六つ夢
今は三連休。明日、久しぶりの出勤。
ベッドの上には脱ぎ散らした服の山。口を開けたクローゼットの前に立ち尽くしていた。だいぶ増えた服の群れ、端から端まで眺めてまた気だるいため息が漏れる。…ああ、何と言うことだ。まるで計画性の乏しさをありありと見せつけられているかのよう。
もう遅い、それはわかっている。だけどあえて問おう。
ほんの数ヶ月前の過去の私よ、いくらクローゼットが狭いとは言え、少しくらい無難な服を残しておいても良かったのではないか?と。
このアパートに住み始めて約3年半。十分に増えた私物。とりわけクローゼットの中はもはや出し入れさてしずらいくらいに密集していた。ここは借家、このまま衣類が増えれば重量に耐えかねたポールが外れてしまうかもしれないと以前より懸念していた私は、アパレルショップへの勤務が決まって間もなく大多数を古着屋に売ってしまったのだ。半年間収入源がなかった為か迷いなど微塵もなかった。それからわずか数ヶ月でこんな日が来ると知っていればもう少し吟味したものを…と、後の祭りでしかないことを悔やんでいる今。
ギャル服ばかりの箱の前で私は途方に暮れた。どれもこれも見事にどっかしらが露出する構造。背中が空いていたり肩が空いていたり短かったり…あっ、これは?いや駄目だ、バックに派手な刺繍が入ってるオワタ。メイクは何とか控えめにしたけれど服がこれでは…
ベッドの側の目覚まし時計を見る。時間は確実に進んでいる。ヤバイ、マジでヤバイ。どうする?どうする?どうするよ、私?
ピンポーン…
ぎく!
まだ着替え途中、タンクトップにパジャマのズボンだけの私はとっさに跳ね上がった。え、何で?車の音なんてしなかったのに…と、疑問が浮かんだ後には嫌な汗が全身から滲んでくる。もしかして別の場所に駐車して?ほんの数分の路駐も決してしないというくらい規律正しい性格なのか、まさか…と想像してみるなり今度は動悸まで速まって。
玄関が空く音と話し声が続いてきた。私はとりあえずとばかりに派手なバック刺繍のシャツに黒のスキニーパンツを穿く。その上から袖のファーだけ外しておいたカーキのミリタリーコートを羽織った。今日一日、これを脱ぐことはできない。暖房の効いた室内だろうが車内だろうが、競い合う北風と太陽が容赦のない攻撃をしかけてきても、だ。
ーー付き合ってもいないのに?ーー
こんなときになってふと浮かんだ自分自身の言葉。そうだよ、と肯定する頷きの直後に激しくかぶりを振った。いやいやいや、そういう問題じゃないだろ。TPOに合わせた服装くらいできなければアパレル販売員の名がすたるし大人としてもアウトだ。それに…
ふと蘇ってきた感覚に私は思わず肩を抱いた。恥ずかしくていたたまれない、それでいて少し、怖い。
いつまでもこうしてはいられないと思い直し、私はバッグを片手に部屋のドアノブに手をかけた。もしかしたらもうこの先に…決死の思いで開け放った、一気に。
「浅葱?」
「………」
………
「え、若菜?」
ちょうど鉢合わせたのは約半年ぶりに目にする妹。黒縁の眼鏡にキリッとしたまとめ髪。さらりとした質感のネイビーのノーカラーコート。手には小ぶりなキャリーバッグ。
「何、どっか出かけるの?」
あっさりとその場を去ろうとする妹の肩をおのずと伸びた私の手が掴んだ。振り返った驚き顔に私は閃いた思惑、それと願いを込めて口を開いた。
若菜。いや、若菜様。
眉をひそめる仏頂面。だけど今はこれしかない。
「お願いします、あなたの服を貸し…!」
ピンポーン…
手を合わせて懇願する、私の動きは止まった。試合終了のゴングを聞いた気分だった。
防寒というより気休めに羽織ってきたコートの前を押さえながらショートブーツを履いて外へ出た。何かいつもと違くね?と隣を歩くタカが言う。当たり前だろ、と返したくなる。グレーのチェスターコートの下に見覚えのあるパーカー、細身のデニムパンツ、と至っていつも通りな彼を横目で恨めしげに見ながら思った。
そりゃあアンタは気にしないだろうよ。そういう男だってもう知ってる。だけど…だけどね…!
閑静な住宅街を二人だけで歩き、やがて開けた場所に出た。ひっきりなしに車が行き交う国道前のコンビニの駐車場につい数日前に目にした車種が紛れていた。目を凝らしてみた。確かに書いてある、春日部ナンバー。
「いねぇな、トイレにでも行ってんのか?」
思った通り、その車の前まで歩いたタカが辺りを見渡しながら呟く。私の視線はギギギ、とぎこちなくコンビニの方へ移行する。この中に、いる。握り締めた私の両手にはじわり、と汗が滲む。寒いくらいの気候も迫る実感にはやはり勝てないのか。
おい、浅葱…
緊張に強張る私はすぐ傍の彼の動きに気付かなかった。
「大丈夫か?」
……っ!
ぎゅっ、と握られる感覚で我に返った。汗ばんだままの私の手をしれっと自身のもので繋いでみせた彼を唖然として見上げた。ちょっ…と思わず上ずった声が漏れた。焦燥と羞恥はいよいよ募っていく。
「ば、馬鹿!こんなとこ…っ!」
「?」
狼狽する私に対して首を傾げているタカ。薄いその表情がやがて何か気付いたみたいにはっ、と小さく息を飲んだ。やっと気付いたか…そう思ったのも束の間。
「落ち着け、大丈夫だから」
そう言って肩に触れる。更に身体を寄せてくる。だから…違うって!!空回る口から声も発せないうちにコンビニの自動ドアが、開いた。
…巳隆?
落ち着いた、声色。
紛れもなく、目上の、女性の。
うわあぁ、と呻きそうになった。だけど顔を上げなきゃ。滅茶苦茶気まずいけど、怖いけど、鈍感なタカの手は離してくれないけど、このままじゃ失礼だ。大人として、大人として、ちゃんと挨拶を…っ!
浅葱ちゃんね?
その声が呼んだ。私の名を。それも、すごく明るく。
驚いて見上げたとき、その人はすでに目の前まで駆け寄ってきていた。呆気に取られた私の手を両手で強く掴んで言った。
「初めまして!巳隆の母ですっ!」
キラキラと輝く満面の笑顔が眩しい。うわぁ、と思わずこぼしそうになった。
返事も忘れてしまう程私が見入ったその人…タカの母親は想像していたよりずっと若く、モッズコートにチェックシャツ、ストレートのデニムとカジュアルな装いながら品まで備えた綺麗な人だった。そして似ていた。少し寂しげな顔のつくりが、彼に。
それから三人で車に乗り込み不動産屋へ向かった。コンビニで買った温かいペットボトル茶をくれた巳隆ママは、後部座席に並んで座るタカと私に度々話しかけてくれた。
「何となくは知ってたのよ、浅葱ちゃんのこと…」
巳隆の話によく出てきたから。
ふふっ、と可笑しそうに笑う声。そいつは初耳だ、と隣を見ると無表情のまま鼻の下をこすっているタカ。…今更照れるなし。
着いた不動産屋で物件を吟味し、気になったいくつかを回った。巳隆ママはまるで自分のことのようにはしゃいでいた。こうして見ると何と無邪気な人だろうか。正直で人懐っこくて、マイペース。この親にしてこの子あり、と千葉親子を交互に見ては一人頷いてしまった程。
やはりとは思ったが、物件探しはある程度の時間を要するもの。せいぜい2、3件までに候補を絞るのがやっとで、また後日不動産屋と相談しようと結論付けた私たちは県境の東京江戸川区内で遅い昼食へと向かった。
腰を下ろしたファミレスのテーブル席。室内に入ってなお前ボタンの上までかっちり閉じたミリタリーコートにはさすがに違和感があったのか、心配そうな顔をした巳隆ママが尋ねてきた。
「浅葱ちゃん、寒いの?風邪でも引いた?」
えっ、マジ?とタカまでのってくる。こちらも心配そうに覗き込んでくる。ああもう、この親子ときたら…観念した私はゆっくりボタンに手をかけた。気まずい上目遣いを送り、せめてもの言葉を添えた。
「すみません、今あまり服がなくて…」
脱いだコートをそっと傍らに置いたとき。
「えー、可愛い!いいなぁ、何処の?」
目を輝かせて身を乗り出す巳隆ママ。
「いや、歳考えろよ」
浅葱には似合うけど…などと余計な一言までくっ付けて突っ込むタカ。
「いつかお嫁に来てほしいわぁ、そしたら【千葉浅葱】、私は【千葉朝呼】…一文字違いよ?」
すごくない!?と興奮した様子で今度はタカの方へ身を乗り出す巳隆ママ。呆れた声色で気が早いから、と返すタカはまた鼻の下をこすこす。
身を小さくした私はしばらく動けなかった。そこへやがて届いた。
話し声と笑い声。いつの間にかまた違う話で盛り上がっている親子から溢れ出ている和やかな空気。
私はやっと、笑った。何で、と思っていた。
何で、こんな風に振る舞えるんだろう。受け入れてくれるんだろう。一人息子を連日連れ回した張本人を目の前に…懐が広いにも程があるでしょ。そんなことを思いながらも、温かい雰囲気に飲まれていた。
ーーその夜、帰宅した私にまず話しかけたのは帰省中の若菜だった。タカのことは知っていたという。
「いっつも送ってくれた人でしょ?まともに話したことはないけど駅前で何度か見たし、お母さんもみーくん、みーくんってうるさかったから」
あの女…“みーくん”を一体どんな風に語っていたのか…考えるだけでも恐ろしい。
さも当然のように私の部屋に転がり込んできた若菜はさも当然のように床に布団を敷きながら言った。いつかこうなると思ってた、なんて知ったかぶりな口調で。
風呂を済ませてパジャマに着替えて電気を消した。遠のいていく意識の中で若菜の声を聞いた。
今、帰ってきて良かった。浅葱のいい顔が見れたから…
良かったね、浅葱。
閉じたはずの瞼の裏が熱かった。夢だ、夢の声だ。あの生意気な妹がこんなこと言うはずが…そう言い聞かせていた。
夢か現実かわからない、時。そこにレオやサキやモモの姿はなかった。代わりにいくつかの顔が浮かんだ。
この街のいろんな場所へ連れ出してくれた仲間。近隣のショップの子たち、隣の店の樹奈ちゃん。ちょっぴりお節介で危なっかしい、でも一生懸命だった、星華ちゃん。
話を聞いてくれた…店長。
連休に入る前のことを思い出していた。忙しいのに、と胸は痛んだけれど必要なことだと思って時間を作ってもらった。
二人っきりのストックルームで店長に言った。何度も連休を貰ってしまったことに対する詫び、睡眠外来で告げられた結果、そして最後に…
…浅葱ちゃん。
言い終わる前に店長の声が被った。腕を組み壁にもたれ、あくまでも落ち着いた表情の彼女が言った。
「何となく、気付いてたんだ。夜遊びなんて身体に悪いに決まってるけど、それにしても浅葱ちゃんの疲れ具合は尋常じゃないって」
私はぐっ、と喉に力を入れた。ただこれから告げられるであろうことを受け入れようとしていた。抗う気もなかった。
だけど彼女は続けた。整った顔に薄い笑みを浮かべながら私を見た。
「だからそんな浅葱ちゃんでも無理なく働けるように、ちゃんと居場所を作れるようにするにはどうしたらいいか考えてた。だけど私、馬鹿だからさ、遅かったんだよね。怪我までさせちゃって…ごめんね」
店長…そうこぼすのがやっとだった。身体が震え始めた。覚悟ならもう決めていたのに。流れが変わったことも新たな方向へ動き出したことも感じてた。信頼が築けつつあった職場のみんなの見る目が変わってしまったであろうことも、感じてたんだ。
仕方ない、受け入れるしかない、決して口にはしなかったけれどこんなの何となくわかっていたんだ。今までだって何度となくこうしてかつての居場所と決別してきたんだ。今更抵抗しようなどとは思わないんだ。
なのに…なのに…
声の一つなくただ涙だけをこぼした私に店長は問いかけた。
ねぇ、浅葱ちゃん。まだ、何か抱えてない?
もたれていた壁から身体を離してすぐ傍まで寄り添ってくれた、何処までもイケメンな女の人。
「プライベートなことでもいいんだよ?解決してあげられる保証はないけど少しくらい楽になれるんなら、話しな?」
私たち、仲間でしょ。
言うまでもない、最後の一言が追い打ちになった。ついに顔を覆ってしまった私はしばらく後、落ち着いた頃に打ち明けた。
ああ、やっぱり…店長は納得の表情で頷いた。
「あの男の子、浅葱ちゃんにとってそういう人だったんだね。あの一瞬で誰にでもわかっただろうけどね」
…だから泣いてたんだ、星華の奴。
ぽつりと続いた事実に更に胸が詰まった。鼻声の私は言った。
「私も…自分で自分の気持ちに気付きませんでした。だから星華さんに、あんな思いを…」
こんなことなら応じなきゃ良かった。無理矢理に結論付けた綺麗事の為に返って深く傷付けてしまったんだ、と実感が迫ってくる。何が彼女の為だ、何がタカの為だ、出来もしないクセにって自分を責めるくらいしかなくて。
鼻をすする私の元に届いたのは笑い声だった。困ったような笑顔の店長がいた。
「だって浅葱ちゃん、純情だもん。男の経験もないんでしょ?恋が何だかわかってなかったんでしょ?気付かないわけだわ」
きっといろんなものを見ていろんな経験を重ねたであろう目の前の彼女は、いつもにも増して美しく、そして逞しく見えた。遠い遠い存在のようだった。いつか星華ちゃんに言われた言葉が現実味を帯び始めていた。
ーー妹みたいーー
うん、そうだろうね。そうだと思うよ。私が現実を生きた時間は短い。度々夢にさらわれるようになったあの中学時代から今まで、私がこっちで動ける時間はみんなの半分くらいになってしまったんだ。
見るものも少ない、だから知るのも遅かった。置いていかれるのが怖くて必死に走ってたけど、肝心な自分の気持ちが置き去りだった。この人たちがいれくれなかったら、支えてくれなかったら、きっと今頃…
もっと遥か後ろで、うずくまったまま…
ひとしきり笑い終えた店長はさすがに悪いと思ったのか、まだ笑みの残る声でごめん、と言った。それから続けた。
「大丈夫だよ、星華なら。私がちゃんと見守っててやる。いつかいい恋ができるって信じてやって。そのときはきっとアイツからしっぽ振って話しにくるだろうからさ」
ホントですかぁ?私はやっと笑って返した。そうだったらいいな、そんな淡い期待を抱き始めた私に店長は最後、一つの提案をした。
しばらくは固まってた。
それから、頷いた。何処までもイケメンな彼女のイケメン過ぎる提案を否定する気になんて、なれずに。




