第三章『悪夢』《東京都渋谷区》
6
そして、俺は――また元の世界にいた。
そこは東京、渋谷駅前。いつもの仲間同士で夜遅くまでぶらぶらしていた。
「あ、れ? ここは、渋谷、か?」
意味が分からなかった。先ほどまでファンタジーな世界にいて、フローラの横で寝ていたはずだ。幸せな時間を過ごしていたはずだ。騎士を目指し、目標に向かって突き進んでいたはずだ。教会の子供たちに励まされ、あらためてスタートを切ろうとしていたはずだ。
なのになぜ、俺はここにいるんだ?
今までの見ていた光景は夢だったのか?
信じたくない。
今までの出来事が全部夢だったなんて事は、絶対にありえないんだ!!
だって、心が温かくなって、身体が熱くなるような、そんな出来事を俺は経験した事がない。夢は、自分の実体験を元に再構築して映像として見るものだ。だから、自分が経験した事がない出来事など夢に出てくる事などないはずだ。
そう信じる。信じるしかない。
だが、魔法も、奇跡も、騎士も、パン屋の出来事も、教会の子供たちも、馬の乗り方も、剣の振り方も、俺が意識していないだけでどこかで見ているはずで、それを元にして夢という映像として出力しているのかもしれない。
いや、こんな事を考えるのはダメだ!
「おい歩斗、どうしたんだ? さっさと行くぞ」
「あ、ああ……」
とりあえず、リーダーについて行く俺。
頭がぐらぐらする。視点も定まらない。呼吸も上手くできない。
その足取りは、重かった。
リーダーは先頭を歩き、チラッとこちらを見るなり言い出した。
「今日も金欠だしさ、いっちょやりますか」
「またやんの? 標的にされた奴かわいそー。つーか、あまりにもやるとヤバくね?」
「まぁいいじゃねーか。バレなきゃ問題にはならねーっつーの。しっかり脅して口封じすれば、気の弱いザコはビビって余計な事はしないからな。なぁ歩斗」
リーダーはこっちに話をふってきた。正直言って、今はそんな事に答えたくはない。
せっかく俺は色々と変わって来たと思ったのに、それが夢でしかなくて、すべて嘘っぱちだったなんて肯定したくなかった。
現に今、こうやってまた弱い者を脅し、暴力を振るい、金を奪い取ろうとしているんだ。
人間として最低の行為の一つをやろうとしているんだ。はっきり言って犯罪で、非人道的行動だ。
「そう、だな」
だけど、口から出てきたのはリーダーの発言を肯定するものだった。心の中では否定していても、いざ、その場に入れば否定する事などできなかった。
フェリスがいる世界で一か月近く過ごして、色んな事を考えて、自分の何かが変わったと感じた。良い方向に向いて行ってると思っていた。だが、それはただの思い過ごしで、根本的なところは何も変わっていなかったと実感した俺は自分の世界に閉じこもった。
ふざけんな。この俺が何も変わってない?
そんな事、あるはずがねぇ。あるわけねーよな……。
フェリスは? フローラは? クラウディアは? キャロルは? ラインスは? エリナたちは? これまでの事は全部幻で、ただの妄想だったっていうのかよ……ッ!!
絶望した。元の世界へと戻って来たというのに、そこにあったのは喪失感だった。
いつのまにか、俺にとってあのファンタジー世界での出来事はかけがえのないもので、色んな初めてを貰って、色んな事を考えさせられて、成長したなと実感させられる場所だった。
だけどそれは夢に過ぎず、俺が作り出した妄想世界だったという事実は、心を強く痛ませる。痛すぎて、握りつぶされそうな感覚になる。
もう周りの光景など目に入ってこない。音も耳に入ってこない。
ただ淡々と考えにふけり、絶望するだけ。
「ちょっと君ィ、いいかな?」
リーダーは気弱そうな男子高校生に話しかけ、仲間はその男子高校生の周りを囲み、逃げ道を塞ぐ。
男子高校生は何も言う事はなく、そのまま裏路地へと連れていかれた。
そして、一発。
リーダーは男子高校生の頬を殴る。
「ちょっとさぁ、俺ら金に困ってんだよね。だから、ちょとお金貸してくんない? ちゃんと返すからさぁ」
その男子高校生も、返す気がないのは分かっている。だけど、分かっていても反撃などできない。何よりも恐怖が先行してしまって、ちゃんとした思考ができないでいるはずだ。
「あ、あの、その、えっと、お、お金、ですか?」
男子高校生は恐怖のあまり声を震わせて、聞かなくても分かるような事を言ってしまった。それが、不良たちを焚き付ける言葉だというのに。
「分かってんなら早く出せや!! わざわざ聞き返さなくたっていいだろうがよ!!」
今度は腹へと一発。
男子高校生は唾液をだらだらと口から出し、目に涙を浮かべ、その場に崩れ落ちる。
「きたねーなぁ。早く出せっつってんだろォ!!」
今度はリーダだけではなく、周りの不良たちも混ざり、暴行を振るう。
俺はその様子をただ眺めているだけだったが、意識は別のところへと向いていた。
「おい歩斗、お前もやれよ。じゃねーとコイツ、きっとチクっちまうからな」
リーダーのその一言でハッとした。
そして、目の前に起こっている事をしっかりと認識する。
男子高校生が、複数の男たちに暴行を受けている。
これを今まで自分もやっていたのかと思うと、身が震えた。
「や、め、ろ……」
呟くように小さな声で言った。
それが聞こえたリーダーは一旦暴行をやめて、俺の方に向き直った。
「あ? なんて言ったのかなぁ歩斗?」
「やめろっつってんだろ! そんなに弱い奴を痛めつけて、そんなんで金を得たって、何にもならねぇじゃねーかよ!」
「は? 何言ってんのお前? オイオイどうしちまったんだよ。今までお前が一番ノリノリでボコってたじゃん。今さら何を言ってんだ? おかしくなっちまったか? 何かのマンガに影響でも受けちまったか?」
「…………」
何も言い返せなかった。
さっきのは自分の中の正義感が突然出てきて、とっさに言ってしまった言葉に過ぎない。こうやって言い詰められてしまえば、自分が思った事を言えなくなってしまう人でしかなかったんだ。
しょせん、自分は、不良で、周りに流される、クズな人間なのだ。
情けない。何度、同じ失敗を繰り返すんだよ俺は。
「ホラ歩斗。いつも通りにやっちゃってくれよ。チクる気もなくなっちまうくらいにさ」
リーダーがそう言った。俺は、その言葉に従うだけ。それに抗えば、自分の居場所がなくなってしまう。それだけは嫌だ。一人になるのは何よりも恐ろしいから。
一歩一歩、男子高校生に歩み寄る。恐怖におびえる表情が見えるが、知った事じゃない。
やめろ。
やってはいけない。
やれば、これまでやって来た事何もかもが崩れ去る。
みんなの役に立つために、騎士になってやると誓ったあれは何だったんだ?
――一人になるのは、嫌だ。
あれは妄想だった。夢だった。幻だった。
何も気に病む必要なんてない。ここが、現実なのだから。
――でも、こんな自分は嫌なんだよ。
この足を上げ、男子高校生に向かって降ろし、踏みつけ、蹴りを入れてやれば、それでこの場は収まるだろう。そして、いつもと変わらない日々が続くはずだ。そこは人に囲まれ、一人ではない日々だ。
あれは夢だったと信じ、目の問題を解決する。それでいいじゃないか。
――あれは夢だった? ふざけんなよ。そんなんで済む話じゃねーんだよ。
だが、そんな俺を、現実は待ってくれない。
「おい、何してんだよ歩斗! テメー本気で正義の味方にでもなったつもりなのかよ?」
現実は、非常に残酷だ。人間関係というものは、より残酷だ。自分が築いた人間関係を守るためにはこうやって人を傷つけなくちゃならない。
そして、傷つく人を見捨て、見えないものとして過ごさなければ生きていけない生き物、それが人間だ。そうしなければ、人として何もできずに壊れていくから。
もう、考えるのをやめよう。
それが何よりも楽な事だから。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
目の前の怯える男子高校生に蹴りを入れた。
胸倉を掴み、顔面に拳を入れた。
腹を何度も殴り、または蹴り、胃液を吐かせた。
構うものか、自分を守るためなんだから仕方がないだろう。
「はぁはぁはぁ……」
「おうおうおう、いつもよりやっちゃってんねぇ歩斗。じゃ、男子高校生君、お金は借りていくから。じゃーねー。あ、後さ、ちゃんとお金は返すよ。いつになるか分からないけどね」
リーダーはそう言い捨て、裏路地から出ていく。それに続いて、その他の仲間も裏路地から出ていった。ここには一人、俺だけが残った。
後ろを見れば、体中アザだらけの男子高校生がコンクリートの地面に突っ伏していた。なんという無様な格好だろう。強い者がこうやって足で地面を踏んで立ち、弱い者は顔面を地面にくっつけている。
罪悪感は感じなかった。俺は、そう感じないように感情のどこかに壁を作って現実を見ないようにしているのだから。
「違う、これは、違うんだ」
前を向き直り、仲間に続いて裏路地から出ようとしたとき、後ろから声が聞こえた。
次の瞬間、目の前が一瞬ブラックアウトしたかと思えば、茶髪でショートカットのパジャマの女の子がそこに立っていた。
『違うって、何が違うんですかアルトさん。弱い者を傷つけるアルトさんは騎士にならなくてもいいです。失望しました』
「フローラ……これは、その、あぁ……」
また一瞬のブラックアウト。
次に現れたのはスラっとして、スタイルの良い女性騎士――クラウディア・フェイロンが立っていた。
『私の見込みは間違っていたようだ。貴様に騎士になる資格はありはしない。なぜ貴様が魔法を使えなかったのか、その理由がよく分かったよ』
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
やめろ、やめてくれぇ!! 俺は、違う!! 違うんだよォ!!
すると、小さな金髪ポニーテールの女の子が怯えるような顔でこちらを見てきた。
『アルト……もう、来ないでください!!』
拒絶。
「エリナ、エリナ……待ってくれ、俺は……うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
すべてが真っ黒になり、全てを失ったような感覚に陥る。そこに俺に味方する奴なんていない。だって、みんなが俺を敵として見ているのだから。
そして、一点の光。
そこに視点を動かす。助けて……フェリス……。俺は、お前がいれば――
『アンタ、最低ね』
その声はどこかで聞いた事のある声。そこにいたのは長い茶髪をツインテールにしたバンダナの女の子。
「フェリ、ス……俺を、見捨てないでくれ。俺は、俺は、嫌だ、嫌だああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
自分の身体が暗闇へと沈んでいく。どこまでも真っ黒で、重くて、押しつぶされそうな感覚。
悪意の塊。
俺を取り込もうとしている暗闇は、それだと感じた。現実から目を背け、痛めつけられる人を見捨てるという悪意。自分を守る事に必死で、周りの事など考えもせずに身勝手な事をする。それも悪意だ。
もう、言葉すら発する事などできない。
どんどん自分の身はどこまでも黒い何かに蝕まれ、取り込み、消えていく。
そして、すべてが無になった。




