3. 結婚
2008.12.31 12:37
自宅から持参した、ステンレス製の保温ボトル。指先でその細身の輪郭をなぞると、サラリと冷えた感触が返ってきた。キッチンで見つけた備え付けのマグカップに、すっかり冷えたコーヒーを注ぐ。
隣室に視線を向けると、窓際に佇むアスティの姿。室内に差し込む冬の白い日差しが、彼女の輪郭をいつになく儚げに縁取っている。コーヒーを差し出すと、視線を伏せたまま受け取って、静かに口元へ運ぶ。
焦茶色の液体を嚥下する小さな喉仏に、人差し指と中指を揃えてそっと触れる。
微かな笑みをこぼして、こちらに向き直るアスティ。窓外の淡雪を宿した薄緑の瞳が、オレの胸中を静かに探る。
「孝臣、怒ってる?」
「いや、怒ってないよ」
「ウソ。ちょっと怒ってる」
「んー そうかも。でも、それより……」
「それより、なに?」
「たぶん、わかってたんだ。ずっと前から」
朝から降り始めた雪は、窓外に広がるキャンプ場の芝生を染めつつある。アスティと同じ景色を見つめながら、オレの意識はさっきの実家でのやり取りを反芻していた。
――――――
玄関の引き戸をカラカラと開き、家の奥に向かって声を掛ける。パタパタという足音とともに、記憶と変わらぬ母の姿が現れた。
「ただいま、母さん。元気そうだね」
「孝臣、おかえり。早かったのね」
「夜中に高速走ってきたから。それで、えっと、こちらが……」
「はいはい、美嘉から聞いてますよ。遠い所、よくおいでになったわね」
「初めまして。アストリッドと申します」
「あら、日本語がお上手ね。孝臣の母です。初めまして」
「父さんは? 畑?」
「さぁ? 肝心な時に姿くらませるんだから。困った人……」
居間に向かおうとすると、母にやんわりと制された。首を傾げながらそのエプロン姿の背中に着いていくと、応接間に導かれる。
数年前に建て替えたばかりの平屋の和風建築だが、応接間だけは洋間造りになっている。実家なのに応接間に通されるという状況に多少の違和感を覚えながら、その扉を開く。
そこには、和装姿の祖母が待っていた。
若かった頃に村の美人コンテストで優勝したというのが密かな自慢の祖母。70歳を越えてなお、粋に和服を着こなしている。かつておしどり夫婦と冷やかしを受けた祖父は既に亡く、婿養子に入った父も控えめな気質。なので、現在はこの祖母が、名実ともに家長を務めている。
馴染みのない空間ということも相まって、にわかに緊張が走る。後ろを振り返ると、アスティも少し固い表情で立っていた。「大丈夫」と小さく微笑んでから、祖母と向き合う。
「ばあちゃん、ただいま」
「おかえりなさい、孝臣さん。それから、貴女は……」
「アストリッド・エクダールと申します。初めまして」
「そうそう、アスト……リッドさんね。美嘉さんから聞いてますよ。ごめんなさい、歳のせいか物覚えが悪くて」
「ごめん、オレもちゃんと話すべきだったんだけど……」
「いえ、良いんですよ。貴方がこの家に女性を連れて帰ってくるなんて、初めてのことですし。こうして顔を見ながら話した方が、早いこともあるでしょうから」
「えっと…… 例えば、どんな?」
一瞬、呆れた様な表情を浮かべた祖母だったが、すぐに口元を引き締めてアスティに向き直る。
「アストリッドさん、どちらのお国から?」
「国籍はノルウェーです。父はスペイン人ですが」
「えっと、ノルウェーって言うと…… ヨーロッパの……」
「ヨーロッパの北部だよ、ばあちゃん。スカンジナヴィア半島の西側。南北に細長い国」
「そう、だいたいの場所はわかるわ。お若くていらっしゃる様だけど、お歳は?」
「27歳です」
「お仕事は? 長く日本に滞在されてると聞いたけど、学生さんなの?」
「ちょっと、ばあちゃん。お見合いじゃないんだから」
「いえ、孝臣さん、大事なことですよ」
「私の仕事は、金融業です」
アスティの回答に、祖母の瞳がスッと細められた。
「金融業……と言うと、具体的には?」
「つい最近まで、ヨーロッパの投資銀行に勤めていました」
「孝臣さん、投資銀行って?」
銀行と言っても、駅前の地方銀行や信用金庫としか付き合いのない祖母には、馴染みのない言葉なのだろう。
「投資銀行っていうのはね、株式とか有価証券を売り買いしたり、企業買収の仲介とかで利益を上げる銀行のことだよ」
「え、ええっと……?」
「普通の銀行は客からお金預かって、それを必要とする人に貸して、利子を受け取るだろ? 投資銀行はそういうことはしない。ちょっと違う種類の銀行ってこと」
「そう、難しいことはよくわかりませんが…… お金に困っている人に物凄く高い金利で貸し付ける様な会社ではない、ということね?」
「それは消費者金融じゃないかな」
「あら、そうね。ごめんなさい、田舎の人間ですからね……」
祖母の顔に仄かな照れ笑いが浮かび、場が少し和んだ。応接間の扉がコンコンとノックされ、お盆を掲げた母がひょこっと顔を覗かせる。
それぞれに煎茶とお茶請けを配り終えた母は、祖母の隣にちゃっかりと腰を落ち着けて、いたずらっぽい表情でこちらを見てくる。年齢に不釣り合いなその無邪気さが、今は疎ましい。
その後、アスティとの出会い、付き合うことになった経緯、普段の暮らしの様子など、一通りのことを尋ねられる。オレのつたない受け答えに、気の利いた補足を添えるアスティ。その流暢な日本語にもう一度驚く祖母と、やはり横でニコニコしている母。
あっという間に時間が過ぎた。アスティが煎茶とお茶請けに舌鼓を打ち、応接間を女性三人の笑い声が満たした頃。
祖母が、とんでもないことを言い始めた。
「さて、だいたいのところはわかりました。ところで、貴方達、一緒になる気はあるの?」
「ちょっと、ばあちゃん、そんな気の早い……」
「そうですよ、お母さん。若い二人なんですから」
「いえ、とても大事なことですよ。こういうことに、早いも遅いもありません」
「そんなこと言ったって、まだ出会って一年も経ってないし……」
さっきまでの和やかな雰囲気とは打って変わって、気まずい沈黙が応接間に降りる。祖母は口元に微笑を浮かべながらも、いい加減な回答は許さないと視線で伝えてくる。
すると、オレの横から控えめながら、澄んだ声が聞こえた。
「一緒になる、というのは結婚する、という意味ですか?」
祖母の視線がゆっくりと、アスティに向く。
「そうです。夫婦になって、共に人生を歩む気はあるのか、ということです」
「それは有り得ません」
即答だった。そのあまりの呆気なさに、祖母ですら虚をつかれて意味を判じ兼ねている。アスティ以外の三人が言葉の意味を咀嚼するにつれて、凍り付いてゆく応接間の空気。
「アストリッドさん。いま、何とおっしゃったのかしら」
「私は孝臣さんと結婚しません」
「貴女…… 孝臣さんの面前でよくも堂々とそんなことを」
「お母さん、外国の方ですから。きっと何かご事情が……」
「アスティ、ちょっと外へ」
「なぜ? 私には私の意思があるの、孝臣」
「わかってる。でも、いまはそんなにきっぱり言う時じゃない」
「いえ、とても大事な話よ。孝臣のご家族だから、ちゃんと伝えておきたい」
「あの、貴方達ね、二人でよく話し合ってからの方が……」
その場の混乱に終止符を打ったのは、祖母の一言だった。
「よくわかりました。もう結構です。お引き取りください」
――――――
アスティの言葉はほんの一瞬で、オレの胸の最深部に至った。あまりの深さと鋭さに、痛みも麻痺している。だが、引き抜こうとすれば激しく出血するだろう。
「お腹空いたよね。昼御飯、食べに行こうか」
平静を装ったオレの言葉に、微かな戸惑いを滲ませながらも、頷いてくれるアスティ。そう遠くないうちに、話をしなくてはならない。だけど、その話をする時は、二人にとって決定的な判断をすることになるだろう。
コートハンガーに先にたどり着いたアスティが、マフラーを渡してくれる。「ありがとう」と首肯してから、すっかり白く染まった窓外へと踏み出した。
「セカキス」企画に注力していて、こちらの更新がすっかり遅くなってしまいました。
ひょっとして、まさかとは思いますが、続きを楽しみにしてくださっていた方がおられたら、お待たせして申し訳ありませんでした。
校正してたらすっかり日付が変わってしまい、今回も深夜にこっそり更新です。
当面は「冬の戯れ」に集中しますので、お付き合い頂けましたら幸いです。




