。他の日本人と同じ様に」
「アスティ、それはきっと君が」
「いいえ、もう一度言うわ。色んな国の人を見てきたけど、貴方は素晴らしい人よ。私は夢中になったの。そして、僅かなチャンスに賭けた」
オレより少しだけ小柄な彼女。その手の大きさは、オレのそれとほぼ変わらない。いや、指だけを見れば、オレよりも長い。その指先が胸元からゆっくりと降りていって、下腹部に芽生えた愛しさに停滞する。
「オレも話していいかな、アスティ」
「もちろん」
「これを受け取って欲しい、君に」
仕事鞄から、小さな化粧箱を取り出した。自分の前に置かれたそれを見詰める彼女の視線が、にわかに鋭さを増す。掛けられたリボンをゆっくりと解く彼女に、ひと言ずつ噛み締める様に語り掛ける。
「アスティ、オレは君を愛してる」
「ええ、知ってるわ」
「でも、君はそうじゃない……?」
「バカなこと言わないで。愛してるに決まってるわ。誰であろうと、それを疑うなんて絶対に許さない。例えそれが貴方でも、孝臣」
「じゃあ、なぜ?」
「私は…… 私みたいな思いをこの子にさせたくないの」
「国際結婚して、別れてしまったご両親のことを言ってる? でも、オレと君がそんな風になるとは限らないよ」
「そうね。それは誰にもわからないわ」
「わからないから、やってみることもせずに選択肢から排除する? 極端だよ」
「孝臣、貴方にはわからない」
彼女の指先が僅かに白くなって、化粧箱の蓋を開く。そこには、先日のシンプルなデザインの腕時計。真珠貝の文字盤が柔らかな銀白色に輝いている。冷たく言い放たれた彼女の言葉とは裏腹に、その瞳から次々に溢れる温かい雫。
「ゴメン、人が使った物をこういう時に贈るのが相応しいのか、オレも迷ったんだけど」
「いいえ、素敵だわ。とても……」
それだけ告げると、彼女は顔を伏せて両手で覆ってしまった。オレは自分の椅子を彼女の横に静かに並べて、少し躊躇ってから、震えている肩を抱き寄せる。窓越しに瞬く対岸の灯りが、白く滲んで見えた。
「孝臣……」
「なに、アスティ」
「貴方がこれから何を言おうしているのか、私は知ってるわ。教えてくれるの、この身体の昂りが」
「うん。オレもきっともう、知ってるんだと思う。君が何て答えるのか」
「そうね。だから、もう一つだけお願いがあるの」
「言ってみて」
「これが……私なの。ありのままの私。だから、貴方の愛を見せて」
アスティと向かい合って、額を合わせる。薄明かりの中でいまは白銀色に見える彼女の髪に指を滑らせながら、目蓋を閉じた。
駅前のタクシー乗り場で出会って、今日まで見せてくれた無数の彼女を思い浮かべる。そして、これからの彼女。やがて目蓋を開くと、眼の前に翡翠色の瞳孔があった。
花弁を散りばめたみたいな双眸は、初めて出会ったあの日と同じ。細く息を吸ってから、オレはその言葉を紡いだ。
この世界でただ一人、彼女の為だけに。
「Astrid Ekdahl、オレと……」




