東雲に追われて 1
靴底が、アスファルトを叩く音が夜に弾ける。
バン、バン、バン、と荒く不規則に響く自分の足音。
呼吸はすでに限界に近い。肺が焼けるみたいに痛い。
それでも――止まれない。
止まったら終わる。
曲がり角を勢いのままに曲がる。肩が壁にぶつかり、鈍い衝撃が走る。けれど構わず走る。
夜の住宅街は静まり返っている。
窓の明かりだけが浮かんでいて、人の気配がない。
その静寂を――
バン、バン、バン、バン!!
もう一つの足音が、乱暴に引き裂く。
後ろから。
すぐ後ろから。
振り返る。
一瞬だけ。
街灯の下、影が大きく揺れる。
彼女だ。
全力で走っている。
髪が乱れて、肩で息をしているのに、それでもスピードは落ちていない。
手にはナイフ。握りしめたまま、腕を振り上げるようにして走ってくる。
その姿は――
知っているはずなのに、知らないものみたいだった。
「……っ!」
喉が詰まる。
距離が近い。
さっきよりも、明らかに近い。
彼女は迷いなく、一直線にこちらへ向かってくる。
足音が荒い。呼吸も荒い。
それでも止まらない。
止める気がない。
――なんで。
頭の中で何度も同じ言葉が浮かぶ。
なんで、こんな必死に。
なんで、そこまでして。
足がもつれる。
段差に引っかかり、体が前に倒れかける。
「っ、くそ……!」
手をつき、強引に体勢を戻す。掌にざらついた痛み。
その間にも――
足音が迫る。
速い。
さっきよりも、さらに速い。
彼女は加速している。
逃がさないために。
必死に。
立ち上がる。走る。
無理やり息を吸う。肺が悲鳴を上げる。
狭い路地に飛び込む。
ゴミ袋の匂いが鼻につく。湿った空気がまとわりつく。
後ろから、ぶつかるような音。
彼女も同じ道に入ってきた。
壁に肩をぶつけたのか、鈍い音がして、それでもすぐに走り直す足音が続く。
諦めていない。
むしろ、追いつこうとしている。
心臓がうるさい。耳の奥で暴れている。
――逃げろ。
それしかない。
なのに。
頭の奥に、別のものが浮かぶ。
彼女の笑顔。
少し照れたような表情。
名前を呼ぶ声。
優しくて、柔らかくて――
「……なんでだよ……!」
叫びに近い声が漏れる。
答えなんて、ない。
路地を抜けると、小さな公園に出る。
錆びたブランコが揺れている。
足を止めかけて、無理やり前へ。
開けた場所は危険だ。
それでも。
振り返ってしまう。
彼女が、路地から飛び出してくる。
走っている。
全力で。
息を切らしながら、顔を歪めて、それでもスピードを緩めない。
ナイフを握る手に力が入っているのが見える。
その目は――
はっきりとこちらを捉えている。
逃がさない、という意志がある。
なのに。
その奥に、何か別の感情も混ざっている気がする。
胸が締めつけられる。
怖いのに。
それだけじゃない。
足が、ほんの一瞬止まりそうになる。
――だめだ。
走る。
公園を横切る。砂が跳ねる。
足の感覚が鈍くなってきている。
出口に向かう。
その時――
「――ねえ!」
声が飛ぶ。
さっきよりも強い。
息を切らしながら、それでも無理やり絞り出した声。
体が反応する。
止まりそうになる。
知っている声だ。
何度も聞いた声。
好きだった声。
「待ってよ!!」
必死な声。
振り返ってはいけない。
わかっているのに。
視線が、引き寄せられる。
振り返る。
彼女が、すぐそこまで来ている。
距離がほとんどない。
街灯の光に照らされた顔。
息が荒い。肩が上下している。
それでも目だけは、強くこちらを見ている。
「なんで、逃げるの……!」
さっきよりも、感情が混ざっている。
怒りとも、悲しみともつかない声。
彼女は一歩、踏み出す。
ふらつきながら、それでも前に出る。
ナイフが揺れる。
「ねえ……!」
さらに一歩。
もう、すぐそこだ。
「……どうして!!」
叫びに近い声。
その問いに――
答えられない。
言葉が出ない。
喉が詰まる。
ただ。
体が先に動く。
後ずさる。
そして。
また、走り出す。
背を向けて。
彼女から逃げる。
あの声から逃げる。
あの問いから逃げる。
彼女は、まだ追ってくる。
足音が、すぐ後ろにある。
止まらない。
お互いに、止まれない。




