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Hypersomnia〜幻想と現実の旅人〜  作者: 七瀬渚
★君のいる世界★
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八つ夢

物件探しの翌日、疲れた身体ながらも何とか乗り切った勤務。


つい先日知った真実と店長の提案に合意したことは今日店長の口からみんなに伝えられたらしい。一人一人ストックに呼び出される様子を私も売り場から見ていた。戻ってきたみんなの表情はまちまちだった。だけど決まって言うことがあった。



大変だったね。頑張ってね。そんな言葉。はっきり言ってありきたりだけどそれしか言いようがないのだろうと容易にわかった。ましてや捻くれたり勘ぐるなんて、そんな権利など私にはないと思った。


今日は休みだった星華ちゃん。彼女も次の出勤で聞かされるのだろう。強がっていても本当は優しい子。すぐ自分を責めてしまうタイプだってこともまた知っている。クラブに行きたがったこととか、もう今更気にしないでほしいな。最後くらい、できるだけ円満に…そんな都合のいいことを願ってみるだけだった。



一人の帰り道。空はまだうっすらと明るい。私の帰宅時間は今日から変わっている。これもまたイケメン店長の持ちかけた提案の一つだった。身体、ちょっとだるいけど余力は残っている。今夜はハガキサイズ絵の一枚くらいなら描けそうかな、なんて思いながら帰路についた。



ピンポーン、とチャイムを鳴らす。反応はやけに遅かった。ドアを開いてくれた若菜が私の耳元でこそっと告げた。



「覚悟して入って、浅葱。結構修羅場だから」



…は?



思わず間の抜けた声が漏れた。





そして今、私はリビングに居る。数分前の若菜の言葉をひしひしと全身で感じながら。



「それで?いつまでこうしているつもりですの、おさむさん」



嘘だろ、と思った。上品な振る舞いながらも低くドスの効いた声色を放つ女性、私には見覚えがあったのだ。




ーー瀬長さんとおっしゃるの?ーー




あの日、ショップ前で道案内をしたスタイリッシュな…いや、私のおばあさんだ。説明されなくったって状況が示している。


詰め寄られている修…父はというとさっきから身を小さくして言葉にもならないごにょごにょした声を漏らしている。言っちゃ悪いが情けない。



「いつも畑で嫌味ばっか言ってるくせにまだ足りねーのか!?ほんっと昔っから性悪だね、ママは!わざわざ押しかけてまでこんなこと…!」


負けじと声を張り上げているのは母。口調こそ違えど気の強さは親譲りだったか。


「Oh~!違うよ、みどり!ハニーは本当は仲直りしたくてね…」


困ったような笑顔を浮かべて口を挟むヨーロッパ系と思われる老紳士…いや待て、アンタ誰だ?



余計なこと言わないで頂戴、アナタッ!!おばあちゃんがぴしゃりと叱りつける。しゅん、と項垂れる老紳士。高い鼻が顎まで陰を落としている。え、ちょっと待って、まさか…??



「ママだって親の反対を押し切って結婚したんだろ!?何で修さんは駄目なんだよ!」


「パパはちゃんと安定した収入があったし婿養子に入ると言ってくれたのよ!外国人ってだけで反対されたけれど説得に足る要素なら十分にあったわ!」




…マジかよ。このヨーロッパ系老紳士が、おじいちゃん、だと?高い鼻、奥まったブラウンの目、綺麗な白髪の元はやはり金だったのだろうか?


正座していてもわかる、背だってきっと高い。おかしい。この血を受け継いでいるはずの孫が何故こんな童顔、幼児体型になるのか。母だって私よりは目鼻立ちがくっきりしているがハーフなどとは思いもしなかった。事実は小説よりも奇なり。人生とはアンビリバボーだと実感せざるを得ない。



…浅葱ちゃん。



不意に名を呼ばれた。低い響きに私は一瞬で凍り付いた。



「あのときはお世話になったわね、礼を言います」


「い、いえ…」



すまし顔の祖母に見つめられた私は全身ガチガチ状態で返す。嫌いなどとは言える段階ですらないが、私も正直この人とは馬が合わなそうだと直感した。だけどここは何としてでも穏便に乗り切らなければと思っていた。なのに。



「初めて会ったときに確信したの。あなたは冷静で賢い子…こんな馬鹿娘とは違ってね」



え?



「何だよそれ、賢く育てたのは私じゃん!」



いや賢くないから。今まで一言だってそんなの言ってくれたことはなかっただろ?



「いーえ!浅葱ちゃんも若菜ちゃんも私と同じように判断力のある子に違いないわ。こんな風に育ったのは奇跡よ。そうよね?浅葱ちゃん」


「なーに言ってんだよっ!この子は私の味方ですぅ!!ねっ、浅葱?」



浅葱ちゃん!



浅葱っ!!





いや、何でこっちに振る?自分がクオーターだという事実自体たった今知った私にどうしろと?本当に勘弁して頂きたいです、お二方。



とりあえずとばかりに無難な笑みを浮かべていた。ところが、だ。




「あ、言っとくけどこの子、今度同棲するから」




はぁあぁ!?



案の定、上がった祖母の叫びには絶望さえ混じっているようだった。ただでさえ話を振られてどうしようかという状況だったのに…本当にもう…!



お か ん …!!



「いくつなの?その人」


祖母の鋭い視線は完全に私の元でロックオンされてしまった。横目で隣の若菜を見る。視線だけを合わせる相変わらずの仏頂面はまるで“御愁傷様”と言っているかのよう。諦めてまた前を向いた。私はしぶしぶ答えていく。



「同い年、です」


「そう、21歳…随分と若いのね」



目を見開いてこの世の終わりのような顔をする祖母。彼女の問いはなおも続く。



「もちろん社会人、よね?」


「はい」


「どんなお仕事をされているのかしら?当然正社員なのよね?」


「書店に勤務している…準社員です」



ついに祖母は頭を抱えた。このまましおれて灰になってしまうのではというくらいの勢いでへたり込んでいく。何かもう、ごめんとしか言いようがない。



「いいじゃん、みーくんいい子なんだから!この子には本当に好きな人と一緒にいてほしいんだよ!」


「まだそんな夢みたいなことを…アンタがしっかりしないからでしょ…!」



何だよ!


何よ!!



また激しい論争が幕を開けそうだった。父はオロオロしているだけ、祖父は…



「このお饅頭美味しいネ~!!」



絶望的なまでのマイペースぶりだ。何だこれは、男が弱いのはこの家系の伝統なのか?タカは…うん、どちらかと言うと祖父に近そうだ。



しばらく甲高い罵声が飛び交っていた。その中で考えていた。


やがて、ある程度まとまった。怖かった。怖かったはずだけど、おのずと口を開いていたんだ。




…おばあちゃん。




はた、と口をつぐんだ気の強い親子。ほんの少し躊躇ちゅうちょした。それでも告げた。



「私、まだ養ってもらうつもりとかないんだ。ただ傍にいてくれるって、私もあの人の傍に居たいって思っただけ」


支え合って生きていきたいだけ。



「浅葱…」


声を漏らしたのは母だった。父も妹も驚きに目を見張っている。私だって驚いてるよ、こんなこと言う日が来るなんて、思いもしなかったんだから。


同じような顔をしていた祖母がふっ、と一つため息をこぼした。それからまた凛とした表情を取り戻して言った。



「…この際だからはっきり言うけれど、子どもができたりしたら、どうするつもり?」



うっ、と喉が詰まった。そしてまた込み上げてくる、たまらない高熱が。タカと?そんな関係に?いやいやいや。


「そういうことにはならないと、思う、けど…」


「いいえ、なるわよ。男と女が一つ屋根の下で暮らすのよ?」



なるの、かな?想像がつかない。そして自信がなくなってくる。だけどまだ言い返せる、これなら。



「責任とれるようになるまでは、ちゃんとします」


「随分自信があるのね…」



はい。私は頷いた。何故か今になって満ちてきた確信を奥で抱き締めながら、もう一言。




「馬鹿かと思うくらい私を守り続けてくれたから」




そう言って苦笑した。詰問が終わる気配を感じた。




…時代は変わった、ということかしらね。




静まり返った部屋の中、一つの声が流れた。その出処に目を止めた。落ち着いた表情のおばあちゃんが首のスカーフを抜き取るところだった。


「私もそろそろ見届けなくてはならない歳なのかね」


何処を見ているかもわからない目、薄く浮かんだ微笑みが哀しい。頑固な人かと思ったけど、受け入れようとしてくれてるのかな?そう思って見ていたとき。



…何だよ、それ。



低い声色がおばあちゃんの向かい側から。膝の上で固い拳を作った、母から。



「ふざけんなよ。何で私のときにも言ってくれなかったんだよ!」


「あなたはまだ19歳だったじゃない」


「知ってるよ!だけど結婚くらいできる歳だろ!それに…っ…」



ついには声を詰まらせ言葉を発せなくなった母。けばけばしく象られた両目には涙が滲んでいく。翠…あんこを口にくっつけたままのおじいちゃんが眉を八の字にして呟く。



「いつも、いつも、兄貴と比べてさぁ…アタシは相談だってできなかったんだよ。そんなとき支えてくれたのが修さんだったんだ。立ち上がらせてくれたんだ。今の浅葱と…同じだよ」



私と同じ…目の前の母に思いを馳せてみた。同じ体質、同じ苦悩、過眠症なる言葉さえ知られていなかった時代に生きていた母。容赦のない白い目に耐えて、耐えて、きっとそのうち感覚も麻痺して、でも本当はきっと、寂しくて。



だって、知らなかったのよ…おばあちゃんがぽつりとこぼした。そうだろうね、仕方ないだろうね、こちらにもまた共感してしまう。だけどおばあちゃんの声は続いた。少し空いた間の後に、言った。



「それが私の過ちだったわ」



鼻をすすり上げる母が顔を上げた。その体勢のまま見入っていた。


対する祖母は相変わらず凛としたものだった。よほどプライドが高いのか頭から爪先まで少しも緊張を解いていないよう。だけど声は誤魔化せないのか。唇はほんの少し、震えて。



「不眠症とは逆の病気があるなんて知りようがなかったわ。だけど、きっと気付くことならできたと思う。あなたが何かに苦しんでいる、一人ぼっちで怯えている、そんな異常に気付くことくらい、母親なら…」



翠…悪かったわね。



最後の一言のすぐ後、母の方から吸い込む息の音が聞こえた。静かに目を伏せたおばあちゃんは次に身体ごと別の方を向いた。斜め横、父の方へ。



修さん、ありがとうね。



いつからだったのか、垂れ目がちな父の目にはすでに収まり切らない潤いが満ちていた。全く、たまらないよ、こんな湿っぽい空気。



「ママ…!」


「お義母さん…!」



わんわんと泣きじゃくっている、大の大人が。それでも姿勢を崩さない、目と瞼の境目ギリギリでこぼれそうなものを何とか抑えている、可愛げの欠片もないはずの祖母の姿は今、とても潔く、かっこ良くさえ見えた。


潤いで鋭さの薄れた祖母の視線がやがてこちらを向いた。頑張りなさい、そう言っているみたいに思えた。





ーー怒涛の一夜から数日。



私はショップでの最後の勤務を終えた。いや、正確に言うなら…



「あーちゃん、あっちでも頑張ってね!」


船橋ふなばし店でしょ?そんな遠くないし、遊びに行くよ」



時は12月頭。わずか3ヶ月程の付き合いになってしまった、それでも濃い時間を共にした柏店の仲間たちが揃いも揃って屈託のない笑顔で声をかけてくれた。出勤したばかりの私は荷物を持ったまま赤べこの如く頭を下げて続けていた。星華ちゃんの姿はない。今日もまたシフトのすれ違いだ。



あの日、店長が持ち出した提案。いや、これはチャンスなんだ。愛想を振りまきながらも思い出していた。




ーー短時間勤務はどうかな?浅葱ちゃん。


引っ越し先が決まったら教えて。そこからもっと近い店舗で空きがあるかも知れない。




異動先には店長が上手く伝えてくれたようだ。短時間でも中番あたりで入ってくれると助かる、と船橋店の店長は快く返したという。




「船橋なら安心だわ、何たってあっちの店長は私の同期であり親友だからね。まぁ、いつか店長が変わっても浅葱ちゃんなら大丈夫でしょ」



真面目な子だってすぐに知ってもらえるよ。




にしし、と白い歯を覗かせて少年みたく笑った店長。恩人、そんな言葉が浮かんでしまった。



みんなとの談笑を終え、私は気を取り直してストックに入った。ロッカーの前に立った。いつだって大き過ぎる私の荷物。その重みを耐えてくれたコイツとも今日でお別れだ。



名残惜しさに戸惑いつつも鍵を上げた。キィ…と細く鳴く音。開いたその奥に…




…何?




薄暗くてもわかった。ふわふわとした質感の塊。手を差し入れて取った。やっぱり、ふわふわ。



はらり、と一枚落ちた紙に気付いた。見下ろして封筒だとわかった。駆り立てられるみたいに取り上げた後、今度は恐る恐る、封を開いた。


フルーツ柄の、ピンクの便箋。罫線からデカデカとはみ出す不格好な文字はまるで彼女の人となりを示しているようで。




『あーちゃんへ♡』



今までお疲れさま。天然なあーちゃんのこと心配だけど、やっぱ大丈夫って思えたよ。メールしててわかったけど千葉さんいい人だから浮気とか絶対しないと思う!




ふふっ、と思わず笑みがこぼれた。そのまま読み進めていった。いくつもいくつも書いてあった。今までの思い出が沢山。




あーちゃん、誕プレ遅くなってごめんね。大切にしてよ!




握り締めていたふわふわを見下ろした。広げてみると意外と大きい、可愛いウサギの模様が入ったブランケット。




いつ眠くなっても身体冷えないようにいつも持っててね!


あ、千葉さんがいるから大丈夫か!なんて♡ワラ





霞んでいく、目の前が。揺らいでいく、可愛い柄も、不格好な文字も、慣れ親しんだストックルームも…



あの子の笑顔も…




「星華ちゃん…!」



更にぎゅっと握り締めたブランケットが濡れないように努めていた。こんなことに使っちゃいけない。きっと気持ち良く眠る私を思い浮かべて、なんだから。




その日の帰りは休日のタカが車で迎えに来てくれた。このままちょっと走っていい?と言った彼。腫れぼったい目の私はこくり、と頷いた。




ねぇ、タカ。




増え始める車のライト。星々の群れのような国道の光景を眺めながら私は言った。



「星華ちゃん、タカと仲良くなりたかったんだ」


「うん」


「男として、ね」


「…うん」



酷いよね、私。そう続けた。彼女だけじゃない、彼に対してもそうだったって実感が更に強くなってくる。そうした意味なら、もう知ってる。



「怖かったんだと思う。タカまで遠くに行っちゃったらって…何処にも行かないでほしいって甘えたんだよね、私」




…行かないよ。




彼の声が返った。



「お前がいる以上、一人でなんて、無理」




まだそんなこと言うんだ?こんな見苦しい顔を見せても、さらけ出しても、そんな視野狭くていいの?アンタ。



「何でそんなこと言うの?マリッジブルーみたいなやつ?」



そう…なのかな?ってオイ。同棲するとは言ったけど結婚するなんて言ってないぞ。内心で突っ込み、首を横に振り、また言った。



「私、いつもそうなんだよね。新しいとこに行く前に何かモヤモヤを残しちゃうんだ。タカとだって…そうだったじゃん?」



うん…低く呟く彼は果たして本当にわかっているのか。まさか酷いことされた自覚もない、とかないよな?心配にさえなりかけていた。そんなときだった。



「お前が眠り姫なら、俺は王子様にならなきゃいけないのかなって、思ってた」




…出た。この話題。あのときもこのきも、このワードが出たときは決まってとてつもない一撃が来るんだ。熱の込み上げた私はつい、上ずった声で。



「だから、その話は…っ」


「でも違うって思った」



声はわずかに重なった。私は口をつぐんだ。彼が何を言うのか、何が違うのか気になって。




「お前は眠り姫じゃないよ、旅人だ」



だから俺も一緒に旅をする。そうしたい。




旅…人…?自然と呟いてた。すごく抽象的なはずなのに、何故だろう?何故、こんなにしっくりくるんだろうって不思議に思いながら。



「お前は逃げないじゃん。気まずくなってもちゃんと向き合って、時間はかかるけど修復してるじゃん」



俺のときも、そうだったじゃん。




わかってたんだ、さすがに。彼の声を聞きながら思った。そして少し、救われたような感覚。




なぁ、浅葱。



私を呼ぶ、いつもの声色。安心感を覚える、ちょうどいい具合に低い旋律。



「お前の夢のこと、書いてみてもいいかな?何か凄いの、できそう」



絵はお前が描いてくれる?そう提案してくる彼に驚いた私は一つ、助言をする。



「自然が沢山出てくるよ?」


「研究するか」


「海とか草原とか、宇宙とか」



「じゃあ資料集めだな」



全部お前と行けたらいいな、そう言う彼がハンドルを切った。右折を示すウインカー、きっと思い付きで。



宇宙は無理でしょ、そう言って笑う私の身体は右に揺らいだ。彼と少し、肩が触れた。




「とりあえず海行くか。せっかく千葉だし」


「いや、でもここからだったら隣の海あり県の方が…」


大洗おおあらい?」


「じゃね?」




光の群れが減っていった。同じ方へ進むのは数台。それもきっと、やがて何処か別へ行くのだろうと予想した。


季節は冬。12月。



こんな時期に絶賛大盛り上がりの都会のイルミネーションとは真逆に進んでいる私たちはやっぱり変わってるねって、似合ってるかもね、ある意味って、可笑しく思いながら少し、身体を寄せてみた。




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