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冬の戯れ  作者: 有月 晃
Quinto Capítulo / 第五章
32/52

4. いくらで買える

2008.12.08 07:05



 眠気にかすむ意識を叱咤して、ベッドからなんとか這い出す。


 毛布の下には、安らかに寝息を立てている遥か北方の民。一緒に寝起きするようになってすぐに気付いたが、アスティは物凄く朝に弱い。月曜の朝だというだけでも憂鬱なのに、今日から金曜まで一日の大半を彼女と離れて過ごすのかと思うと、オレも気分が沈む。


 雇われの身の悲哀を噛み締めながら薄暗い室内をノロノロと手探りで進み、ようやくキッチンにたどり着いた。

 コーヒーを保管しているボトルを棚から取り出す。適量の豆をミルで挽いて、コーヒーメーカーにセット。ドリップしている間に熱いシャワーを浴びて、強制的に意識を覚醒させる。


 毎朝、起床後の10分間をこうやって過ごす。いつもやってることなので、ほぼ意識せずとも身体が勝手に動いてくれる。ここ一ヶ月程は用意する朝食が二人分に増えたが、大した手間でもない。

 あらかじめ温めておいたマグカップにコーヒーを移す。強い苦味の後から微かな酸味が立ち昇ってきて、思わず眼を細める。今朝のコーヒーも良い出来だ。


 リビングに戻ると、ベッドの上にアスティがペタンと座り込んでいた。流石に肌寒いのか、素肌の上にゆったりとしたニットを羽織っている。


 眼は閉じられたまま、カーテン越しに降り注ぐ朝日に顔を向けている。彼女いわく、朝の日差しを浴びて脳に覚醒を促す儀式らしい。

 少し癖のある髪、小さな額、細い首筋や張り出した肩、至る所に光の粒が溜まって眩しく輝いている。自室に突然現れた絵画の様なシーンに、暫時立ち尽くして見惚れてしまった。


 静かにベッドに近付き、膝をついて声を掛ける。


「コーヒーが入りましたよ、お姫様」

「……ん。ありがと、お侍さん」


 薄く開かれた目蓋の隙間から、翡翠色の瞳が覗く。危なげに伸ばされた両手にマグカップを握らせて、こぼさない様に手を添えながら口許へと届ける。寝起きは本当に無防備で、頼りない生き物だ。


 湯気を立てる黒色の液体を一口嚥下すると、ようやく彼女の眠たげな視線がオレの方を向いた。シャワーを浴びたばかりのオレは、下着しか身に付けていない。少し寒いが、早く身体を冷やして身支度をしないといけないからだ。彼女の片腕がオレの首に絡み、引き寄せられる。


「お侍さん、何も着てなかったら押し倒してたかも」

「光栄です。でも、残念ながら朝はお姫様のお相手を務めている時間がないんですよ」


 冗談のつもりで返した言葉に、彼女の表情が曇る。


「……前から不思議だったんだけど」

「ん? なに?」

「どうしてそんなに働くの」

「どうしてって……」


 入社数年目、ようやく仕事に慣れ始めた身のオレとしては、どうしても何もなかった。ようやく戦力の一端と認められて正直、仕事が楽しい時期でもあった。


「ワーカホリック、とまでは言わないけど。孝臣は働き過ぎだと思うわ」

「そんなことないんじゃないかな。オレくらいの歳の会社員はみんなこんな感じだよ」

「みんながそうだから、自分もそうするの? それはなぜ。そうすれば安心だから?」

「んー そういう面もあるかな。でも、そう言うアスティだって、土日関係なしに働いてたよね?」

「私の場合は、それに見合う報酬があったからよ」


 確かに彼女の年収は、同じ20代だというのにオレのと桁違いだった。文字通りに桁違い。それでも相場から利益を勝ち取ってくるディーラーに比べたら慎ましいものらしい。恐るべし、外資系投資銀行。


「ねぇ、孝臣の1時間はいくらで買えるの?」

「え…… どういう意味?」

「これはあくまで例えばの話だから、怒らないで考えてみて欲しいんだけど……私が孝臣の時間を買いたいって言ったら、どうする?」

「なにそれ」

「貴方の年収を約500万円としましょう。私がそれに見合った金額を払うから、仕事を辞めて私と一緒にいて欲しい、って言ったら?」

「……本気?」

「貴方の回答次第では本気かも」


 失礼な話だ。オレにだってプライドがある。だが、彼女もそれをわかった上での話だと言っている。気持ちを落ち着けて、朝食を咀嚼しながら黙考する。

 収入面では同条件だとしても、仕事っていうのはもちろんそれだけじゃない。職場で身に付けるスキル、キャリア、人間関係、自己実現……


「それはやっぱり……ちょっと難しいんじゃないかな」

「ちょっとだけ? じゃ、何がクリアになれば一緒にいてくれるの?」

「あー、いや、日本人がこういう場合に使う『ちょっと難しい』は『不可能です』っていう意味だよ」

「えー なにそれ。日本語、難しいんですけど」


 拗ねて口をへの字に曲げているアスティの頭をくしゅっと撫でて、ネクタイを締める。なんだろう。馬鹿げた話だとは思うけど、一蹴出来ない何かがあった。


 素早く身支度を整えて、彼女と行ってきますのキスを交わしてから、家を出る。さっきの話はなかったかの様に、静かな笑顔で送り出してくれるアスティ。


 月曜朝の街並みはいつも通り静かで、これから始まる一週間を前に息を潜めている。でも、オレはそもそも何のために働いているんだろう。彼女と一緒に過ごせる限られた時間を削ってまで働く理由。それは何だろうか。


 彼女の言葉はいったんペンディングしておこう。今週取り組むタスクに意識を切り替えながら、駅までの坂道を下り始めた。

 前回からの更新に、日数が掛かってしまいスミマセン。


 物語も後半に入り、少し手が止まってしまいました。何とか最後まで書き上げるので、お付き合い頂けたら幸いです。

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