第8話
リリスは閉じていた目を開けて、ベッドに横たえていた体を静かに起こした。脳裏には、先程まで対面していた若き義賊との会話がある。
そこはハデル邸の一室。リリスに与えられた部屋はそれほど狭くない部屋だったが、内装のあまりの素っ気なさを考えればもう少し狭い部屋でも問題なかったのかもしれない。
リリスは精神転移魔法を構築していた魔法陣を右手を振って消滅させると、主を無視して接触した自分を恥じるように溜息をついた。全く、雇われの身の傭兵が何をしているのか。
リリスは主に剣術のみで戦う傭兵だったが、それはリリスの剣の腕があまりにも強すぎるための副産物のようなもので、本業は魔術師だった。今の主であるハデルにも、そちらを評価されて雇われた部分が大きい。
そしてリリスの魔術師としての直感が、今野放しにしているあれは危険すぎると言っているのだった。
初めて目にした時には愕然として近づく気にすらなれなかった。あまりにも禍々しく強大なオーラを纏うそれ。いっそ破壊してしまいたい、そんなことまで思ったのを覚えている。
あれを持つ者がただの素人だということに、幾ら主があれを使いこなせるのは自分だけだなどと嘯いても信じる気にはなれないのが実際のところである。あれはそんな生温いものではないはずだ。遠隔操作が効くような、ましてや今は他の人間が所持しているというのに?
「『蒼鷲』・・・本当にあの男に持たせておいていいものか・・・」
不思議だったのは、今日対面した「蒼鷲」の懐にあったペンダントには、禍々しさこそあったもののそれ以外は感じられなかったことだった。まるで中身が抜け出してしまったかのように、それは脅威を感じさせなくなっていた。
もしも主が言うように「目覚めて」いるのなら、彼は傍らにあれを連れていたはずだ。しかし彼が一人で行動していたことを考えれば、誰か協力者がいてその人物に任せたか、それとも彼があれの危険性に全く気付かず野放しにしているかの二托しかない。リリスとしては、できれば前者であってほしいところだった。
魔術師であれば必ず気付く。あれは恐らく、人が操れる範囲を超えているということに。
主があれを制御しきれずに自滅することはリリスには関係ない。しかし、自分が巻き込まれるような事態は避けたかった。リリスにしてみれば、傭兵稼業はほんの副業で、彼女の目的は他にあるのだから。こんなところで共倒れはご免被りたい。だからこそライルにも接触して、彼がもう少し危機感を持つように促したのだ。
これで状況がどう変わるのか。それはリリスの今後の行動にも関係してくるので、それなりに興味のあることだった。
小さくドアをノックする音がする。部下が呼ぶ声に答えて、リリスはベッドから立ちあがると何事もなかったような顔で部屋から出たのだった。
「とりあえず、今から決めなきゃいけないのは今後のユイの身の振り方だな。」
朝食の片付けまで終わった所で、3人は再びギルマールの部屋で額を突き合わせていた。ユイはライルに言われるがまま彼の買ってきた服の一つに着替えて、神妙な顔で考え込んでいる。
「確かに、ユイがこれからここで暮らしていくにせよ、何をするにせよ・・・まずは彼女自身が今後の自分を決めなくてはライルも僕も支えられませんからね。」
「お、何だよギルマールお前、ユイが気になるのか?」
「ば・・・馬鹿なこと言わないでくださいよ!僕はあなたがユイを僕に任せるから面倒を見ていただけで・・・まぁ迷惑ってことはありませんでしたけど・・・」
僅かに頬を赤くしてそっぽを向くギルマールに面白そうにニヤニヤと笑ったライルは、食後のコーヒーのカップを抱えたまま俯いているユイに、明るい口調で話しかけた。
「そんなに固く考えるなよ、ユイ。500年前ならいざ知らず、今は竜族と人間の争いなんてものはない。ないっつうか、竜族が今じゃぁ南の砂漠にしかいないってだけなんだけどさ・・・でもお前は人間と見た目は変わらないし、お前が竜族の娘だってことを知ってる奴も他にいないんだ。もっと自由に考えていいんだぜ。」
その言葉に、ユイは顔を上げると鸚鵡返しに繰り返す。
「自由に・・・ですか。」
「あぁ。お前はお前だ。今この時代に生きているたった一人の存在なんだ。折角また始まった人生をさ、自分で制限しちまったらつまんねぇだろ。」
な、と笑うライルに微笑んで、ユイは落ち着いた様子で目を閉じて考え始める。それを見守るように、ライルとギルマールも静かに彼女の答えを待った。
しばらく、コーヒーが冷めるくらいの時間が経って、ユイは心を決めた表情でライルとギルマールを見た。ぎゅっと唇を引き結ぶと、次いで一言一言考えるように口を開く。
「・・・私は、竜族とかそういうことは関係なく・・・ただ生きたい。この時代のことを学んで、この場所で、今までできなかったことをしたいです。その、具体的にっていうと、うまく思いつかないですけど・・・」
語尾を濁してしまったユイに、ギルマールは小さく微笑み、ライルは大きく頷く。そんな二人の反応にホッとしたのか、ユイは肩の力を抜いてほっと息を吐きだした。
「上出来だ。そんじゃぁまずは、俺と一緒に町に・・・」
言いかけたライルに、ギルマールからの「待ってください」という制止がかかる。
「何だよ、ギルマール。」
「すいません、その前に気になっていることが2点ほどありまして・・・ライルが戻ってきたらその時に改めて聞こうと思っていたことなのですが。」
言うと、ギルマールは表情を改めてユイに向き直った。
「ユイ、昼間にお話を伺った際に、あなたは目覚めたときに手鎖と足枷をはめていたと言っていましたね?」
「は、はい・・・ライルさんに外していただきましたけど。」
それが?と首を傾げたユイに、ギルマールは「おかしいとは思いませんか」と続ける。
「あなたは500年前、ファーレンハイトに封印されて以来、一度も目覚めなかったと言った。それなら、あなたが手鎖と足枷をはめられたのはその時だということになってしまう。」
「あ・・・!え、でも、私、封印された時にそんなものは・・・」
混乱したように眉根を寄せるユイ。ギルマールはその反応に頷いて、更に言葉を紡いだ。
「そう、ユイを守ると言ったファーレンハイトがそんなものをはめるとは思えない。だとするなら答えは一つ。ファーレンハイトが封印し、ライルが解放するまでに、他の誰かがユイを一度解放して、その記憶を消した上でまた封印したとしか考えられない。」
「そんなこと、・・・」
ある訳ない、と断言できないのは、ユイにも自信が持てないからだろう。500年という時間だ。封印されている間は暗闇しかなかったというのなら、その間が数年、数か月飛んだところで、記憶さえなければ分かるはずがない。
そしてそうなると、今度は「何故ユイに手鎖や足枷をはめたのか?」という疑問が生じてくる。
「ユイが抵抗したから、逃亡を防ぐために戒めた。もしくはユイが目覚めている時に、戒めなければならない程の何かがユイの体に起きた・・・が、妥当な線だろうな。」
「そういうことです。そしてどちらにせよ、ユイにその記憶がない以上、かつてのユイに何があったのかを知ることは今のところできないことになる。そしてここからは僕の仮説で、引っかかっていることの二つ目に続くのですが・・・」
言うと、ギルマールはライルに手を伸ばして「ペンダントを貸して下さい」と要求した。言われるままにペンダントを渡したライルと動揺を隠せないユイの前で、ギルマールは戸棚から取ってきた薬瓶とペンダントをそれぞれの手に持つ。
「この液体は、魔法具に害のある魔法がかかっているかどうかを確認するための薬です。僕は薬師ですが、昔は魔術をかじっていたのである程度は魔法の種類の判別がつく。僕の見立てでは、このペンダントには3つの魔法がかかっていると踏んでいます。」
「3つ・・・だと?」
「はい。一つ目はファーレンハイトが施した本来の役割である封印の魔法。二つ目は、これは一番新しいように思うのですが、ペンダントの位置を追跡する魔法。そしてもう一つが・・・」
言いながら、ギルマールは容赦なくペンダントに薬液をぶっかける。ジュワ、と嫌な音がして、ペンダントからは黒煙と生肉が腐ったような嫌な臭いが発生した。思わず鼻をおさえたライルとユイとは対称的に、なぜかギルマールは平気そうな顔で満足げにペンダントを見ている。
「・・・見ての通り、害を与える魔法。恐らくは、このペンダントの中にあるものの魔力を増幅させ、暴走させる魔法です。」
「魔力を暴走?何でそんなも・・・のを・・・ちょっと待て、こんな空気じゃ話してられねぇ!!」
鼻をおさえたまま、ライルは勢いよく立ちあがるとダッシュで窓を開けに行く。一歩遅れてユイも申し訳なさそうな顔をしながらそれに続き、二人で窓の外に顔を突き出すと大きく深呼吸をした。
ぜーぜーと苦しそうな二人に、ギルマールは不思議そうに片眉を上げる。
「この位、別に平気でしょうに。」
「お前の鼻がおかしいんだよ!てか、事前予告しろ事前予告!」
「僕が平気でしたからそんなこと思いもしませんでしたよ・・・とにかく、このペンダントには一つ不可解な魔法が掛かっているんです。そして多分、これがユイから抜け落ちている記憶と密接な関係を持っている。」
呼吸を整えた二人は、互いに顔を見合わせて真剣な顔でギルマールの手の中にあるペンダントを見た。
薬液はもう蒸発してしまい、ギルマールの手の中でそれは依然と変わらず鈍く輝いている。しかし今はそれは、ユイを戒めていた忌まわしい鎖と同じようにしか見えなくなっていた。
「私の中に、抜けている記憶がある・・・」
「この可能性に思い当たったのは、ユイから目覚めたときの情報を詳しく聞いた時です。ライルがペンダントを持っていってしまっていたので、自分の感覚を頼りに立てた推論でしたが、そんなに外れてはいないと思いますよ。」
「そうだとすると、ユイがこれから普通に暮らしていくには、その魔法をかけた奴とハデル、少なくともその二人の意図を明らかにしなくちゃいけないってことだな。ハデルも魔術師なんだから、ペンダントにそんな魔法が掛けられてたんだったら気付いてるだろ。」
勿論、その魔法をかけたのがハデルだって可能性もある訳だ、とまとめるライルに、ユイとギルマールは頷く。
「僕はもう少しこのペンダントを調べてみようと思います。ライル、預かっても構いませんか?」
「あぁ、勿論。・・・そうだ、俺の方もちゃんと情報を手に入れてきたぜ。」
ライルはブローカーに聞いた、ハデルがシーリスのミライアという貴族と結託しているという情報、そしてそのミライアについてまた別の情報屋から得た情報を二人に語った。
ミライアが公に関わっているのは「赤い百合」という組織。シーリスだけでなく大陸中に支部を持つ組織で、表向きは今は消滅してしまった古代魔法の研究をしている学者の組織だとしているが、裏では「邪法」とされている動物同士の融合実験、人を用いた非人道的な実験を繰り返し、その内の成功例を商売道具にして利益をあげているという。特に動物融合で生まれたキメラは、その体内に魔法陣を仕込むことで人の命令を忠実に守る使い勝手のいい兵器となっているのだとか。
「ひどい・・・」
眉をひそめる二人に肩をすくめてみせて、ライルは真剣な表情で二人に言った。
「とにかく、そんな組織と関わってる女と結託してるハデルにユイを渡したら、何されるか分かったもんじゃねぇ。ユイの記憶を取り戻しつつ、ハデルに対抗する手を打たないとな。」
「そうですね。」
「はい。・・・ごめんなさい、私のことで。」
沈んだ表情になるユイに、ライルはわざとらしく溜息を吐くと、その頭を軽く叩く。
「馬鹿。そういう時は、ありがとうって言うんだよ。」
ライルの顔を見上げたユイは、その瞳が優しく笑っているのを見ると、表情を明るくして「ありがとう、ございます」と小さく紡いだのだった。
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