八つ夢
何だか目がカピカピする、と思った。開いていくと上下の瞼が引き離される感覚。目ヤニでも付いてんのか、汚ねぇな、と人ごとのように思っていたとき、気が付いた。
おそらくは目ヤニで霞んでいる視界。その先でこちらを見ている…男?
「うわっ…!!」
私は思わずのけぞった。伏せていた机と腕から顔を離した。同じようにこちらに顔を傾け伏せていた彼が同じように身体を起こす。なおもこちらを見ている。
「何見てんだよ、タカ」
「いや、キスしたら起きるかな…って」
何だ今の。何か聞き捨てならない言葉が聞こえたけど気のせいか?うん、きっと気のせいだ。
でも…
私は眉をひそめて見上げた。例え気のせいだとしても確認しておかなければならないことがある、と思い直してしれっとした表情の塩顔に問う。
「…何か、したの?」
身体は完全に後ろに引いたまま、じっと上目で睨み付けてやる。もしこれで恐れている事実があろうものなら言うまでもない、この薄いツラを粉砕するまでだ、と空手部マネージャー時代に教わった拳を机の下でスタンバイしておく。
ところが相手の方もまた一筋縄ではいかない。ああ、と間の抜けた声を漏らした後にさらりと悪びれもせずに返してくる。
「してないよ。だって…」
お前が眠り姫ならキスが有効なのは王子様だけ、でしょ?
……っ。
えっとどなたかご教授頂けませんでしょうか?こんなどこぞの歌詞のような台詞に上手く切り返す術を。もはや私のボキャブラリーでは対応しきれません。
「…なら、いいよ」
そう返すのがやっとだった。不思議そうに首を傾げる彼から顔をそむけて力ない息を吐いた。そして何だろう、あの歌詞めいた台詞…何か気に入らない。
こんなやりとりにもいつかは慣れるのだろうか。私のカメレオンスキルよ、お願いだから一秒でも早く慣れてくれ、と願った。
甘く歯に染みる…いや、歯の浮く台詞を平然と吐く男、千葉巳隆は今日も私の隣に居る。何度か会話を交わして知ったことと変わったことがある。
まず知ったこと。同い年の彼はこの美術系専門学校に通うかたわらインディーズバンドの歌詞提供なんかもしているという。昨日見せてくれたライブのパンフレットに写っていた面々は黒ずくめに性別不詳となる程のメイク、重力に逆らった髪を天へと向けた激しめのヴィジュアル系だ。
ロマンチックながらも戦慄的、暗くセンチメンタルな歌詞を手がけるうちにこうなってしまったのか、はたまた特技と呼んでいいものかもわからないこの口調に可能性を見出したバンドの方からオファーでもあったのか、その辺は定かでない。
それから変わったこと。彼のことを【タカ】と呼ぶようになった。浅葱という響きが気に入ったとかでいつからか勝手に呼び捨てし始めた彼に対抗したかったのもある。だって何か悔しい。
それに…
私は思い返した。つい数日前に出くわした光景を。
放課後の学校。建物の陰からそれは響いた。
バシッ…!!
ーータカちゃんの馬鹿!私が好きって、私だけだって言ったじゃない!!ーー
立ちすくむ私にまるで気付いていないのか泣きながら走り去っていった女子。夏休み明けからとんでもないものを見てしまった、と呆然としている私に気付いた彼が近付いてきた。
「見た?」
「うん、見た。アンタ好きだって言ったの?」
「髪色が好きって言った」
「君だけだよ、とか言った?」
「君ばかり見てる、とは言った」
「何処を?」
「髪」
「髪か」
もういっそ“好き発言禁止令”を出してやろうかと思った。アンタの言う好きは例えLIKEだとしても全てLOVEに聞こえるのだと。だけど赤く染まった痛々しげな頬を押さえている困り顔を見て、やめた。
どんなに歯の浮く台詞だろうが恋…もとい、故意ではないのだ。私だって当たり前に持っている発言の自由を奪うことなどできない、と。
少なくともいつか植村から聞いた人間像とは違うと思えた。だからなのか何故か近付いてくるこの気配にも慣れて私もフランクに接していいように思った。
何処の専攻の生徒かもわからない傷心の彼女が叫んだ【タカちゃん】。とりあえず“ちゃん”は外しておくことにした。言うまでもない、そんな呼び方をしている自分を想像するだけで身の毛がよだつからだ。
荷物をまとめ、一緒に教室を出る。一緒の道を辿り一緒の駅から電車に乗り込み並んで座る。混んでいれば立つ。だけどやっぱり並んでいる。
「専門は入学より卒業するまでが大変だっておかんが言ってたんだけど…マジなんだね」
「本当それな」
課題に追われる日々、その差中にいる者でないとわからない苦悩を今日も共にこぼしていた。
ーーそう、もう一つあった。知ったこと。
タカとは通学の路線、最寄り駅も同じだ。あの痴話喧嘩にしか見えない誤解の数日後たまたまこの千代田線の車内で会った。
寝不足が続いて疲労が最高潮だった私は彼にもたれかかっていることに気付きつつも目を開けることができなかった。かすかに聞こえる声だけに答えていた。
「なぁ浅葱、お前の最寄りどこよ?」
「えっと…ね…」
かし…わ……
ちゃんと言えていたかわからなかったがしばらく眠ってようやく着いた柏駅でタカも一緒に降りた。フラフラの私の腕を引いて東口のロータリーまで向かい、迎えに来ていた母と何やらヘコヘコと挨拶を交わした後、俺こっちだから、とか言ってまた駅へ戻っていった。方向から察するにおそらくは反対側の西口方面、同じ駅とは言え付き合わせてしまったことに罪悪感が芽生えたのを覚えている。
あれ…?
もうすぐ柏に着くであろう頃にタカの声がした。私は振り向き、そのまま見入った。
相変わらず表情が乏しい。でも何となくわかる。何か焦っているのだと。実際に両手はバッグの中を漁っているし…
その察しは外れていなかった。硬直した塩顔がギギギ…と錆びた音が鳴りそうな動きでこちらを向いた。
「…やべぇ、課題のUSBないんだけど」
「えぇ!?」
人目もはばからず思わず声を張り上げてしまった。課題の提出は明後日。しかしPC派じゃない彼が何故USB?やがて遅れて返ってきた答え。
「今回のはバンドとコラボってんだ。いつもみたいに歌詞だけじゃなくてライブで流すPV画像に絵を提供することになってた…未発表の楽曲だし、バンドの奴ら以外まだ誰にも言ってない」
何だかよくわからないけれど、それだけの力作が紛失した時点でヤバイことだけはわかる。いや、それよりもっとヤバイことがある。バンドが絡んでいることを強調している彼には悪いが、専門学生にとって何より大事なのが単位。塵も積もれば何とやら、今は小さな数字でも確実に今後へと響いていくのだ。
「明日朝イチで探そう?私も行くから」
おのずと提案していた。そうせずにはいられなかった。
遅刻魔の私がよく早めの登校などできたなと思う。授業が始まるギリギリ前まで二人で目を皿のようにしてUSBを探した。机の下からカーテンの間、ゴミ箱の中までひっくり返して徹底的に。
でも見つからなかった。いつものように授業が始まって、いつものように終わりを迎えた。
「朝から何探してるの?浅葱ちゃん」
バンドのメンバーに報告するとか何とかで先に帰って行ったタカ。残ってまた探そうと身をかがめた私を一人の声が呼び止めた。
こちらを見下ろしている高い背丈…植村だった。夏休みが明けた頃にはすでに金髪に、肌は日に焼けピアスの穴もシルバーアクセサリーも増えている彼はもはや渋谷・表参道どころではない。新宿歌舞伎町というワードこそがしっくりくる。
まぁそれはいいとばかりに私は床へ視線を戻した。しかし聞かれたからには一応返してやる。
「タカの課題。USBなんだけど、植村も見つけたら教えて」
まだ傍に居続けている気配には目もくれず床に両手を這わせていた。そのときだった。
…何でそこまでするの?
手を止めた。顔を上げた。
怪訝に眉をひそめて見上げた。何故か悲しそうな植村の顔を。
「何でそんな必死なの?浅葱ちゃんだって忙しいのに…アイツが勝手に失くしただけじゃん!自業自得じゃん!ほっときなよ」
声まで荒く乱れた彼がやがてふっと嘲笑うような笑みを漏らす。ポカンと見入る私を前に何を思ったのかますます饒舌に早口になっていく彼が更にまくし立ててくる。
「大体バンドとのコラボって何?アイツ学校の課題ナメ過ぎでしょ」
ペラペラと続く声はもはや単なる音になり始めていた。たった今耳にしたものを最後に。
待って!!
張り上げた私の声の後、ぴた、と止まった音。その出処、植村の唇は半開きのまま静止している。私は立ち上がった。まだわかっていない様子の彼を正面から見据えて問いかける。
「植村…今、何て言った?」
「え…」
「何で知ってるの?あのUSBの、中身」
聞きたくない。できれば考えたくない。青ざめていくかのような植村の表情が更に信憑性を増幅させてきて怖いけれど、気付いてしまった以上は確かめるしかない。
「そ…それは千葉に聞いたから…」
「言ってない」
しどろもどろな植村の口調にかぶりを振って否定を示す。更に、教えてやる。
「タカは言ってないよ」
バンドのメンバーと、私以外には…誰も。
植村と私、二人しか居ない教室がしん、と静寂の音を鳴らす。それはしばらく続いた。じっと睨むばかりだった私に向かってやがて植村が口を開いた。
何でだよ…
小さく呟いたのを皮切りに彼がずい、とこちらに乗り出して叫ぶ。
「前に言ったじゃん、千葉は女たらしだって!浅葱ちゃんも取って食われて捨てられるんだよ?騙されてるんだよ?目を覚ましなよっ!!」
怒りに蒸気した顔、肩で息を切らす彼の姿に私はしばらく硬直していた。だけどやがて落ち着いた。少し時間がかかってしまったけれど、はっきりと言った。
「違うよ。タカは…女たらしなんかじゃない」
天然たらしだ、と喉元まで出かかったそれを飲み込んで続けた。
「思ったことを真っ直ぐに言ってるだけなんだ。裏も表もない。勘ぐっておかしな方向に解釈してるのは、私たちなんだよ」
激しく上下していた植村の肩がまるで草食動物みたいに下がっていく。すっかり意気消沈したような彼に少し胸を痛めつつも私は真っ直ぐに手を差し出す。
「課題、返して。タカが困ってる」
「…っ、知らねぇよ、俺は…っ!!」
ムキになったように叫んで目をそむける植村。はぁ…ため息をついた私は彼に背を向けた。
「ならいい。私が何とかする」
もう怒りなんてなかった。ただやるせないだけ。
浅葱ちゃん!と呼ぶ声がしたけれど振り返らなかった。善は急げ。口を割らない奴に付き合っている暇なんてない。もう、行く先もするべきことも見えている。
ーー先生。
訪れた職員室。担任の傍へ近付いた私は、言った。
「明日の課題、共同でもいいですか?組みたい奴がいるんです」
ほぉ、と漏らし興味深げに見上げる担任。さすがアーティスト専攻。新しく面白いものを良しとする風潮にとりわけ今は感謝せずにはいられない。
やってみなさい。そう笑顔で返してくれた担任に私も立てた親指を突き付けて笑う。
「絶対にすごいやつ、作ってみせますから」
今さっき勝手に定めた相方の了承もまだないのに、自信満々に威張って見せた。




