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Hypersomnia〜幻想と現実の旅人〜  作者: 七瀬渚
★高校世界★
20/57

十の夢

はっ、と顔を上げた。いつからだったのかもう目の前で稽古が始まっている。流血でお馴染みの田中先輩がこちらに気付いて、あ、と声を上げる。


「おはよう瀬長ちゃん!ぐっすり眠ってたねぇ、育ち盛りかい?」


からかうような口調に周りからも笑い声が上がる。私はへへ、と照れ笑いをこぼした。これだから道場ここはなかなか居心地がいい。


理由なら明白だ。まず10にも満たない程部員が少なく砂雪以外はみんな男子。全ての武道家がそうかは知らないが少なくともここの部員は弱い者イジメが嫌いだ。そして校風の影響もあってかいい具合にいい加減だ。


マネージャーに部員と同じだけのスポーツマンシップを求めたりはしないし、みんなでお菓子を食べながら大会に赴く姿は他校から“ピクニック部”と皮肉られる程。そしてもちろん誰も気にしていない。


自分で言うのも何だか16歳を迎えるくらい時が経った今、私はマスコットキャラと化していた。とりあえずタオルと救急箱と共に道場の隅に居ればいいそうだ。すぐに眠りに落ちる姿に最初は罵声を飛ばしていた先輩も今では何も言わずほっといていてくれる。



…とまぁ、最後のほうに関しては冗談。何も言わないというのはすなわち見放した、そんなところだろう。ただとりあえず在籍していれば弱小な部の貴重な人員となる。だから退部の二文字は絶対に口にしないんだ。


砂雪の強硬手段によって無理矢理入部させられたあとの二人も、こんなつもりじゃなかったなどと嘆いてわずか3ヶ月程度で辞めてしまった。どう見ても文化系だった名も知らない二人、無理もないだろう。私だって砂雪と川崎がいなければとっくに逃げ出していると断言できる。


そう、いつも帰路を共にするこの二人がいる限りはここに残るのも悪くないと思っていた。




ーー運命の分かれ道となってしまった、あの時が来るまでは。





川崎が転校してしまう。そう聞いた。くすぶっている想いはまだ伝えられていない。


何度となく二の足を踏んでもう何度目かもわからない頃に私は砂雪に相談した。意外そうに目を大きく見開いた彼女は興奮気味に詰め寄って言った。



言わなきゃ駄目だよ、浅葱!


川崎、あと一週間で行っちゃうんだから…!



迫るタイムリミット。呼び出して直接言うのが何よりもベストだと力説する砂雪に私も一度は同意の頷きを示した。



だけど、いざとなるとなかなか難しいものだ。少女漫画でもドラマでも私と同じくらいの年頃の子が勇気を出して告白しているというのに私ときたら何だ。不甲斐なさ過ぎてうんざりしてしまう。



今日も呼び出すことが出来なかった。砂雪が気を効かせて先に帰った今、私は部室に一人。隣の男子部室に居る川崎も帰宅の準備を終えて出てくる頃だろう。


二人きりの帰り道で告げる…それしか方法は残されていないけれど、もう、できる気がしない。


深いため息と共に部室を出たとき、はた、と鉢合わせた。田中先輩だった。



「川崎待ち?アイツなら担任に呼び出されて教室に戻ったよ」



日直忘れてたんだってさ。


今頃説教されてるぜ?



はは…と続く豪快な笑い声を受けながら私は思い立ってしまった。




これが最後のチャンスだと。




きっと不思議そうな顔をしていたであろう田中先輩を置き去りに私は部室に引き返した。タイミングのいいことに先週砂雪とお揃いで買ったレターセットがまだ置いたままになっている。ペンを取り出して書き綴った。決して口には出せなかった二文字だけがやけに不格好に歪んでしまったが時間がないのだからやむを得ない。


外から昇降口に回り込んであたふたと川崎のクラスの下駄箱を探した。そしてやっと見つけた彼の苗字。慎重に辺りを見回しつつ、恐る恐るそこを開いてみる。


現れたものに私は心底安堵の息を吐いた。まだ靴が残ってる。私の倍はあるんじゃないかという程大きな靴が。


これが遠くに行ってしまうんだ。彼を遠くに運んで行ってしまうんだ。



そう思うなりじん、と鼻の奥から上へ突き上げる。こぼれる前にと私は封筒を奥へ突っ込んだ。それから夢中で外へ走った。



初めての試み、初めての告白。



初めての、恋。




その割にはよくやったよ。よく頑張ったよ、私…!後は野となれ山となれ。例え実らなくたって後悔はしないだろう。悲しくてちょっぴり泣くんだろうけど。



秋風と共に後ろへ流されていく赤の田園風景。カエルの合唱を聞きながら何処か清々しい気分だった。今なら空も飛べる…よく聞くお馴染みのフレーズはまさにこんな気分ではないだろうかと思って少し笑いをこぼしていた。



私は忘れていた。



こっちの世界はあっち以上に融通が効かず、無情なものであると。





翌日の授業の後、少し恐々としながら部室を訪れた私はすぐに気が付いた。集まる視線、空気の異変に。



何故かオドオドとした様子の川崎と何か言いたげな砂雪。



その後ろにニヤニヤと薄ら笑いを浮かべた先輩たち。




近くを通った田中先輩がずしっ、と大きな手を私の肩に乗せた。そしてこそっと耳元で…




「元気出しなよ、瀬長ちゃん」



よく頑張った。うん、うん、と呟き頷いている。優しげな笑みの中から垣間見えた好奇、そして、哀れみ。




気が付くと私は身をひるがえしていた。



待って、浅葱!


あれは…っ!



砂雪の焦燥した声が届いてはいたけれど振り返るなんてできるはずもない。薄暗い廊下を駆け抜けまだ明るい校舎の外へ飛び出した。白い校門前のタイルが反射して、眩しい。



じん、と染みて溢れ出してくる。頬を伝っていく。



違う、違うよ、これは。眩しいだけだよ、太陽のせいだよ。


自分に言い聞かせる差中でついには鼻からもそれは漏れ出した。こんなこともあるよ、眩しくて鼻水が出ることくらい…聞いたこと、ないけど。


無理矢理な言い訳。無意味だってもちろんわかり切っていた。迷子の子どもみたいに片腕に涙をなすり付けるくらいしか為す術もない私はただ内心でこぼすだけ。田中先輩の一言がうざったいくらい脳裏で反響する。




ーー元気出しなよ、瀬長ちゃんーー





何、元気って…フラれたってこと?


ううん、それならそれでいいんだ。覚悟はしてたんだ。だけど、こんな覚悟は用意してきてないよ。こんな仕打ちなんて…




酷いよ、何でだよ、川崎。



振るなら振ってもいいけどさ、それはアンタの自由だけどさ、何で言いふらすんだよ。


一世一代の勝負に臨んだ私の気持ちはどうなるんだよ…!!




秋晴れの空。初夏にも似た眩い陽気で照らし出すそれを睨みたくなった。もういっそ日が沈んでしまえばいいのにって。



バッグから取り出したイヤホンをスマートフォンに捻じ込んだ。景色は畑から田園へ移り変わっていく。車の一つも通らない道のりで指先を動かして探した。



やがて流れ出したメロディ。とことんセンチメンタルな今話題の泣ける曲。なのに何故か笑えてきてしまう。



なぁにが“泣ける~”だよ。



身を持って体験してしまった今、そうシナリオ通りにはいかないのだと知った。


ここに綺麗な夕焼けでもあれば、そして緑の両生類の合唱などなければ…“泣けた”かも知れないね、と。



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