二つ夢
浅葱!
浅葱っ!
起きろ、遅刻すんぞ!!
バサッ
突如、それまで柔らかく包んでくれていた温かさが奪われる。私は無意識のうちにそれを追いかけすがりつく。
「ったく、いい加減にしろよ!もう高校生だろ!」
相変わらず柄の悪い罵声なんかを飛ばす母の手によってついに愛しき布団の君が掻っ攫われてしまった。泥棒猫に奪われたがごとく私は恨めしさを存分に込めて睨み上げる。母もまた鋭い目つきで見下ろしてくる。受けて立とう、そんな顔で。私はだるいため息をついた。ついに面倒臭くなって身体を起こした。
階段を降りてリビングに向かう。すでにそこに居る二人の姿。
「おお、浅葱。やっと起きたか」
湯気の立つマグカップに口をつけながら、相変わらずだな、と笑い混じりに呟いている。ピリピリした空気が全体を占める中、呑気に一人だけ動じない中年の男。
歳の為などではなく元から垂れた目尻、幸薄そうな小さい口、血の気の乏しい白い肌、撫で肩に合わないスーツの肩が浮いている。へらっとしていて締まりがない、いつも苦笑したような顔をしている優男。紹介しよう、私の父親だ。
対して向かい合う妹・若菜はちょうど食事を終えたばかりのよう。最近じゃ更に生意気に小さな身体で大きな新聞を占領している。本人は才女を気取っているつもりなのだろうが、年々渋くなっていく表情、眉間に皺まで刻んでいるその姿は少なくとも私にはおっさん化しているようにしか見えない。ご苦労さんとしか言いようがない。
のそのそとカーペットに腰を下ろす私の側でやがて話し始めた父と妹。
「若菜、顔色が悪くないか?」
「…寝不足」
「勉強のし過ぎじゃないのかぁ?肌も一番綺麗な時期なのにもったいないぞ」
「…行ってくる」
すっと若菜が立ち上がった。私は固まった。父は…呑気に笑っている。今、この場に居る中で気付かなかったのはきっとこいつだけだろう。
一瞬こちらに向けられた、視線。何処か憮然とした様子の若菜の放ったそれの冷たさに。
すっかり冷めて固くなったパンを私はかじった。居心地は悪くとも仕方ないと思った。
私は高ー。成績に波が有り過ぎる為に推薦は受けられず、予定通りアンパイの公立高校を一般入試で受けた。なんのことはない。想定内と言える流れだった。
対して年子の若菜は中三。いよいよ本格的に受験生という訳だ。変わらず学年トップの座は譲らず生徒会長を務める傍ら、あの中学ではほんのひと握り…いや、ひと摘み程度しか受からないと言われる難関の私立高校受験の準備を着々と進めている。
法律を学んで将来は検事になると言い切っている。我が妹ながら実に賢い。この子ならやってのけるんじゃないかとさえ思う。しかしそれはあくまでも私の主観でしかない。当人にとってはきっとそれどころではない、余裕をかましている暇などないのだ。ちょっとしたことに落ち込んだり気が立つのも無理はないだろう。
大して咀嚼もしていないパンを飲み下した私はすっくと立ち上がってその場を後にする。追ってくる相変わらず呑気な父の声を無視して二階の部屋へと向かう。スープいらんのかぁ?などと言っていたようだがこちらにそんな余裕はなかった。
特に寝坊したという訳でもない。だけど今や私に残された時間はカツカツだ。両の耳たぶに一つずつ、左の軟骨部分に一つとピアスを装着。お気に入りのネックレスも抜かりなく、鎖骨下まで伸ばした髪も巻かなければならない。
短いスカートの下にハーフパンツは必須アイテムだ。シャツにリボンは付けるが締め過ぎず抜け感を出すのがポイント。ほらこんなにも大忙し。この装いを覚えてから3ヶ月、ある程度慣れたとは言え、完成させるまでに一体どれ程の時間を要すると思う?
予定通りに仕上がった自分を姿見で眺めて私はふん、と一つ鼻息を鳴らした。そう、これこそが今私が身を置く学び舎…という名の何かで浮かず離れずいい具合に馴染む装いなのだ。
支度を終えていよいよ出発しようと階段を下り切ったところで母と出くわした。訝しげな顔で毎度のようにこんなことを言ってくる。
「アンタもチャラくなったもんだねぇ」
いや、かつてのアンタ程じゃないだろうと言いたくなる。何せこの女はいつか見た凄まじきギャルにも劣らない凄まじきヤマンバだったのだから、と。
突っ込みたい気持ちなどとっくのとうに薄れている。気を付けて行くんだよー!毎日まじないのようにかけてくる言葉を背に私は玄関の戸を開け放った。
ふわ、と風を受けた。7月にしては軽やかで涼しい風。
この場所から受けるこれもあのときよりかは心地良く感じられるようになった、そんなことを思いながらまだ傷の少ないローファーで踏み出した。




