後編
短大を卒業後、保育士として生活を始めた聡美にその知らせが届いたのは、ようやく後輩と呼べる存在ができた年の夏だった。
「英樹君、あちらで結婚したんですって。今日、向こうの奥さんに会って話を聞いたの」
御両親に相談しないで婚姻届を出したとか、まだこちらに挨拶をしに来ていないとか話は続いていたのだが、もはや聡美の耳には入らなかった。
聡美はまだ英樹との恋愛を忘れていない。続けられないと思ったからこそ別れたが、気持ちが終わったわけではなかった。
ゆっくりと忘れていくつもりだった恋心は、思いがけない出来事が重石となって聡美の心に残ってしまう。
半年後、妻を転勤先に残したまま英樹が帰省した時も、まだ聡美は彼の事を想っていた。
「まいったよ。父さんも母さんも頭ごなしに怒るんだからな」
時間があるなら飲みに行かないかと誘われて、乗ってしまう私は馬鹿みたいだ。自嘲しながらも聡美は英樹からの誘いを無視できなかった。携帯の番号も、アドレスも互いに変更しないままだったことに都合のいい錯覚を起こしてしまいそうになる。
相手は既に結婚していて、他の人と過ごす未来を選んだというのに、どうして自分はいつまでもこの想いを捨てる事ができないのだろう。
英樹の話は最初に両親から叱られたとぼやいた後、職場での話に終始し、妻となった女性の事は一切話さなかった。それが余計に聡美を惑わせる。
「ええと、英樹さんは、結婚したんだよね?」
自分の首を絞めるようだが、こうして互いの立場を確認しておかないと何かを間違えてしまうような気がした。
「結婚? ああ……一応ね。向こうが強引に迫ってくるから押し切られちゃってさ」
妻となった女性に対して、愛情どころか敬意すら感じられない言葉だった。
聡美は幼いころから優しく接してくれた英樹の事を、礼儀正しく、親切な男性だと考えていた。
強烈な刷り込みは恋情と相まって聡美の心を縛り付けていたが、その鎖が今、かしゃん、と崩れていった。
私は今までこの人の何を見ていたんだろう? 別れを決めた時にはもう、彼の本当の姿を見ていたのに、気づかないふりをして、自分が悪いと思うことで逃げていた。
(ああ、この人は……どうしようもなく、不誠実な人だ)
英樹が続ける会話に適当に相槌を返す。昔、聡美の話を笑顔で聞き流していた彼と同じように。
善意だと感じていた全ては、その場を上手く切り抜けるための処世術でしか無かった。聡美は見事に乗せられて、英樹が自分にとって最高の男であると信じた。だから他の男性から想いを寄せられても応える事ができなかった。
もう、終わりにしよう。今度こそ、本当にこの恋を終わらせる。それに必要な言葉は、きっと彼が与えてくれる。
酒とつまみで腹がくちくなったところで、支払いを済ませて店を出る。
聡美は努めて平静な声を出して別れを告げる。返事を待たずに背を向けたところで「聡美、待って」と声を掛けられた。
「あの、さ……今日、一緒に過ごせないかな」
聡美は振り向く事ができなかった。お願い、やめてと叫ぶ声と、やっぱりそうなのね、とつぶやく声が心の中で渦を巻く。身動きしないままの聡美の肩に、英樹の手がそっと触れた。
「俺は、ずっと聡美の事が好きだったんだ。……今でも、好きなんだ」
その時、聡美の中で湧きあがった感情は何だったのか。怒りとも言える。悲しみともいえる。喜びですらあったかもしれない。とにかく、本人にすら理解できない激情は一瞬の事であり、それが過ぎ去った後に残されたのは、英樹に対する失望感だった。
「私は……ずっと英樹さんの事が好きだった」
肩に置かれた手をそのままに、小さな声で話す。
「でも、付き合い始めてからも、私が好きだと言ったら僕もだよって、子供の頃と同じように軽い返事しかくれなかった。英樹さんが私の事を好きだと言ってくれたのは今夜が初めてなの……気づいていた?」
「そうだったかな。きっと、言ったつもりでいたんだろうね。もちろん、俺は昔から聡美の事が好きだよ」
「奥さんは?」
肩に置かれた手に力が入った。そのまま促されて聡美は英樹と向き合う。
「さっきも言っただろ? 押し切られたんだよ。別に俺が望んだわけじゃない」
「何の関係も無い人に結婚を迫る女の人なんて普通いないわ。それに、どんな理由があったとしても結婚をした以上は夫婦の関係を第一にするべきじゃないの?」
「君は俺が好きでもない女と結婚させられたのに、そんなことを言うのか? 俺の事なんてどうでもいいの?」
英樹は聡美の罪悪感を煽るような言い回しで彼女を責める。互いの本音を隠したままではいつまでたっても平行線のままだと、肩を撫でるように動き始めた手を振り払う。
「いいかげんにして! 私はもう貴方の為にいる女じゃないのよ! ベッドの相手が欲しいならさっさと奥さんのところに帰ってよ!」
堪えきれない涙が頬を滑り落ちる。相手の意図を悟ってしまえば、共に過ごす時間は苦痛でしかなかった。
泣きながら睨み付ける聡美の前で、目を丸くした英樹は、やがて興が削がれたように白けた表情になり、大げさに溜息をついた。
「面倒な女になったな。昔は何でも俺の言う事に従っていたのに」
これまでの人生で培った恋心を捧げた相手。その男に都合のいい女としか思われていなかった事実は聡美の心を切り裂いた。
「やらせないなら、もう用は無いから」
踵を返して家路を辿る聡美の背中に、冷たい言葉が突き刺さる。
涙を隠すように降り始めた雨の中、聡美は自分の心から英樹の面影が失われていくのを感じていた。
******
数年後、聡美は親類に勧められた見合いで、相手の男性と結婚を前提とした交際を始めた。
兄は既に二人の子を持つ父親になっており、孫を可愛がる両親も健在である。
兄妹共に英樹本人との付き合いは無くなっていたものの、その両親とはたまに町中で会えば話をしたりする。
英樹の結婚生活は二年目にして浮気による破綻を迎え、現在はその浮気相手との間に子供ができたという事で再婚をしたらしい。
その子供というのが、年齢を逆算すれば聡美と英樹が最後に会った年にできた子供なのだから、掛ける言葉も無いとはこのことであろう。
聡美が婚約者と同棲を始めたころ、一度だけ英樹を見かけた。
女性と腕を組んで歩く姿に、まったく気持ちが揺らがなかったことに本人は驚いたが、話を聞いた母は笑い飛ばした。
「見切りを付けたから、どうでもよくなったんでしょう。あんな男の事なんて忘れた方がいいわよ」
その通りだと、思った。
辛い恋は、忘れよう。そうして私は幸せになるんだ――




