前篇
聡美が物心ついた時には、両親と、兄と、兄の友人が側にいた。
歳の離れた兄は幼い妹の面倒をよく見てくれて、その友人もそれに付き合って聡美をかわいがってくれた。
聡美にとっては「お兄ちゃん」と呼ぶ存在が二人いて、どうしてそのうちの一人はずっと家にいてくれないのか不思議だった。
離れてしまうから、気になるのか。
やがて、自身の家族について正確な関係性を知る頃には、聡美の初恋の相手は兄の友人、英樹になっていた。
「おにーちゃーん! おはよー!」
小学生になった聡美は通学時に見かける英樹への挨拶を欠かさない。残念ながら、中学生の英樹と小学生の聡美とでは下校時刻が重なることは無く、部活に入っている英樹はしばしば朝練がある為に毎朝会えるわけではなかった。
「おはよう、聡美ちゃん。いつも元気だね」
「うん。さとはげんきだよ!」
実の兄である裕也は反抗期を迎えてから、聡美に対してもつっけんどんな態度をとるようになっていたので、いつも変わらぬ笑顔で接してくれる英樹の存在は聡美にとって救いと言ってもよかった。
やがて高校生になった兄は地元の高校へ進学し、英樹は遠く離れた高校で寮生活を送ることになった。
「お兄ちゃん行っちゃやだよー!」
話を聞いてわんわんと泣き喚く聡美の頭を落ち着くまで撫でてくれた英樹は、「元気でね」と告げて聡美の生活からいなくなってしまった。
兄代わりの優しい人がいないことで寂しさを感じている聡美を慰めてくれたのは、反抗期を終えて精神的に落ち着いた実兄だ。幼い初恋はそうして終わりを迎え、聡美は高校生になった。
兄と同じ高校に進学を決めた聡美は、バレー部に入部し朝練と放課後練習に励む生活を送るようになっていた。レギュラーでこそないが交代要員として試合に出させてもらえる。
ショートカットですらっとした体つきの聡美は典型的なスポーツ少女の外見とは裏腹に、勝気とは程遠い穏やかな性格をしていた。そのギャップがいいと数人の男子生徒から交際を申し込まれたが、すべて断っていた。
聡美が受験生となり部活を引退した時、兄は専門学校を経て既に社会人となっており、英樹は大学を卒業後、地元に戻って就職した。
子供の頃よりも頻度は減ったものの、英樹は再び聡美の家を訪れるようになった。それはもちろん、兄に会うためであったが、まだ他の恋を見つけていない聡美は、初恋の相手の顔を見られることが嬉しかった。
優しかった英樹は大人になっても優しいままで、兄と一緒になって聡美の進路相談に乗ってくれたり、買い物にも付き合ってくれたので、幼い時の想いが形を変えて再び芽吹くのに時間はかからなかった。
「ねえ、聡美ちゃん。俺と付き合ってほしいんだ」
だから、合格通知を持ち帰った聡美へのおめでとうの後に続いた言葉に、ためらいなく頷いたのだ。
聡美は短大に進学し、英樹は社会人二年目となった。
生活リズムのまるで違う二人だが、幸い休日の曜日は重なるので恋人として過ごす時間はたくさんあった。
双方の親も暖かく見守ってくれたし、兄も「小さいころは三人まとめて兄妹感覚だったから変な感じだ」と言いつつも、楽しそうに笑っていた。
交際から一年が過ぎ、聡美は就活の為、英樹は出張を伴う仕事が増えたことで忙しくなり、会う時間は減っていた。
それでも、気持ちが冷めたわけでも離れたわけでもない。お互いの状況が落ち着けばまたゆっくり過ごす時間が戻ってくる――そう思っていたのは聡美だけだったようだ。
「聡美、今週公開される映画を見に行かない? 俺は土曜日が空いているけど」
「ごめんなさい、その日は講習があるんです……」
お互いに忙しいので時間が合わないのはわかるのだが、このところ聡美に予定がある日にばかり英樹から誘いがある。一度など、テスト期間中だと告げたにもかかわらず「それって休めないの?」と聞かれ、聡美は絶句した。
その表情を見た英樹は「ごめん、冗談だよ」と笑ったが、それ以来二人の関係に微妙な影が差しているのはきっと気のせいではないだろう。
もしかしたら、英樹はわざと聡美に誘いを断らせているのかもしれない。そう思うくらいに都合の悪い日にばかり誘いを掛けられる。ままならない逢瀬と、誘いを断り続ける罪悪感に聡美は苦しんでいた。
「転勤の話が出ているんだ」
そう切り出されたのは、久しぶりに二人で出かけた日。寒い時期なので屋外の動物園よりも屋内の水族館を選び、暖房のきいたカフェで話をしている時だった。
たわいもない話題が途切れ、何気ない沈黙が重苦しい雰囲気に変わっていく。それを破る勇気は聡美には無く、その雰囲気に後押しされたように英樹が切り出した。
「本社での研修という形だから、二、三年くらいかな。とてもいい話だし、受けたいと思っている。聡美はどうかな?」
「どうって……?」
「一緒に来てくれるかってこと。聡美は保育士志望だよね? 向こうにも保育士の仕事はあると思う。だから考えてみてほしい」
帰り道、聡美は考えに耽ってしまい無言だった。英樹はその隣で同じように無言だったが、彼が何を思っているのか、聡美にはもうわからなかった。
就職活動を地元で始めていて、既に幾つか面接の日取りが決まっている。それらをすべて放り出し、今から遠く離れた地域で仕事を探したところで上手くいくのだろうか。
それに、転勤の話は数年で終わるとも英樹は話していた。何とか仕事を見つけてもまたすぐに辞めることになるだろう。そうしたら、またこちらでも仕事を探さなくてはならない。
いただいている面接の話を辞退した聡美が、数年後に再び「面接させてください」などと言って受け入れてもらえるのか。
考えるほどに状況の厳しさばかりが浮き彫りになる。英樹の側にいたいと思う気持ちは、自分の就職に対する不安に押し潰されてしまいそうだ。
「お兄ちゃん。私はどうすればいいと思う?」
一人で悩んでも答えは出ず、当事者である英樹とはゆっくり話せる時間が取れないこともあり、聡美は家族に相談することにした。
「お前の仕事の事とか考えるなら、今は無理に付いていかなくてもいいだろ。十年くらい向こうにいるならともかく、三年くらいで戻るならその後に結婚しても遅くないし。遠距離恋愛っていうのか? 二人が納得できるならそれがベストじゃないかな」
「遠距離……そういう風に考えたことなかった。なんだかそれなら上手くいきそうな気がする。ありがとうお兄ちゃん!」
ぐるぐると袋小路に入り込んでいた所に思いがけない抜け道を示された聡美は、これで問題が解決した気になった。英樹の携帯に急いでメールを送る。
『私はこちらで就職したいと思います。三年待ちますから、そうしたらまた一緒にいられますよね』
時刻は夜中に近かったので、聡美は返信を待たずに就寝した。
翌朝、携帯を確認したが着信履歴は数日前と同じだった。「きっと返信する時間が無かったのよ。朝早いだろうし」聡美は今日が平日なのでこう思った。きっと休日なら「ゆっくり寝ているんだろう」と思ったに違いない。
しかし、結局その日の携帯は沈黙したままで、英樹から連絡が来たのは三日後だった。
翌日は久しぶりに何も用事のない休日という事で、聡美はのんびりと本を読んでいた。手元に置いてある携帯が着信を知らせる。「はい」と電話に出る声は緊張していた。
「メール見たよ。聡美は地元に残るんだね」
「う、うん。仕事を探すのは大変だから、ここでちゃんと就職したほうがいいと思って」
「そっか。君はもともと俺の事をそんなに好きじゃなかったしね。一緒に行くなんて無理だろうなってわかっていたよ」
「どうしてそんなことを言うの!? 私はちゃんと英樹さんの事が好きだよ!」
眠っている家族を起こしてしまわないように、なるべく小声で話すようにしていたが、これにはさすがに声を荒げてしまう。
「遊びに行こうと誘うのも俺からのほうが多かったし、それも断られる方が多かったよね。君にとって俺は優先順位の下の方だったろう?」
「そんなこと……」
聡美は声を詰まらせた。学生の自分よりも社会人の英樹のほうが忙しい。予定を空けてもらうよりも、彼の予定が空いている時に自分の時間を合わせる方がいいと思ったのだ。誘いを断ったのも、お互いの家族が認めてくれている恋愛が学生としての本分の妨げではないと証明したかったから。そんな彼女の気遣いは少しも理解してもらえないのか。
「俺には君の気持ちが見えないんだ。好きって言ってくれても信じきれない自分がいる」
「そんなの、私だってわからない! 英樹さんが何を考えているのかわからないよ!」
聡美は泣きながら悲鳴のように響く言葉を英樹にぶつける。電話越しの声はどれほどに彼女の感情を伝えているのか、英樹が動揺する素振りは最後までなかった。
「今日はもう遅いから、また連絡するよ」
おやすみ、と言い残して切られた電話を握りしめたまま聡美は泣き続けた。
翌朝、部屋から出た聡美の顔は明らかに常とは違う様子だったが、両親は追及することなく「ゆっくり休みなさい」と声を掛け、兄は恋人の家に外泊しているので不在だった。
聡美は自分の判断が間違っているとは思えなかった。英樹と聡美。二人の将来を考えるなら、この選択肢以上のものは無いだろう。聡美が英樹について行ったとして、誰が得をするというのか。
聡美にとっては就職の不安があるし、英樹にしてもそんな女を抱えて慣れない転勤生活を続けるなど難しいのではないか。彼が聡美に惚れぬいていて片時も離れることができないというなら同行を望む理由になるのかもしれないが、電話の様子ではそれもなさそうだ。
(とりあえず、来週には面接が一件あるからそれを受けよう。その結果が出てから改めて英樹さんと話をしよう)
自身の方針を決めた聡美はその旨を英樹にメールで伝えた。
すぐに返信が来ないことは、もう気にならなかった。
週半ばの面接を明日に控えた夜。兄と二人で夕食を食べている時に英樹からのメールは届いた。
『明日の午前の便で行くことになったよ。見送りに来られる?』
携帯を取り落して号泣し始めた聡美に、兄は何事かと床に落ちた携帯を拾い上げる。友人から妹に送られた文面に怒りがこみ上げた。
「あいつ! いったい何を考えているんだよ!」
「だめ、お兄ちゃん。何もしないで!」
そのまま英樹に電話を掛けようとした兄を必死で止める。何故と聞かれても答えられないが、兄の怒りを英樹にぶつけても何も解決しない事だけは理解できていた。自分たちの恋人という関係はこれ以上続かないかもしれないが、兄と彼の友情は終わってほしくなかった。
支離滅裂な言葉でなんとか主張し終えた聡美に対し、「わかったよ、お前は何も心配しないでもう寝ろ。明日も早いんだから」と兄は笑って妹を安心させた。
だが、妹というだけでなく、恋人にこんな仕打ちをする男を友人と呼ぶつもりなど疾うに失せていた。
いつの間に眠りに落ちたのか、涙の跡もそのままに聡美は朝を迎えた。真っ先に携帯を確認する。
昨夜以来、何も変化が無いことを確認し、簡潔な文でメールを送った。
『本日11:30より○○保育所で面接がありますので、見送りはできません。転勤先でもお元気で。さようなら』
実った初恋に自分の手で終わりを告げた。