十の夢
霞んだ目をこすりながら私は慣れた足取りで階段を降りた。トントン、とリズミカルな音を刻む、朝。
「おはよ、浅葱」
キッチンに向かう母が背中ごしに言う。今日は遅番だからこれでカレー作って、と包丁を持つ手を動かしながら。遅番のときはいつもこうして具材だけ切っておいてくれる。ただしカレーならばじゃがいもだけは別だ。長時間置いておけば水につけたって赤くなってしまう。そこは私が剥くしかない。正直、面倒臭い。
たまには若葉にやらせたいものだがそうもいかない。あの子は一年でありながらすでに受験勉強に勤しんでいる。目標が高く、何にしても取りかかりが早いのは昔から変わらない。
「パン焼いてあるよ、食べな」
母が促す。私はのそのそと目と鼻の先であるリビングに向かう。
「もう出たの?おとんと若葉」
「とっくにだよ」
「早くね?」
「アンタが遅いだけ」
いくつか会話を交わし、口に含んだパンを咀嚼して、気付いた。だいぶ後だった。
時計に目を止めた、私の顔から血の気が失せていく。
「ちょっ…!あと15分しかないじゃん!起こせよ!」
叫んだ拍子にパンの欠片が口から飛び出した。下品、でも気にしている余裕などない。しょうがないなぁ~、だるそうな声と共にあのガサツな生活音の元凶が近付いてくる。そして私の真後ろでドカッと音を立てて座る。
「そのまま食ってな。髪を結ってやる」
今日は特別だよ、と恩着せがましく言いながら荒々しく髪を引っ掴む。痛い。
もくもくと無心でパンをかじる。その途中で声がした。すぐ後ろから。
ーーねぇ、浅葱。
遠くにいってみたいって、思う?
ここよりもっと広い場所に出たい、とか…
急に何を言うんだ、不思議に思った。別に…私は答えた。
「特にそういうの、ないよ。高校だってもう決めてある。推薦は無理だろうけど、私程度でも行けそうなアンパイなところが案外近くにあるから、さ」
引っ張られていた後ろ髪が解放される頃、私はすぐに立ち上がって着替えを始めた。行ってきます!一方的に言い放って家を飛び出した。行ってらっしゃい…遠くから小さくこぼした母を振り返ろうともしなかった。
学校に着いて一限目の授業、国語。
「期末テストを返すぞー」
すっかり忘れていたことが田辺のシワシワの口から放たれた。えーっ!という不満の声が周囲を締める。私は案外、落ち着いていた。
答案を渡す田辺の表情は憮然としていた。見えた赤文字の点数を見て私もすぐに理解した。
普段の授業態度、それに見合わないこの結果。納得がいかないのだろう、と。
再開された授業の冒頭から私はまたあっちの世界へ行った。今日は誰にも合わなかった。妖精の女の子にも、居所不明の男の子とその母親にも、そしてあのナルシストヴァンパイアにも。
ただ人っ子一人居ない広大な芝生の地を駆け回っているだけだった私。すごく疲れた。こんなのはもうごめんだと思いながらまた帰ってきた。
終わったばかり授業。伏せた机から半身を起こした。下敷きにしていた答案がしばらく顔に張り付いてから落ちた。また涎にまみれているらしい。汚い。
ちょっ、きったなーい!
私が思ったのと同じことを誰かが叫んだ。虚ろな目のままそちらを見た。
ってかさぁ、顔にインク付いてんじゃん!
超ウケるー!
瀬長、余裕だったもんね~
さぞかし点数もいいんでしょ?
ちょっと見せなよ~
うざったい笑い声なんかを上げながら数人がヅカヅカと近付いてきた。さも面白そうに見下ろしたそいつらの表情が一瞬にして、固まった。
え…
98点って…
嘘、一問しか落としてないってこと?
あり得ないでしょ。
だっていつも…
あり得ない、確かに私もそう思う。だけどこれが現実だ。これが昔からなのだ。
解けてしまうのだ、国語だけは。文法だの何だのとか、動詞、形容詞、形容動詞とか、意識していなくても自然と流れ込んで消化できてしまう。何をしている?と問われればこう答えるだけ。ただ感情移入しているだけだ、と。
おかしいよ、こんなの。
実はガリ勉?
いや、ないでしょ。
カンニングでもしてんじゃねぇの?
心外だ。そんなに疑うのなら三年の中間テストのとき、この身ぐるみを剥がして見てみろ。山も谷もないただ貧相な身体が現れるだけ。いろんな意味でご期待には添えないだろうが、残念ながら本当に、それだけだ。
私が一人思っていると常に遠巻きだった奴らの一人がついに感情に支配された一言を放った。
「たった一教科得意だからって、いい気になってんじゃねぇぞ。」
居眠り魔のくせに…!!
ザワザワと遠ざかっていく数人の影と、ザワザワ騒ぐ私の胸。怒りでも悲しみでもない、ただ不快としか言えないものが内側から這って埋め尽くしていく。
安心しなよ。私はこの学校の生徒のほとんどが行かないだろう場所に行く。
こんな思いをするのも残すところ、あと一年。すぐに忘れるよ、アンタらも、私も。
サボってる?居眠り魔?
何言ってんの?何を、知ってるの?私はこんなに疲れ果てているのに。
ねぇ…
ふと目を閉じた。瞼の裏に浮かんだあの、花園。
そこに未だ寂しげに佇んでいる記憶に新しい姿。ピンクの髪の女の子の背中に私は問いかけた。
私…
本当にそっちに居ちゃ、駄目なの?と。




