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Hypersomnia〜幻想と現実の旅人〜  作者: 七瀬渚
★高校世界★
22/57

十二の夢

ふと開いた先に捉えたのは天井だった。見慣れた照明の形、見慣れた壁のシミ、見慣れた…部屋…


窓の外はまだ明るい。朝とも違う昼の陽気だった。なのには私は自分の部屋にいる。確か、学校に行ったはずじゃあ…?疑問に感じていたところでガチャ!とドアが音を立てた。間から現れた顔がはっと息を飲む。


「浅葱…!気が付いたんだね!」


「おかん…?」


ベッドの上、半身を起こしている私の元へバタバタと駆け寄ってきた母。今にも泣きそうな顔が間近に迫って私の胸にも不安が宿る。視線を合わせるべくしゃがみ込んだ母は言う。



「覚えてないのかい?授業中、突然倒れたって…頭打ってなくて良かったよ…」



本当に良かった、と何度も何度も繰り返している 。はっきりとではないけど少しだけ覚えがあるような気がした。


昨夜はいつもより眠った時間が少し短かった気がする。そのせいだろうか、 授業中いつも以上に頭が重くって前に伏せる間もなく横倒しになったこと。先生やクラスメイトたちの呼ぶ声が遠巻きに聞こえたこと。


多分おかんが車で迎えにきてくれたんだ。今日パート休みだって言ってたしな…


「後で砂雪ちゃんも来てくれるって」


おかんが言う。砂雪、誰から聞いたのかな?今や空手部の部長、大会も近いって言ってたのに練習時間を割いて来てくれる気なのかな?



ーー私は2年になった。もう半年とちょっと経っている。もう17歳、3年だって目の前だ。



いくつか変わったことがある。



まず川崎はあれから言葉の一つも交わすことなく転校していった。最後まで何か言いたげに見ていたけど私が徹底的に避け続けた。あれ程気になって仕方がなかった存在も今や薄れつつある。所詮その程度の男…無理矢理ながらもそう自分に言い聞かせ続けた効果があったようだ。


砂雪とはクラスが別になった。私の足もおのずと空手部から遠ざかって言った。2年に上がって間もなく砂雪の方から言ってくれた。



ーー浅葱、もう無理して来なくてもいいよ?


1年の入部が以外と多かったんだ。15人はいくかも知れない。もう廃部の心配はないから…



つまり、私の役目は終わった。いや、元々タオルと救急箱を運ぶくらいの役目しか果たしてないのだけど。


素直にお言葉に甘えて退部した。私は友達まで失望させてしまったようだ。クラスが離れてなおこうして気にかけてくれるのは弱者を放っておけない砂雪の優しさ故だろう。


若菜は無事志望校に合格した。田舎とは言え一応首都圏であることから東京まで通学。片道2時間、我が妹ながら見上げた根性だ。上昇志向のあの子にきっとゴールなどない。受かったら受かったでまた次の目標へと進んでいく。表情もますます可愛げのない仏頂面になっているが、感情を荒立てるようなことはほぼ見られないくらいレアなものとなった。父の部屋を取り上げてあの子の部屋にしたのが良かったのか。弱気故に言い返せなかった父にはドンマイとしか言いようがない。


つまるところ、変わらないのは私と母くらい…そう思っていた。この後、一瞬で覆されるとも知らず。



「ねぇ、浅葱。ちょっと話聞けるかい?そのままでいいから…」



突然改まった母に何事かと思った。続いた言葉に私は驚愕を隠せなかった。




え…



私が卒業したら引っ越すって…?




何でまた急に?この家どうすんの?聞きたいことが山々な中、まず一つ問いかけてみる。



「何処に?」


「柏(※1)」


「だからそれ、何処?」



「…母さんの地元、だよ」



私は唖然とした。いやいやいや…と内心の私がかぶりを振る。


母の地元?いや無理でしょ、とすぐに否定が浮かぶ。だってこの女には地元に帰れない事情があるはずなのだから、と。



「アンタは本当に地理を知らないんだねぇ。安心しな、この家は売ってアパート暮らしになるけれど、東京に近いベッドタウンだ。若菜の学校からも遠くないどころかむしろ通いやすくなるしあの子も賛成してるんだよ。あたしの実家は農家だから食料の工面もしてもらえる」



利便性は悪くない、とでも主張したいのだろうか。しかしこちらからしたらそんな問題ではない。母の地元がベッドタウンだろうが農家のコネがあろうが、私が地理にうとかろうが、たった今耳にしたばかりの見知らぬ地だ。しかも若菜はもう了承済みって?勝手に話を進めないでもらいたい。喜んで、などと言えるはずがない。


それから遅れてのことだった。ふと一つの可能性が脳裏をよぎったのは。


私は尋ねた。




「もしかして…私のせい?」




一瞬で固まった母の顔が肯定を示しているみたいで、怖い。


「そう、なんだね?私免許取れないもんね?これじゃあ…」



前々から知っていたことだった。栄えた街まであまりに時間がかかり過ぎる、バスだって一時間おきどころか一日に片手で収まる程度しか走らないこの地で自動車免許を持たずに生活していくのは厳しい、と。


クラスメイト達は皆、3年の春休みに合宿で免許を取ると言う。私も考えてはみた。だけど猛反対されたのだ、狐みたいに目を吊り上げたこの女に。



しばらく黙っていた母がやっと動き出した。後ろ手に持っていたものをゴソゴソと。


有無を言わせないかのような今の話の流れから当然アパートの物件やら地図やらかと思っていた。だけど違った。


母が黙って突き出してきた薄い冊子に視線を落として、止まった。え…と思わず呟いてしまう。



「こういうとこ、行きたいんだろ?あたしの母校なんだけどさ、ここなら柏から電車一本で行けるんだ」



しばらく動くことができなかった。同じたぐいのものがこの部屋の勉強机の引き出しにしまってあることを私は知っている。ただ全く同じものはなかったことから盗み出した線は消えるのだ。


勝手に見られた可能性も捨てがたいが、いずれにしろある程度前から知っていたことになる。一体いつから?こんな元ヤマンバでもやはり母親ということなのか。




アンタには好きに生きてほしいんだよ…


好きな学校に行って、好きな職場で働いて、好きな人と……




薄く笑い、ぽつりぽつりと語っていた母の口調がここで止まった。すっと真剣な顔に戻って私を真っ直ぐと見てくる。そしてこんなことを言う。




「アンタは駆け落ちなんかするんじゃないよ!母さんだってさすがに若気の至りだったって反省してんだから」




それ…若気の至りの産物に言うことか?普段なら突っ込んだところかも知れないが今はさすがに無理だ。そんなに頭の回転も早くなければ切り替えだって早くない。どちらかというとむしろ、遅い。



一日の半分程度しか、こっちの世界こっちにいないから。




オレンジに染まっていく部屋の中、しばらくぼんやりベッドに横たわっていた。頭こそ打っていないもののやはり横倒しになっただけあって右半身のところどころが痛い。母が着せてくれたのであろうパジャマのズボンの裾をまくると現れる青アザ…勘弁してほしい。



浅葱っ!!



入るよの合図も何もなしにガチャ!と開いたドアへ顔を上げた。



「砂雪…」



一体どんだけ走ってきたのだろう、涼しい時期なのに額に汗を滲ませた彼女が大丈夫!?と言いながら足早に向かってくる。


ここまでしてくれるんだ、やっぱり…


思って私は視線を落とす。


彼女が傍に腰を下ろしたところで顔を上げた。彼女の不安と自身のもやもやを振り払うみたいにカラッと笑ってみせた。




ーーねぇ、砂雪。



私はいよいよ切り出した。



「うち、卒業したら引っ越すんだって。さっき聞いたばかりだけど…」


「マジで!?ど、何処に?」


「カシワ?」


「えーっ!凄い凄い、いいなぁ!東京まで近いじゃん!!」



砂雪は身を乗り出して興奮している。頬を染め丸くしたつり目を輝かせながら。東京に近いというのはそんなにいいものなのか?いざ住んでみれば案外実感できるものなのだろうか?


いずれにしても私は砂雪が羨ましかった。見知らぬ土地への移住をこんな風に受け止められるとは何と前向きなのだろうと。


私はまだわからない。わからないから、怖い。唯一の救いは好きな道を選ぶことが許されるということ。それだけあれば十分なのかな?私がネガティブ過ぎるのかな?



それから大体一時間くらい砂雪と喋っていた。とりとめのない話、好きなブランドの話、将来の夢の話…煌びやかなそれは出しても出しても次から次へと沸いてきて尽きないくらい。



砂雪、そろそろ戻らないと…


2年最後の大会、絶対に勝つんでしょ?



私から促した。砂雪の満面の笑みがわずかばかり薄れて見えた。



「ちゃんとおばさんに挨拶して帰るから、浅葱は大人しく寝てな」


姉御肌らしい口調を残してドアへと歩き出した砂雪。開いた隙間から完全にフェードアウトする前に、彼女は一度振り返った。それからぽつりと言った。



「引っ越してもまた…会ってくれる?浅葱」



寂しげな薄い笑顔。この頃愛用しているリストバンドを落ち着きなくいじっている。ズキ、と胸が痛んでしまう。原因は二つ。



一つは砂雪のその表情、もう一つは一年前のあの傷心。



大会前の貴重な時間を割いて汗だくになって駆け付けてくれたような子。彼女がまさかそんなこと…



薄々気付いてはいた。川崎はきっと砂雪に惹かれているんじゃないかって。だから実らないことも想定していたんだ。覚悟できたんだ。



だけどもし、もしもそれが川崎の一方通行などではなかったら?ちゃんと二つの道が通じていたとしたら…?何度か考えてしまったこと。



大切にしまっておきたかった秘め事は何処からか広がってしまった。その原因を私は未だに知らない。知りたくもないとヤケになって逃げた。脳裏をよぎった可能性が怖かったのかも知れない。




だけど…



私は一人胸の内で決めた。もう考えるのはよそうと。決して目をそむけている訳ではない、そう自分に言い聞かせてみながら。



収まらない痛みを孕んだ細い胸に、信じろと命じた。





※1)千葉県柏市・・・千葉県の北西部に位置する自治体。都内への通勤、通学者(いわゆる千葉都民)が多く住まう東京のベッドタウンである。隣の松戸市とはライバルであるとの噂があるが著者が見たところあくまでネタではないかと思われる。『千葉の渋谷』『ウラカシ』とも称されることがあり、茨城寄りの千葉&千葉寄りの茨城(通称チバラキ)の若者の姿が目立つ。その一方で歴史の名残り感じさせる街並みやのどかな公園、畑、隣接する我孫子市あびこしとの境で手賀沼てがぬまも望める。手賀沼で行われる花火大会と駅前を大々的に使う祭では隣接する市民を含む多くの人が集まり賑わいを見せる。新旧の入り混じった趣深い街である。

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