四つ夢
空が白々と明ける頃、ようやく家路に着いた私を出迎える者などいない。わかってはいたし、誰が悪い訳でもない。誰も起こすつもりはない。
時刻は午前5時よりちょっと前。こんな時間に帰宅するのは言うまでもがな、夜の勤務をしている者かあるいは朝帰りかのどちらかだ。
夜通し遊んだクラブから自宅のアパートまで多少距離はあるものの、タクシーを使ったって目ん玉飛び出る程の料金は発生しない。他、隣街の松戸、流山から通勤しているスタッフの皆は誰もが知るポピュラーな牛丼チェーン店で始発を待つそうだ。柏市内の私はまだマシだと言えよう。
もう一つ幸いなことがある。
かつて私などでは想像もつかない程のハイレベル勉学の為、常に神経を尖らせていた若菜も今年の春、晴れて葛飾区での一人暮らしを実現させた。無事に大学二年まで登り詰め、検事を目指し血の滲むような努力を重ねる傍ら、器用なことに飲食店でバイトまでして親に通帳を叩きつけて説得したそうだ。我が妹ながらあっぱれだ。
つまり今は父と母と私の三人暮らし。朝帰りしようが深夜にゾンビ声を立てようが、厳格な妹に気を遣う必要はもうないのだ。もちろん若菜に罪はない。あの子はただ真っ直ぐひたむきにエリート街道を突き進んでいるだけ。私とは生きるスタンスがまるで違うというだけのことだ。
それでもいくらか楽になったのは事実。寂しい?いや全くということはないが、葛飾区と東葛飾(略して東葛)と呼ばれる地域との距離ならば正直それ程のことはない…って、やっぱり私がドライなだけなのか?
寝静まったアパートの一室の中、私は極力音を立てないように自室へ向かう。クローゼットから部屋着を持ち出すとそのまま脱衣所へ向かう。乾いた汗の貼り付いた身体はベタベタするし唯一の飲料がアルコールだったせいか口の中もたまらなく不味い。何もかも洗い流したいとばかりにシャワーを頭から被ってまた気付く。
しまった、まず先に乾いた顔、乾いた手でクレンジングだろ。そうでなきゃこんな頑固なメイクは落としにくくてしょうがない。ってか、つけまも外し忘れてるし…あぁ、もう。
出勤の度に180度の高温で巻いている背中までの明るい髪は濡れようが乾こうが変わらずギシギシしている。まぁ当然だ。
働き始めて一ヶ月の私はまだ十分な蓄えもない。正直なところおかんからいくらか前借りしている。昨夜のような付き合いこそあれど、それ以外は湯水のように使う訳にもいかず、贅沢なトリートメントも買えない。昼食は大概自分で握ったおにぎりかカップラーメン。まさに爪に火を灯すような日々な訳だが、休憩室を見渡せば同じようにしている華やかな身なりの若者たちを何人と目にする。
時にカリスマと呼ばれる者さえいるアパレル販売員…その現実は決して生易しいものではないと肌で感じてしまう。髪色にメイク、それからネイルも季節やトレンドに応じて変えなければならない。一刻も早く上手なやりくりを覚えなければ初の給料もすぐに泡となって消えるのだろう。
それでも皆、働き続けるのはきっと…と想像してみる。それはきっと私も持っている感覚。
夢中で筆を走らせているときのあれと似ているのではないか、と。
シャワーを浴び、すっきりしたところで部屋へ戻る。枕元の目覚まし時計を見る。時刻は間もなく午前6時を迎えようとしている。
今日も遅番、出勤は12時から。余裕を持って45分前に家を出る。支度には約1時間…つまり10時までは寝れるな、と私はざっくりな逆算をしていく。
中学から専門までのライフスタイルからはもはや考えられなかった状況だが、私はこの一ヶ月のうちにすでに二回乗り切っている。案外いけるものだ。あんなに眠くて眠くて仕方のなかった私でも案外どうにかなるんだと思った。
ひんやりとしたベッドの上へ私は身を横たえる。目覚ましをセットして薄い布団を頭から被る。胎児のように丸くなって身を委ねていく。
たった4時間の睡眠へ。
ーー曲がりなりにも何とか無事に専門学校を卒業した私は、当初鬱病との診断を受けた御茶ノ水の大学病院に紹介状を書いてもらい、柏の心療内科への通院を始めた。いつの間にか眠気も以前よりかは強烈でなくなり、失いかけていた食欲も戻った。母に促されて外へも出てみた。私の世界は少しずつ、変わり始めた。
そんなある日、柔らかい笑みの主治医が言った。
もうそろそろ薬離れしてもいい頃でしょう。
ここまでよく頑張りましたね。
季節は夏の終わり。念のため、と最小限まで減らされた薬を受け取ったその日の足取りは軽かった。晴れやかな気分はおのずと次の場所へと導いてくれた。人の群れだってもう怖くはない。むしろ活気のある場所に行ってみたいと思って訪れた若者の多く集うショッピングモール。
とりわけ派手好きという訳でもない、動き易さの中にほんの少しトレンドが入っているくらいで十分だったはずの私は何故か一つの店舗の前で足を止めた。
鮮やかなカラーが眩しくすでに秋物が揃っていながらも何処か南国のビーチを思わせるような内装と衣類のラインナップに目を奪われた。重低音の響く店内へ恐る恐る足を踏み入れると端っこから遠慮がちに眺めていった。
どう見ても腹が丸見えになりそうなくらい短いフリンジ付きのトップスのすぐ横にはこれと合わせて下さいと言わんばかりにハイウエストのスキニーパンツが下がっている。まぁそういう戦略なのだろう。上手いことやるもんだ。
上にはディスプレイされているクラッチバッグ。小物から秋を取り入れませんか?と三色のスモーキーカラーが主張しているよう。
しばらくぼんやりと眺めていたときすぐ側から黄色い声が上がって振り向いた。
見てこれ、ゲロ可愛いーぃ!!
こっちも良くね?
やだそれあからさまじゃーん!
声の出処は二人組。こんがり小麦色…ではさすがにないものの、真っ赤なリップにブリーチされた髪、短いトップスから腹を見せて15センチはあろうかというヒールを履いた見るも凄まじ…いや、瑞々しい乙女……
いや、やっぱ正直に言おう。完全に【ギャル】と称される種族だと。
さすがに場違いかと思った。趣味嗜好は数あれど今近くにいる彼女たちが至って完成された姿なのは確かだ。まるでコンビニの帰りのようなTシャツ、ジーパン、ぺたんこサンダルの私とは明らかに違う世界の住人…そう実感を覚えるなり何だか急に気恥ずかしくなって踵を返した。しかもスッピン…更に迫った実感がなおさら歩調を早くした。
いらっしゃいませ。
ふと、背後から届いた声にぎくりとなった。まさかと思ったけれど間違いない、カツカツというヒールの音は確実にこちらへ迫っている。
ちょっと待て落ちつけ姉さん。アンタ完全にチョイスを誤ってるぞ。何もわざわざ私でなくたってそこらじゅうにうってつけのギャル達がいるではないか、と内心で訴えつつも覚悟を決めた。
無視をするのも失礼だ。だから正面きって堂々とこう言ってやればいい。見ているだけだ、と。そして振り返った。固まった。
ごくり、と喉を鳴らした。
そこに居たのはギラギラとした目で迫ってくる店員…ではく、キラキラと眩しい見事なプロポーション。
くびれたウエストから張りのある胸、更に上へと視線を移してまた固まった。切れ長の大きな目に眉の根元から通った鼻筋、無駄のないフェイスライン、シャープな前下がりのボブ。可愛いというよりかはそう、あの近畿の有名過ぎる歌劇団で男役でもやっていそうなクールなイケメン女性だった。
当店は初めてですか?と麗しきイケメンが問う。見ての通りです、と言いたいところだったが見惚れるあまりか大人しく頷いてしまった。もう少しだけ居てもいいかな、などと不覚にも思ってしまった。
アパレルショップと店員と言ったら何を合わせてもお似合いです!と持ち上げてくるものかと思っていたが、その人は実にあっさり清々しいくらいに私の中の常識を壊していった。
オフショルダーは撫で肩の人にこそよく似合います。柄を入れればボリューム感も出ます。
細いウエストは強調してあげましょう。小柄なのでハイウエストのショーパンツがいいですね。
これだけ長い髪ですから巻いてあげればもっと可愛いですよ。今はとりあえずウェッジソールで盛っておきましょう。
そうして出来上がった自身の姿を鏡ごしに見てただ一つを思った。
す…
すげぇ…!!
スッピンの女をここまで仕上げるとは。幼児体型なのに平野なのに、ワンランクアップして見えるとはどういうことだ?なにこれ、なにこの人、なにもの??
言葉を失くしている私に向けられるイケメンの優しい笑み。ふと今更のように思い出した問題に私は気まずくうつむいた。すみません…彼女に言った。
「気に入ってるけど、今は買えません。私まだ職を探してるところで…」
手のひらを返されることも覚悟の上だった。だけどすぐに知った。この人は私の予想をことごとく裏切ってくれるのだと。
「いいですよ、そんなの。気に入ってるという一言が聞けただけで満足です」
なにこのイケメン…いや、女神?そう思って顔を上げたとき、彼女は少々お待ち下さい、と言い残して身をひるがえすところだった。そしてすぐに戻ってきた。小さな紙切れを私へ差し出して、言った。
「ご興味がありましたら、是非」
フラれるのも慣れてますけど、と悪戯っぽく笑った彼女。カッコイイのに笑うと少年みたいに可愛い、この人を店長などと呼ぶ日が来るとは思わなかった。“スタッフ募集”の文字を眺めていただけのそのときの私には、まだ。
ピピピッ…ピピピッ…
アラームが起床の時を知らす。静寂の4時間から目覚めた私を迎えるのは登りきった陽の光、爽やかな秋晴れ。
身体を起こしてみる。…ホラ、やっぱりいけそうだ、と安堵する。
いつしか当たり前にさえなっていたあの強烈な眠気は、やっぱり成長期特有のものだったんじゃないだろうか。全くやめてよ神様、そんな意地悪は。あんな十分過ぎる眠りを与えたからにはもうちょっと成長させてほしかったし、と平たい身体を見下ろして毒づく。
いつか店長が教えてくれた盛れるコーディネートを参考に先日社割で購入したばかりの服に身を包む。姿見の前に立って出来上がった自分を見下ろす形で眺めてやる。
派手だっていい、ギャルだっていい、開放感と軽快さはやはり私に合っているし自信だって持てる。これで給料を得ているからにはなおさらものにしてやろうって思える。若作りの過ぎるあの女のかつてとよく似た方向性へ進みつつあるのは…ちょっと不覚なところだが。
すでにキューティクルの傷みまくったロングの髪を巻いて誤魔化した私は部屋を出た。辿り着いたもぬけの空のリビングにも温かい日差しは差し込んでいた。
おかんが置いていってくれた好物のハニートーストを見下ろして頬が緩んだ。誰にも見られていないのをいいことに呟いていた。
もう大丈夫。やれるよ、って、小さな声で。




