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冬の戯れ  作者: 有月 晃
Tercer Capítulo / 第三章
17/52

1. intercambio(インテルカンビオ)

2008.08.24 09:08



 日曜日、朝の公園では早くもせみ達が鳴き声を競い合っている。オレは肌を突き刺す様な日差しを避けて、出来るだけ木陰を選びながら公園を斜めに抜ける。


 目的地はこの街にただ一つの図書館。

 最短距離を足早に進むと、待ち合わせの相手はすぐに見つかった。


「おはよ、アスティ」

「たかおみ、おはよう。今日、はやいね」


 いつもの席に彼女はいた。図書館の建物の中ではなくて、外に設けられたテラス席。淡い紫色のノースリーブワンピースを着た彼女の細い腕に、朝日を受けた産毛うぶげ黄金こがね色に輝いている。


 彼女は日に焼けることをいとわない。というか、いつも日差しを積極的に浴びようとしている様に見られる。北欧で育つと、生き物はみんなそうなるらしい。本当だろうか。


「これ、この前のしゅくだい」

「ん。もう簡単な漢字は完璧だね」

「あと、これもおわった」

「え、この前買った高学年用のドリル?」


 手渡された教材をパラパラとめくる。小学校で習う漢字が並んだページを埋める、彼女の手書きの文字。少しいびつではあったが、丁寧に形をなぞろうと努力したのが伝わってくる。画数が多くて覚えにくい漢字は、ページの空白まで使って練習してある。忙しいはずなのに、時間を捻出して取り組む彼女の姿が浮かんだ。


「たかおみ、しゅくだいは?」

「あー とりあえず、やってはみたんだけど」

「見せて」

「やっぱり?」

「これ、intercambioインテルカンビオだよ。当たり前でしょ。見せて」


「intercambioインテルカンビオ」というのはスペイン語で「外国人同士がそれぞれの母国語を教え合うこと」を意味するらしい。

 オレがアスティに日本語を教える代わりに、アスティはオレにスペイン語を教えてくれている。


 北欧育ちのアスティからなぜスペイン語を習っているのかというと、離婚した彼女の父親がスペイン人だったからだ。彼女は生まれた時からバイリンガルとして育ち、それに加えて英語も難なく操る(北欧諸国では一般的に、英語の習得率が高いらしい)。


 こういう人のことを「トライリンガル」というのだろうか。一つでいいから分けて欲しい。


 バッグから渋々、オレの宿題だったスペイン語の初級テキストを取り出すと、嬉々としてそれを受け取るアスティ。


 この言語は厄介やっかいだ。何が厄介やっかいって、一つの単語が変幻自在に形を変える。

 例えば、名詞には男性名詞と女性名詞の二種類がある。もちろん、それぞれに複数形もある。こんなのはまだ序の口。


 名詞の前につく定冠詞と不定冠詞ってのがある。英語だと定冠詞は「the」、不定冠詞は「a」とか「an」ってのがこれに相当する。これらが、名詞に連動して変化する。男性名詞の単数と複数、女性名詞の単数と複数にそれぞれ対応する形があるから、定冠詞が4パターン、不定冠詞が4パターン。合計8パターン。ちょっと増えてきたが、こんなのはまだ可愛い方だ。


 えげつないのが動詞。一つの動詞が何十パターンにも変化する。オレもまだ勉強中だから、正確にいくつのパターンがあるのかわからない。一人称、二人称、三人称のそれぞれ単数形、複数形でスペルが変わる(それもかなりダイナミックに)。

 これに時制が絡む。現在形とか過去形ってヤツだ。スペイン語の時制は、英語なんて真っ青なくらいバリエーションがある。現在、点過去、線過去、未来、過去未来。これらに直説法や接続法ってのがあって、もちろん命令形や現在進行形も……


 もうやめよう。頭が痛い。


 オレが提出した宿題を真剣な表情で添削するアスティ。彼女の手の中では、スイスの高級万年筆メーカーのローラーボールが銀色に輝いている。


 あ、眉間にしわが寄った。また美人台無し。


 春に彼女と出会ってから、オレの生活に小さな変化があった。平日は以前と変わりないのだが、日曜に固定のスケジュールが一つ。アスティとの時間だ。


 と言っても、彼女は相当忙しいらしく、これも毎週のことではない。日曜の朝に起きてみたら、仕事で徹夜明けの彼女から「ゴメン、今からねます。ざんねん」というメッセージが届いていることもしばしば。


「Mira, Takaomi. Ven aqui. Sientate.(ねぇ、たかおみ。ここに座って)」


 テラス席の白い椅子を自分の隣に引き寄せ、座面をポンポンと手のひらで叩くアスティ。素直に座るオレ。ワンピースの裾から真っ白な膝小僧が覗いている。それに、彼女との距離が近くて、二の腕が触れてしまいそうだ。色んな意味で緊張が走る。


「Vamos a ver... Lo has hecho muy bien, pero...(さて、とてもよく出来てたと思うわ。でも……)」

「Pero?(でも?)」

「Sabes? Tienes que mantener la concentracion. Por ejemplo...(わかる? 集中力をとぎらせてはダメ。例えば……)」

「Si, si. Pero, Asty...(あぁ、それはわかるよ。でも、アスティ……)」

「Pero... que? (でも…… なに?)

「Bueno, la verdad es que... tengo hambre. (あぁ、実を言うとさ…… オレ、お腹空いてるんだ)」

「Como? Hombre, un monentito. Son las nueve de la manana y dices que tienes hambre. Y eso por que? (え? ちょっと待って。いま朝9時で、貴方はお腹を空かせてる。それってなぜなの?)」

「Es que... Me he quedado...(それは…… つまり……)」

「Dormido. Otra vez. Muy bien, Senor. Pero increible. (また寝坊したんだ。わかったわ、セニョール。ってか、信じられない)」


 スペイン語を話し始めると急に早口になって、ハキハキしたラテン系お姉さんに人格が切り替わるアスティさん。テーブルをトントンと指先で叩く仕草を見て「あ、そういえばこの人、外国人だった」とかいまさら思うオレ。この半年弱の間に、お互い随分慣れたものである。


「わかった。あさごはん、食べましょう」

「え、いいの? まだ勉強してたんじゃ……」

「おわりました。たかおみ、まってるあいだに。ぜんぶ」


 そう言って、フッと笑みを漏らす彼女。サングラスを少し下ろして、悪戯っぽい表情でこちらを見上げる。朝日を反射した薄翠色の虹彩が、瞳に花弁が宿っているみたいに見えて、思わず見惚れてしまう。


 マズい。やっぱり凄く綺麗だ、この人。


 そう思った瞬間、ガバッと立ち上がった彼女はテラスを舞台に見立てて踊り始める。またか。ガラス窓を隔てた朝の図書館内で、こちらを見たまま驚いた表情でフリーズしている職員さんが約数名。実に申し訳ない。


「だいこんー おろーしー そーばー」

「いや、だから蕎麦屋のメニューに変な旋律つけるのやめようよ」

「なーぜーでーすかー」

「それに、まだ時間早いから開いてないよ、蕎麦屋さん」

「がちょーーーん」


 一体どこで覚えた、その昭和レトロな日本語。ヘンなポーズのままオレの評価待ちしてるし。こういうところは実に残念な人である。北欧の神様は彼女に美貌と頭脳を与えたが、人格についてはかなり手抜きしたっぽい。


 限りなくリアルマネキン状態の北欧人を舞台に放置して、彼女のノートや筆記具をテキパキと片付ける。


 さて、この時間に開いてるカフェと言えば数が限られてるけど、どこへ行こうか…

 あぁ、やってしまった。いや、しかしね、美人ってヘンな人多いですよ、実際。たいてい変わってますって。そう思うの、私だけですか?


 あと、スペイン語にしかない文字とかアクセント記号、書き方わからなくて。中途半端なスペイン語になってしまってます。ご了承ください。

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