2. forelsket
2009.01.11 22:14
山肌を伝って吹き降ろす冬風に、コートの襟を立てる。
胸中はアルコールで火照っていたが、この季節の冷え込みには流石に敵わない。夜道の一人歩きにふと寂しさを覚えて、帰路を急いだ。彼女だけを家に残しておいて、我ながら身勝手なことだ。
「ただいま…… アスティ?」
室内は既に暗かった。ベッドサイドのランプだけが鈍く灯っていたけど、アスティの姿は見当たらない。玄関には彼女のブーツが置かれていたから、出掛けている訳ではなさそうだけど……
マフラーを外して、コートをハンガーに掛ける。ふいに水音が聞こえて、トイレの扉が開いた。
「おかえり、孝臣」
長い髪の隙間から横顔でそれだけ伝えると、アスティはさっさとバスルームへ消えていった。機嫌……悪いのかな。彼女に言われるまま、一人でフラフラと出掛けたのがマズかったか。ワイワイ盛り上がってるオッサン達を振り切って、出来るだけ早く帰ってきたつもりだったんだけど……
冷蔵庫を開いて、ドアポケットのボトルに手を伸ばす。丸みを帯びた透明のガラス容器、青字のロゴ。スウェーデン製のウォッカ。アスティのお気に入りだ。
ロックグラスにトニックウォーターを注ぐと、氷塊の表面に無数の気泡が踊る。そこに透き通った蒸留酒を加え、グラスを回して軽く攪拌。一口含んで舌で転がしながら、果物入れを漁る。ライムは……品切れか。レモンを取り出して、フルーツナイフでスライスする。
背後から白い腕が伸びてきて、オレの首に絡まった。前腕の産毛の間で水滴が光っている。
「ちょっと、危ないよ」
「美味しそうなの飲んでる。一人だけズルい」
彼女がくすくす笑うと、耳元を熱い息がくすぐる。
「ご機嫌だね。どうしたの?」
「Ingenting. (なんでもないわ)」
「ノルウェー語? 珍しい」
「そう、私ね、いまとーってもご機嫌なの」
「なぜ?」
尖った顎がオレの肩の上に乗せられ、素肌の脚が絡む。バスローブの下で、彼女の体温が熱い。
「……forelsket.」
「え? なに、それ?」
「んー この言葉はね、ノルウェー語にしかないの。日本語に無理矢理訳すとしたら……『この上ないくらい幸せな恋をしている』みたいな意味かな」
「……そうなの?」
「はい、そうです」
「よくわかんないけど」
「いまから私は、もう一度恋するの」
「誰と?」
「孝臣と。当たり前でしょ」
「やっぱり、よくわかんないんだけど」
「お酒の匂い、凄くしてるよ。外でも飲んできたの?」
「あぁ、そう、またいつもの三人に捕まってさ……」
「フフッ…… ホント仲良し」
彼女の熱がオレから離れて、ベッドへ向かった。脱ぎ捨てられるバスローブには、微塵の躊躇いもない。薄い唇に髪留めを咥えて、両手を頭の後ろに回すアスティ。濡れて白金に輝く髪を束ねながら、こちらに視線を合わせる。
「あ、ヴィクトルがアスティによろしくってさ。なんかよくわかんないNPO立ち上げるんだって言ってたよ。自然農法とか、自給自足がどうとか…… オレも名義だけ貸すことにした」
「よくわからないNPOなのに、名義貸してあげるの?」
「うん、悪い話じゃなさそうだし。ヴィクトル、眼をキラキラさせてたから。あ、ゴメン、オレだけ飲んできて。アスティも飲むよね?」
「ん、ありがと。でも、いらない。代わりに、こっち来て」
掌を上に向けて、人差し指で招く仕草。グラスの中身をもう一口含んでから、彼女の横に並ぶ。唇を合わせようとして…… かわされた。
「お酒臭いから、いまはキス禁止。でも、香りだけいただきます」
「え、なにそれ…… って、ちょっと、くすぐったいんだけど」
「酔っ払いさんは寝てて。してあげるから」
胸を突かれて、ベッドへ押し倒される。後頭部がヘッドボードに当たって、鈍い音を立てた。軽く抗議の声を上げるオレ。クスクス笑いながらこちらを見下ろす彼女。
白い指がオレの腰を捉えたかと思うと、薄い唇の隙間へゆっくり飲み込まれていった。
久々のアスティさんですが、違和感なく動いてくれました……




