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冬の戯れ  作者: 有月 晃
Último Capítulo / 終章
46/52

3. positive

2009.01.14 19:04



 いくつかの些細な違和感は小さな疑問となって胸の中に堆積、やがて一つの推論を導き出した。



 今日は早めに仕事を切り上げ、職場を出る。オフィスビルのエントランスで逡巡してから、通勤駅とは逆方向に向かって歩き始めた。


 確かこの辺りに…… あった。小さな間口のドラッグストア。チェーン店の画一的な雰囲気の店構えではなく、手作りの宣伝ポスターやPOPが親しみやすさを醸している。


 陳列棚の間を彷徨って、目的の物を見つけた。小さく細長いパッケージ。しばらく躊躇ったものの、それを一つ手に取ってレジへ持って行く。


 アルバイトらしき女性がこちらをチラリと見た気がしたが…… きっと気のせいだろう。それにこの店で買い物をするのは、どうせこれが最初で最後になる。



「いまから帰るよ」


「わかった。いまご飯作ってる」



 帰りの通勤電車。まだ19時台だというのに、車窓から眺める景色は青い闇に沈んでいる。思い思いの方法で、限られた時間を過ごす乗客達。


 この人達にもそれぞれ家族や恋人がいたり、あるいは犬や猫なんかを飼ったり、少し前のオレみたいに一人で静かに暮らしていたりするのだろう。手近の席に座る数人に視線を走らせながら、彼らの休日の姿を想像してみる。



 その夜、アスティが用意してくれた晩御飯は、カブとキャベツを煮込んだスープ、ラム肉の黒胡椒ソテー、そしてパンというシンプルな構成だった。一時期は日本食にも挑戦していたけれど、やはり母国の料理が落ち着くのだろうか。



「アスティ、話があるんだけど」


「うん。ずっと話したそうな顔してたよ、最近の孝臣」


「そっか。わかるんだ」


「そりゃ、わかるわよ。じゃ、コーヒー淹れるね」



 オレが食器を片付けている間に、コーヒーメーカーを操作するアスティ。この部屋にしっとりと馴染んだその後姿に、いまさらながらハッとする。


 テーブルにコトリと置かれる、白いマグカップ。黒い液体をそれぞれ一口飲み下す。胸の中を落ちていく芳ばしい香りに目を細めていると、彼女がこちらに向き直った。その口許には、微かな微笑み。



「で、話ってなに?」


「うん、話っていうか。コレなんだけど」



 さっきドラッグストアで買い求めた物を、テーブルの上に置く。紙製のパッケージがカタンと小さな音を立てた。彼女の視線がその上をなぞる。簡易の妊娠検査薬。



「……いらない」


「必要だよ」


「だから、いらないって」


「どうして」



 オレが微かに語気を強めても、彼女はまださっきの微笑みを浮かべたままだった。その表情の意味がわからなくて、もどかしい。



「アスティ、とても大事なことだから」


「わかってる」


「わかってるなら……」


「でも、いらない」


「どうして!」


「Positive.」


「……え?」


「もう検査したの。結果はpositive(陽性)だった」


「アスティ……」



 わからない。こんな時、男は何を言って、どんな顔をすれば良いんだろう。いくつもの強い感情が、同時に込み上げてくる。驚き、喜び、不安と責任、そして彼女に対する温かい気持ち。


 腕を伸ばすと、アスティも素直に身を預けてくる。彼女の涙が、オレの胸に熱を伝える。とてつもなく愛おしい、腕の中のこの女性が。



「これからのこと、相談したい」


「そうね」


「アスティは、どうしたい?」


「私がどうしたいかは明確だわ。でも、孝臣が先に言って」


「そうだね、まず色々と調べないと。法律、国籍、出産のこととか……」


「一つだけ、決めてることがあるの」


「なに?」


「ねぇ、孝臣、何でもしてくれる? 私の為に」


「オレに出来ることならば何でも」


「私、この子を産みたい。そして、育てたいの」


「……あぁ、わかった」



 アスティの濡れた瞳には、初めて見る色が宿っていた。力強く、一切の混じり気のない、明確な意思が。それはきっと彼女が新しく身に付けつつある何かで、少なからぬ驚きを抱きながらも既にそれを受け入れ始めているオレがいた。



 だが、彼女が次に発した一言の前には、オレの緩やかな寛容なんて紙細工みたいにクシャリとついえてしまう。



「だから、忘れて」


「……? 何を言って……」



「私、この子を育てたいの、一人で」

ここまでお読み頂いた皆様、有り難うございます。


あと、数回で完結予定です。

最後までお付き合い頂けたら、幸いです。

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