三つ夢
ーーどんよりと重く垂れ込めた灰色の波…いや雲か、と思い直して身体を起こした。地平線すら曖昧な程ひたすらに続く芝生の地、じっとりと湿ったそこにいつの間にか寝そべっていたことに気付いた。
一体いつからこんな暗雲に包まれていたのだろう。ついさっきまで涼しくもカラッと通る夏の陽気だったというのに、今や遥か遠くがゴロゴロと低く唸ってさえいる。こんなの天気予報にはなかったと渋く眉を寄せる。そのとき背後に何かを感じた。
私が振り返るなり時が、止まった。いや、私の息遣いが止まったのだと気付くまでしばらくの時間を要した。
ゆっくりと向かい来る一つのシルエットを前にして。
ーーああ、アンタかーー
放たれる声に覚えがある。声だけじゃない、馴れ馴れしいその口調も、すらりとそびえる背の高さも、嘲笑うようなふてぶてしい上からな目つきも…
なっ…
ナルシスト…!!
ーーあ?ーー
私の中ではもはや定着化していた名称に彼が訝しげな反応を示した。やがて理解したように憮然とした表情へと移行する。不服、といったところか。
ーーアンタは随分と変わったな。最初、誰だかわからなかったぜーー
ーーなぁ、アサギーー
コイツいつの間に私の名を知った?と薄気味悪く思いながらも返してやる。皮肉を存分に込めて。
アンタは変わらないね。
その一言で十分だ。変わらずナルシスト、変わらず上から目線、変わらず青白く黙ってりゃ人形みたく綺麗、なのに相変わらずふてぶてしい。コイツにそこまで察する能力があるかはわからないが。
今はっきりと思い出した【ナルシストヴァンパイア】がおや?と意味深な呟きと共に真近から見下ろしてくる。そしてこんなことを言う。
ーーいくらか言葉遣いがお上品になったようだな?ーー
ここは前から控えめだがな、と続けて私のちょうど顔の下あたりを眺めて鼻を鳴らす。ほっとけ。多分一年と半年ぶりくらいの再会なのに感動もムードもあったものではない。今度はこちらが憮然となって言う。
で、何か用?
こんな平野で私の平野を拝みに来たって訳?
もはやヤケだった。馬鹿にしたけりゃ気が済むまでしろ、と内心で吐き捨てて顔を背けた。そこへ再び低く沈んだ声がした。
ーーアンタさ、さっき俺のこと何て言った?ーー
ふざけてなどいないとわかる平坦な口調にぞくり、と寒気が走って一瞬固まってしまう。それでもここで振り返るのは何だか負けた気がするからそのままで答えてやる。
…ナルシスト。
ーー俺はちゃんと名前で呼んでるんだ、アサギってな。アンタもちゃんと、呼べーー
アンタの名前、知らないし。
ーーじゃあ付けろよ、アンタがーー
私はついに眉をひそめて振り返った。この男、何を言う?そう思って見上げたはずなのに上から捩じ伏せるような威圧的な眼差しに不覚にも何かないか、と考えてしまう。
そして一つ、導きだしたもの…
【レオ】
ごく自然に、口にしていた。鋭かった双眼が驚いたように見開かれ、そこへいくつかの光が満ちていった。
レオ、か。彼は繰り返した。そして言った。相変わらずキメた顔ながらも嬉しそうに。
ーー勇敢なる獅子の御霊を継ぐ俺にふさわしい…気に入ったぞーー
すっかり満足気な様子で長めの髪をファサ、と掻き上げている。
お気に召して何よりだ。そして単に一人称の【俺】を逆さにしただけだという事実は伏せておこうと思った。
こんなナルシスト相手でもそれくらいの気遣いくらい私にだってある、と一人笑みをこぼしながら、ゆっくり彼もろとも灰色の景色から遠ざかった。




