scene5 ― 桐谷アキト ― 殺意・葛藤・苦悶
テニスコートが 3つ並び
その周りを高いネットで囲まれた第1運動場は
主にテニス部が使用するところで、
テニス部の部室が完備されている。
そこに 2年生で能力に目覚めて間もない仲間
若林モモが眠らされていた。
モモを慕う アキトだからこそ
モモの事を任されたはずだった。
だが、アキトは自分の能力を使おうとしなかった。
モモの番人で、ハートマークの道化師少年との
戦闘が始まって数十分が経過していた。
第1運動場の地面は
爆発があったような破壊された穴や
黒く焦げた跡などで埋め尽くされていた。
アキトは 能力使わずにいるので
道化師少年の攻撃に対して防戦一方。
攻撃を避け続けて 体力を消耗し荒い息を立てていた。
冬の寒さに関わらず、アキトの顔からは
汗が流れ落ちる。
『いい加減にしてよね。「普通の人」に用事はないんだから』
ハートマークの道化師少年が
つまらなそうにアキトに向かって言った。
それでもアキトは 別人格へ替わる素振りを見せなかった。
アキトの右手がブルッと震える。
「桐谷君ッ!!!」
「!?」
第1運動場のネットの外から
トールの声がして、アキトが振り向いた。
トールはネットをくぐって アキトの元へ駆けつけた。
同時に道化師少年の姿や動きにも警戒した。
「樋村………」
「桐谷君、どうしたの!?」
トールは アキトが別人格に替わらず
戦っている事に疑問を投げかけた。
「………ッ」
アキトは苦悶の表情を浮かべた。
トールは道化師少年の仕業かと思い道化師少年を見た。
『やだなぁ。ボクは何もしてないよ』
道化師少年は 両手を肩の高さに上げて
ふんっと ため息をついた。
嘘はついていないように見える。
『2対1でもいいよ?』
余裕の顔を見せる少年を見て
何も仕掛けてこないのを感じたトールは
アキトに視線を戻した。
「……樋村……ダメなんだ、このままじゃ……」
「な、……なにが?」
トールはアキトが言いたい事をまだ把握できなかった。
「若林先輩に見られるのを心配してるの?」
「違う」
アキトの右手の震えが 強まっていた。
「今……アイツに入れ替わったら……
元に戻れないかもしれない」
「え!?」
「俺が……俺が『殺したい』って思ってるから……」
「!?」
アキトは平然と「殺したい」と言った。
それは、冗談や 勢いで言い放つ言葉とは違う。
アキトは本気で そう思っていた。
トールの心に重たい空気が のし掛かる。
トールはアキトの目を見て落ち着けようとした。
「桐谷君……あれは思念体だから
命を奪うような事には繋がらないよ。
普段みたいに戦えば………」
「違う!そうじゃないんだ!!」
「えっ」
「『殺したい』って思いがアイツに主導権を与えちまうんだ!
俺の感情が治まらないまま入れ替わって意識の中に眠らされたら
俺は戻れないかもしれないんだよッ!!!」
アキトは、別人格に体を譲る時
意識の中に入る前に 別人格に釘を刺す。
主人格だからこそ 命令が別人格に効いていた。
相手を斬ったり、傷付けるのは止められなくても
それ以上の線は越えられないようにさせることができた。
ところが、今のアキトは
モモを人質に捕られた事で 怒りが抑えられず
心の底から道化師少年を『殺したい』と思ってしまった。
それは、たとえ別人格に『殺すな』と命令しても
うわべの言葉にしか聞き入られず
しかも別人格の本能を叶えてしまうことで
主導権を与えてしまう。
そうなれば今のアキトは意識の中に
閉じ込められてしまい
主導権が逆転してしまう可能性が高い。
これが、アキトが能力を使えなかった理由だった。
「気を失うか、俺がアイツを引き戻せば元に戻れてたんだ……
けど、今の状態じゃ……アイツに乗っ取られちまう」
アキトが 右手の震えを左手で抑えていた。
別人格が 主人格のアキトの『殺意』に共鳴していて
人格を入れ替えていないのに
右手が勝手に動き始めようとしていた。
「助けなきゃ……助けたいんだ……!!
なのに邪魔なんだよッ!もう一人の俺が!!」
アキトが 取り乱し始めた。
トールは初めて見る アキトの動揺に戸惑う。
『戦えないなら下がりなよ』
道化師少年の言葉が 聞こえた途端、
閃光と共に トールとアキトは
突然「突風」に襲われて吹き飛ばされた。
地面を転がったトールは
顔を上げて道化師少年の方を見た。
少年の手には 長さ30センチほどの
長い棒を握っているように見える。
あれが「突風」を起こしたのか。
トールは立ち上がって右手の裾を捲った。
「僕が戦う」
右手の震えを地面に押さえつけ
苦しそうな表情で地面から起き上がれないアキトを
守るかのように トールは構えた。