剣道
「ンメアアアアアアア…………イ」
川崎絵美は自分の目の前にある面を自分の竹刀で思いっきり打ちつけた。そのまま相手にぶつかる。相手がグラッ、と軸を崩し、小手が開く。絵美は自分の竹刀をそこに吸い込ませるように持って行った。
「コテエエエヤアアアアアアアアアア」
今のは確実に入った。そう思った時、太鼓の音が響いた。
「やめ」
絵美は女子剣道部に属していた。今は週に四回の稽古の最中だ。
今の“やめ”の号令で、“地稽古”が終わった。最後に面をつけたまま素振りをする。
素振りの隊形になった。
「初め」
部長から号令がかかる。絵美は全力で竹刀を振り始める。
こうしていると普段の生活のストレスを忘れられる、と絵美はしみじみと感じた。竹刀を握るとそれを振るうことに集中して、体を動かすことに没頭できるからいい。部活、いや剣道がなければ私の人生はどうなっていたのかな……。
「やめ」
あっという間に素振りが終わった。ということは今日の稽古は終わりってコトか……。絵美はため息をついた。
十二人の生徒が整列し、黙想をする。そして礼をして……終わりだ。
終わった後、自分の棚に防具を置いてから絵美はいつも通り女子更衣室へと向かった。
女子更衣室にはシャワーがついている。
絵美は部活で汗をかいた後にこのシャワーを浴びるのも好きだ。
絵美は今日もシャワーを浴びることにした。
シャワーの個室に入る。そしてシャワーの個室のドアを閉めた。道着を脱いだ。そして袴を脱いだ。
ちなみに、絵美は稽古の時、パンツは履いていない。道着、袴の下には本来下着を着けない。最近は下着を着ける人も多いが、絵美は本来の方法で稽古をするというわけだ。
絵美は道着と袴をかごに入れた。道着が濡れないためのビニールのシートがあったが、かぶせなかった。どのみち、濡れていることに変わりはないのだ。
シャワーのお湯を出した。疲れた体に熱い水滴が降りかかる。やがて降りかかった水滴によって体が温まり、体が清められてゆく。
その時ドアがノックされ、
「もうすぐ替わって」
という声が聞こえてきた。
絵美の親友、新庄千春のか細い声。
「はーい」
そう答えて絵美はシャワーを止めた。
あ、ヤバイ。タオルを持ってくるのを忘れてしまった。仕方がないので絵美は濡れた体を道着で拭いた。
そしてその道着を大雑把に身に着ける。どうせ女子更衣室の中だから、あまりきちんと着なくてもよいだろう。
道着を着てから絵美はドアを開けた。
そこには新庄が待っていた。絵美は新庄にどうぞ、と言ってから着替えに行こうとした。しかしすれ違いざまに新庄は絵美に声をかけた。
「剣道場の入口のところで誰かが待ってたよ。着替えたら行ってあげて」
そう言って新庄はシャワーの個室のドアを閉めた。そして中から、メガネの男子だったよ、と付け加えた。
誰だろう……絵美が思案を巡らせているとある一人の人物が思い浮かんだ。
…というよりは期待だった。もしかして昨日の件で加藤君が来てくれたのではないか、絵美はそう思うと胸が弾み、着替える手も早くなった。
そのためすぐに着替え終わった。鏡の前で多少髪の毛を手入れして、ウキウキのスーパーハイテンションで更衣室のドアを開けた。そして剣道場の入口を見た。
絵美は肩を落とした。100まで上がっていたテンションは50、20、5、0と音を立てて落ちていった。
そこに立っていたのは加藤達と一緒にいて、昨日途中で帰ってしまった赤いメガネの北だった。
チッ、チャラメガネめ……絵美は心の中でそう悪態をつきながら北の方へ近づいていった。
ある程度まで近づくと北は絵美に気付き、おう、と少し片手を上げた。そして、
「遅かったな」
と言った。絵美はムッとして、
「悪かったわね。女子は男子と違って色々することがあんの!」
と返した。北は小さく笑った。
絵美ははっとした。北の目が罪悪感に満たされたようなような暗い光を帯びていたからだ。絵美は昨日なぜ先に帰ってしまったのかを聞こうと思っていたが、そのことに気付いたのでやめた。
北がその暗い光を目に帯びながら口を開いた。絵美はその目をもうやめて、と心の中で叫んだ。
「そういえばお前、小手打つ時全然絞れてねえよ。あれじゃ相手が痛いだろ。それに、入りにくいだろ」
絵美はつい、へ?と声をもらしそうになった。北から剣道のことで何か言われるということは夢にも思っていなかった。だが二、三秒過ぎると北に注意されたという絶大な屈辱感に包まれていた。
絵美は口を開こうとした。だが目の前にいるこの男子はちょっと突くと崩れてしまうのではないだろうかという気持ちにさせた。すべては北の目のせいだ。結局絵美は黙っていた。
そうしたら北が少し不思議そうにしてからおどけた様子で話しかけた。目はそのままだが。おどけていたが、昨日に比べれば元気がない。
「おっ。珍しいな。もっとツンツンして“うっさいわね”とか言うかと思った」
おどけていたが、昨日に比べれば元気がない。絵美は顔を真っ赤にした。北の目がなければ“うっさいわね”と言おうとしていたのだ。……本能的に。何か言い返したかったが妙な気を遣い、結局何も言い返せなかった。
「……で、要件は何よ?」
絵美は顔が赤いまま言った。
北は弱々しく小さく笑った。苦笑と言った方が適切かもしれない。絵美には北の目の罪悪感に満ちたような光がより強くなった気がした。だが絵美は気付いたことを顔に出さなかった。
「お前さ、何でいじめを見てほっとかなかった?」
北が唐突に聞いてきた。絵美はまたもや、へ?と声を出しそうになった。
「え、え……と、それは、放っておけないからに決まってるじゃない!」
絵美は言ってから後悔した。これじゃまるで馬鹿じゃん、と思った。なぜ嫌だか聞かれ、“嫌だから”と答えるようなものだ。
だが北はそうだよな、と言い微笑んだ。そして、
「じゃあな。いい答えが聞けて良かった」
と言って北は身を翻した。
え!それだけ!?絵美は拍子抜けした。……っていうか今のどこが“いい答え”だったの!?
「待って!」
絵美は北を呼び止めた。
北は振り向いた。
絵美はたじろいだ。
北が苦痛にあふれた表情をしていたからだ。
「何だ?」
絵美は正直怖かった。北が目の前で崩れていくのではないかとさえ思った。自分の目の前で苦しんでいる人を見るのは誰だって嫌なはずだ。
絵美は勇気振り絞って北に向かって口を開いた。
「……自分を……責めないでね」
それを聞いた北の表情は少し和んだように見えた。そして少し不思議そうにした。
「なんで、オレが“自分を責め”ているって?」
そう言って、少しの間を置いた。
少しの間を置いた後、北は微笑んだ。
「……でも、案外いい奴なのかもな、お前」
絵美は顔を赤くした。“案外”という言葉が引っ掛かったが、正直、北に言われて少し嬉しかった。しかし思っていることを悟られたくないので、
「早く出て行きなさいよ。早く!」
と言って北を押し出した。そして道場の扉を閉めた。道場の扉の小さな窓から絵美は北の後ろ姿を見守っていた。自分より大きなはずの北の背中はとても小さく感じられた。
北の後ろ姿を見届けてから絵美はケータイをポケットから取り出して電話帳のアプリを開いた。
電話帳の中から“伊勢健”とあるところを指で押した。昨日、北が帰ってから、何かあった時に、ということで電話番号を交換したのだ。加藤は恥ずかしすぎるし、羽生は生理的に嫌だということで伊勢を選んだのだ。
伊勢に電話を発信した。
絵美は耳にケータイをつけた。




