第一章『君と会うために』《フローラの気持ちは》
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ついに開店時間を迎えたブロード・ホームズ・ベーカリーは大忙しだった。
さすがはこの街の人気店なだけあって、人の出入りはとても激しく、接客に追われている。
とは言っても、まだお仕事一日目の俺は接客は行なわず、裏でパンを運ぶ仕事を任された。要するに品出しだ。焼き上がったパンをかまどから出し、それを店頭のバスケットの中に綺麗に入れて並べる。
フェリスはこれを今までは一人で接客と品出しとを両立していた。これに俺はとんでもねぇ事をしてたんだな、と感心してしまった。悔しいけどな。
でも、どうやって客をさばいていたのか気になって聞いてみたが、一度に店内に入れる人数を制限していたらしい。そうすれば、一人でも大量の客をさばくことができる、という事だ。
ただ、これは非常に客の回転率が悪い。
しかし今は一人ではなく二人。俺という頼もしい従業員が増えたことにより、一度に店内に入れる客を増加できたというわけ。
これにより、忙しさと引き換えにだが客の回転率が上がり、非常に早く売りさばくことができるはず。そして今まで以上に設けることができるというわけだ。ふ……我ながら役に立つ奴だぜまったく。
「ほらアルト! クロワッサンが焼き終わるから、かまどから出してすぐに品出しする! 焦げるからちゃんと見てよ!」
「へーへー、分かりましたよ店長!」
俺はかまどの側に駆け寄る。
機械式のタイマーはあるものの、その焼き加減までは均一にできない。だからこそ、人の目で判断しなくちゃいけない部分もある。これがとても大変で、一度フェリスから教わったものの、正直まだよく分からない。恐る恐るの作業となっちまってるのは不甲斐なくて申し訳なくなる。
お、今だ!!
俺は素早くかまどからクロワッサンを取り出す。焼きたてのパンの香りはなんとも言えない。とても美味しそうで、売り物だということを忘れて食べてしまいそうだ。
「お、焼き加減分かってきたじゃない。それじゃあ、さっさと品出ししてきて!」
「わーてるよ!!」
フェリスの指示が飛ぶ。でも、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。別に俺は指図される事が好きなわけじゃない。むしろ上から物を言われると物凄い不機嫌になるような人間だと思う。
でも、俺は楽しく感じている。
決して女の子に指図される事に快感を得るような変態なわけではなく、そこがとても暖かく感じるから、居心地がよい場所であるから楽しく感じるのだと思う。
今まで感じたことのない感覚だった。
同じ“忙しい”でも、ここではそれが充実していると感じられる。
同じ“怒られる”でも、ここではそれが愛情だと感じられる。
ここではギスギスした上司部下、先輩後輩の関係もない。一人の人として扱ってくれるのは、フェリスの人間性がとても良いからだと思う。悔しいが。
こうやって、仕事を通して彼女を見ていると、本当にとてもいい人だと分かる。普段は皮肉たっぷりな言葉や煽りでしかない言葉を吐くような人だが、あれも彼女の個性だと思えば本当にできた人間だ。
「アルト! 次はバターロールお願いね」
「はいはい、任せてくだせーフェリス様」
パンがどんどん売れていく。需要に対して供給が足りなくなりそうな勢いだ。本当にここは凄いパン屋だと思う。
それから数十分後、長蛇の列もなくなっていた。
「ありがとうございましたー」
フェリスが最後の客を見送り、ついにピーク時の客をさばき切ることができたのだ。これでようやく落ち着く事ができる。
「お疲れーアルト。アンタはもう休んでいいわよ。もし、お腹が空いてたらどれかパン一つ持って行ってもいいし」
「いいのか? じゃあ、これにするわ」
手に取ったのはバターロール。今日、俺が初めて作ったパンだ。ちなみに俺が作ったパンもたくさん売れていて、気分が良かった。だから、こんな事を言ってしまったんだろう。
「あ、そうだ。あのさぁ、フェリス」
「何かしら?」
「お前の作ったパンは、その……ものすげー美味いよ。マジで。うん」
「え!? な、なんだそんなことぉ? 当たり前じゃない。だってこの街で一番のパン屋なんだから!」
まったく、こうやって仕事じゃなくなると急に嫌味ったらしい奴になる。俺が恥ずかしい思いを振り切って褒めたというのにこの通りだ。
しかし。
「でも、その、えっと、褒めてくれて、あ、ありがとう、ね!」
正直、何かの聞き間違いかと思った。
フェリスがそんな素直な反応をするわけがない。そういう前提を覆したのだ。
しかし、彼女の顔も真っ赤である。
「あれぇ? もしかして嬉しかったのかぁ?」
「うっさい! さっさと休憩入りなさいよ! まったく、なんでそんな急に優しくなんのよ……。アンタ、悪そうな顔してるし、素直じゃないし、全然そんな奴じゃないと思ったのに」
何かがおかしい。彼女の様子がおかしい。
いつもはここで嫌味ったらしくするか、煽ってくるはずなのに、彼女は急にしおらしくなった。
やはり、褒められたのがそんなに嬉しかったのだろうか?
俺も急に凄い恥ずかしくなって、逃げるように階段へと駆ける。
「え、えっとぉ……きゅ、休憩してくる」
「うん、いってらっしゃい……」
物凄い勢いで休憩のために階段ですっ転びそうになりながら二階に上り、フローラの部屋にお邪魔する。
「どうしましたか? 何か焦っているみたいですけど」
「いや、その、フェリスのことなんだが」
「お姉ちゃんが何か?」
歩斗は先ほどのことを話す。
フェリスの様子が何だかおかしいのだ。彼女の性格からして、あんなに恥ずかしがるのが不思議でたまらない。俺が知っている限りでは、褒めたところで軽くあしらわれて終わるはずなのに。
それを聞いたフローラは笑顔になりながら言った。
「お姉ちゃんは素直じゃないんです。だからいつも皮肉めいたこと言ったり、相手を煽ったりするんですよ。でも、お姉ちゃんが素直に受け取ったってことは、アルトさん、あなたはお姉ちゃんに気に入られていると思います」
「えっと、つまりそれって……」
「はい。好き、だとははっきり言えませんけど脈アリのような気がします」
俺は言葉を失った。
こんなことは初めてだ。こんな、女の子に気に入られるなんてことは初めての経験で、実感もないし、どうしていいかも分からない。
「お、俺はどうすりゃ良いんだ!?」
「とりあえず様子見でいいんじゃないですか? まだ出会って一日ですし……そういえば、まだ一日しか経ってないんですね。もっと前からアルトさんとは会ってる気がします」
「そうか? 俺はそんな感じはしないけどな」
「私はそう感じてますよ? アルトさんが、ここに来る前からずっと」
「ふーん。そんなものなのか?」
「そういうものです!」
そのとき、俺の目に映ったフローラの表情はよく分からないものだった。笑顔のようで、でも不安そうで、悲しみも読み取れて。
その表情の意味が分からなかった。
ただ、俺ができる事は二つしかない。
「フローラ、何か困った事があれば俺に言えよ? 俺にできる事なら何でもしてやっからな!」
フローラとお話して、彼女の為に何かしてやるだけだ。
「え? 今、何でもするって言いましたよね?」
「おう、俺にできることならな」
「分かりました。それなら、色々とお願いしちゃいますね!」
今度は、フローラの満面の笑みがそこにあった。
先ほどの色々と混ざりあった表情ではなく、純粋な嬉しさから来る表情だ。
安心した。一つ屋根の下で暮らす者同士、協力して過ごしていきたいと思う。そして、彼女たちが悲しまないようにしてやりたい。そんな感情が俺の中に溢れ出てきた。
不良であった俺が、初めて誰かのために何かをしてやりたいと思った瞬間かもしれない。
この世界に来て、俺の中で何かが変化しつつある。
何も考えないで惰性で生きてきた俺が、初めて自分で何かを考え、そして実行に移そうとした。
だから、きっと先ほどの忙しい時間帯の仕事をやり遂げる事ができたのかもしれない。
そういう変化を与えた要因は何だ? この新しい環境のせいなのだろうか?
それとも――。
「あ、あの、アルトさん。その、おトイレに行きたいので、えっと……手を貸して頂けますか?」
「お、おう。任せとけ!」
身体が弱いフローラは、ベッドから出て立ち上がるのも一苦労だ。一人で立つことすらままならないので、肩を貸してあげないと彼女は歩き出す事ができない。
俺は恥ずかしさを振り切ってフローラが立ち上がるためにアシストしてやった。
なんだ? 軽い?
起伏のある女性らしい身体付きからは考えられないほどの軽さで、よく見ると腕などはとてもほっそりしていた。身体を密着させたからこそ分かる事だった。
だけど、俺はそれを口に出すことはなかった。いや、できなかった。本人も分かっているであろうことをわざわざ言うなんてことは。
肩を貸して一緒に歩き出すが、どうも身長差があり過ぎて上手く歩けなかった。
だから、じれったくなった俺はとっさに彼女の身を持ち上げてしまった。
「きゃ!?」
思わずフローラは驚きの声を上げ、目をパチクリさせる。
そして俺は、今の自分の行動に自分で驚き、ぎこちない口調で言い訳を始めてしまう。
「こ、こっちの方が楽だろ、な? よしフローラ、しっかり掴まれよ。いいな?」
「は、ハイ! よろしく、お、お願いします!」
それからお互いに黙り込んだまま、一階にあるトイレの前までやって来た。
彼女の身を降ろし、ドアを開けてあげる。
「あの、その、アルトさん……」
「なんだ?」
「恥ずかしいので離れててくださいね。あなたが女性のトイレの音を聞いて興奮する変態さんじゃない事を祈ります」
「お、俺はそんな変態じゃないから安心しろっつーの!」
逆に怪しく感じるほど焦りながら否定すした。
そんな俺を見たフローラはクスッと笑いながら、冗談ですよ、と言ってトイレのドアを閉めた。めっちゃ恥ずかしいんですけど、何これ。
「あらあらあら~? 随分と仲良くなったようねぇ。なに、そんなにフローラのことが気になってるのぉ?」
先ほどのしおらしさをどこに行ったのか、そんなことがなかったかのように振る舞うのはフェリスだった。すでにあの煽りたっぷりな言動が戻っている。
物凄いムカつく。さっきときめきかけた俺の気持ち返して!?
「うっせーな! フローラが身体弱いのはお前が一番分かってんだろ。俺はその手伝いをしてるだけだ」
「はいはい、分かってますよ~だ。まぁ、とりあえず、その、ありがとね。フローラもだいぶ助かってると思う。急にお兄ちゃんができたような気分なのかもね」
「そうなのか?」
「うん。あの子、昨日アンタが現れてから嬉しそうなんだもの。きっとね」
「なーに人の気持ち勝手に決めてんのお姉ちゃん」
トイレから出てきたフローラが、ジト目で姉のフェリスを睨みつける。
壁に身を預けながら立っているフローラを見て、俺は彼女に肩を貸した。
「じゃあ、フローラはどんな気持ちなの?」
フェリスが質問すると、フローラは意地悪い笑みを見せ付け言った。
「えへへ、ヒミツ!」
フェリスは、フローラの新しい表情を見て唖然としていた。
彼女の表情から察するに、こんなフローラは初めて見たんだろう。
よくよく考えてみれば、昨日初めて自己紹介したときの反応がちょっとおかしかったような気がする。あれは、妙に喜び過ぎじゃなかったか?
一体、フローラにとって俺はどういう存在なのだろう。
「ねぇアルトさん。二階までお願いします」
「おう、りょーかい!」
降りてきたときと同じように、俺は彼女の身を持ち上げ、俗に言うお姫様抱っこをしてあげた。フローラも自分の体を支えるために俺の首に腕を回した。そして俺らは階段を上ってフローラの部屋に戻った。
◆
一方、それを見たフェリスは驚いていた。
どうしてフローラあんな事をアルトにやらせているの? あんな、こ、恋人みたいな抱っこしてもらって!
それに先ほどのフローラの表情も、何だか見せつけるようにニヤついていて……。
これは間違いない。
「フローラ、どうして彼を? アルトと出会って一日しか経ってないのに……」
どういうキッカケだったのかは分からない。
でも、フローラがそういう感情を抱いているのは、ほぼ間違いないはず。
だが、それを知ってどうする? 知ったところで、私に何ができるというの?
「フローラは、アルトのことをどう思ってるのかな?」
私はそう小さく呟き、大きなバスケットに売れ残ったパンを入れていく。