3. 炭酸水
2008.12.06 06:21
あれ…… 腕が動かない。
それが、暗闇に包まれた意識がその日最初に紡いだ認識だった。
肩は存在している。それはわかった。だが、そこから先の感覚がない。片腕が脳の認識から離脱。鈍い重み。微かな混乱。
目蓋の隙間から、カーテン越しの仄かな明かりが射し込む。
視界いっぱいに、波打ちながら淡く光る何かが広がっている。それが人の髪だと気付いてから、一気に認識が繋がった。覚醒しつつある自我が、対象に耽溺しようとする。
毛布の下の右腕を引き寄せて目の前の髪を束ねると、華奢な肩が現れた。その白さに唇を軽く添える。冷たく甘い感触がフィードバックされ、感情がこみ上げてくる。
アスティは、オレに背を預けて眠っていた。生まれたままの温もりが、毛布の下で匂っている。鼻腔を満たす、乳白色の香り。まどろみへの執拗な誘惑。
しかし、まずは彼女の枕になっている左腕を何とかしないと。さっきから全く動かず、感覚もない。これはちょっとマズい。いま動かしておかないと、今日一日ずっとシビれたまま過ごさないといけないだろう。
どうしようか。自由な右手を目の前の小さな頭の下にそっと差し入れて、その重みをいくらか支えた。彼女を起こさない様に、左肩をわずかに引き寄せる。左腕は何も伝えず、感覚のないただの重りになっている。
1分程掛けて、彼女の頭の下から左腕の約四分の一を解放した。再開された血流に細胞達が沸き返り、急激に感覚が戻ってくる。マズい。くすぐったい。ものすごく。
皮膚の下を何かが這い回る様な感覚にひたすら悶えていると、サイドテーブルに置かれた炭酸水のボトルが目に入った。
濃緑色のそれに手を伸ばして、右手の指先だけで苦戦しながらも金属製の蓋を緩めることに成功した。プシッと音を立てて気体が漏れる。
「何してるの……さっきから……」
「あ、起こした? ゴメン」
「ん。起こされた。最悪……」
「アスティ、返して、オレの腕」
「ダメ。コレは私の」
まさかの拒絶。オレの腕を頭の下に敷き込んだまま、二度寝しようとする彼女。肩を甘噛みして抗議。掌ではたかれた。酷い扱いだ。
「……お水、飲みたい」
「じゃ、起きて」
「それはイヤ」
「寝たままだと飲めないでしょ」
身体を反転させて、仰向けになる彼女。そのままパクリと口を開けて、オレに気怠げな眼差しを向けてくる。薄明かりの中、白い奥歯が光っている。
「……え?」
「飲ませて。こぼさない様に」
マジでか。ボトルの注ぎ口を彼女の唇にゆっくり近付けて、恐る恐る中の液体を注ぎ入れる。あ、失敗した。
「んー!」
「ゴメン、ちょっと溢れた」
「冷たい。下手くそ」
「いや、人の口に飲み物注ぐなんて、フツーしたことないから」
掌で口許を拭いながら上半身を起こすと、オレの手からボトルを奪うアスティ。
「寝て、孝臣」
「……え?」
「教えてあげるから、こぼさない飲ませ方」
妙な迫力に押されて、言われるがまま仰向けに寝てしまう。彼女はゆらりとオレに馬乗りになると、胸に軽く片手をついた姿勢でボトルを呷る。炭酸水を嚥下する白い喉に見惚れていると、ふいに悪戯っぽい表情を浮かべた顔が下りてきた。
濡れた舌が唇を割って侵入してきて、常温の炭酸水が少しずつ入ってくる。口内の粘膜に甘美な刺激を与えるそれを、ゆっくりと飲み下す。
「気に入った? 北欧式」
「いや、全然関係ないでしょ、北欧」
勝ち誇った表情でこちらを見下ろしながら、深緑色のボトルをもう一度呷るアスティ。彼女の瞳が嬉しそうな輝きに光っている。やられた。
このまま負けてはいられない。
左腕はまだ痺れていて使い物にならない。右腕を彼女の下着に沿わせると、形の良い柔肉に指を食い込ませる。背筋を反らせて反応する彼女。
「気に入った? 日本式」
「意味わかんない。最低。もっとして」
空になった炭酸水のボトルが放物線を描き、部屋の反対側へカラカラと転がっていった。視界一面に黄金色の髪が広がって、生ぬるく濡れた舌がもう一度侵入してきた。
炭酸水、海外で初めて飲んだ時にはナニコレ?って感じでしたが。
日本にもすっかり定着しましたよね。




