第5話 初心者女子、初めての体育は準備が多い!
朝が来て、支度を始める。
やっぱり女の朝は男より時間がかかる。
「ファンデーションに……マスカラ…リップ……こんな感じでいいか?」
真桜さんにやってもらったほど上手くはいかない。
それでも、人前に出られるくらいの仕上がりにはなった……はずだ。
鏡を見ながらふと、昨夜のことを思い出す。
「昨日の……アレ……すごかったな。」
この身体になって一週間以上。
何もかもが新しい体験だったが――あれは、間違いなく一番の新感覚だった。
意識するだけで、腹部の奥に妙な快感が蘇る。
思わずお腹をさすりながら呟いてしまう。
「みんな……こういうこと、してるのかな……?」
時計を見て、はっとする。
「げっ……もうこんな時間! そろそろ来るな……?」
ピンポーン。
「ゆかっち〜!おはよ〜!」
「あ、はいはーい……!」
慌てて玄関に駆けていく自分の足音が、やけに大きく響いた。
「ゆかっち、自分でメイクしたの?いい感じじゃん!」
「あはは……一時間かかったけどね。」
現役女子高生にメイクを褒められる。
……これは相当な成果なんじゃないか?
「今日、一時限目から体育だけど……体操服持ってきた?」
「持ってきたけど……できれば見学で済ませたいな。」
「も〜、ゆかっち。せっかく女子高生になったんだから、健全に学校生活送らなきゃ!」
そうは言っても、やっぱり元男だ。
「私がついてるから大丈夫だって!」
真桜さんは笑顔でそう言うが
その明るさに救われる反面、不安は消えないままだった。
というわけで一時限目、体育。
今日は50メートル走だ。
元々運動は得意じゃなかった俺が、この身体でどこまでやれるのか……。
そんなことを考える間もなく、最初の試練が訪れた。
ガラッ。
「ヒカ、レイちゃん、おはー!」
「おお! 真桜とゆかっち、おは!」
「おはよう。もうギリギリよ?」
「お、おはようです……」
――女子更衣室。
キャッキャッとはしゃぐ声が飛び交い、
既に体操服に着替えている子、まだ制服姿の子、
そして下着姿の子まで……。
健全な男子から見れば間違いなくご褒美だ。
俺だって“元男”というのを知られてなかったら、
健全な反応をしていただろう。
けど今は違う。
同じ立場になればわかると思うが
グヘヘな顔なんか真桜さんに見られたらシャレにならないし、
何より……罪悪感が込み上げてくる。
(で、出来るだけ……見ないように……!)
「真桜、その下着新しいの?ピンクかわいいー!」
「ありがとう!これね、横の紐が結構かわいくて気に入ってるんだ〜」
……なんて、女子同士の素敵な会話。
俺にはついていけない世界だ。
「ゆかっちのも同じメーカーでしょ?ね?」
桐谷さんがこちらに話をかけてきた。
「えっ……ええっと……そうそう!」
突然の振り、心臓の鼓動がバクバクと鳴り始める。
「ゆかっちのはグレーか。私のとちょっと違うね〜」
俺が身につけているのは、ライトグレーのシンプルな下着。
真桜さんのフリル付きピンクと比べれば、確かに地味だ。
「ゆかっち、もっと可愛いの着ればいいのに!今度、私が選んであげよっか?」
「そそそ、それは大丈夫!」
(桐谷さん……やっぱり陽キャはお構いなしだな……!)
「裕香さんには、白とかライトミントの方が似合うんじゃない?肌が白いし。」
そう言ってこちらをじっと眺めてくる白石さん。
彼女は体操服のズボンを履いていたが、上はまだブラ姿のまま。
あ〜……すごい、多分ここで運を使い切ってしまったと確信する。俺なんながこんな絶景を眺めても良いのだろうか?
女の身体で良かった…男なら一瞬で股間にテントを張ってたな。
そして…思ったよりも……大きい。
「そ、そうかな……」
「じゃあ、今度一緒に見に行こうよ。私が選んであげるね!」
「!!」
無理やり下着トークに巻き込まれ、すでに体力ゲージは削られまくりだった。
それでも何とか体操服に着替え、髪を後ろでまとめ、外へ出る。
運動場はざわざわと活気に満ちていた。
今日は一組と二組の合同体育。
「はぁ……一組のやつら、俺がいなくなったってどう思ってるんだろ。……翔は、どこだ?」
金髪だからすぐわかるあ、いた。
だが目が合った瞬間、すぐに視線を逸らされた。
(なんだ……?)
***
一方、その翔。
(……っ! 裕貴……いや、裕香と目が合った、か?)
(ポニーテールに体操服……あぁ……眼福すぎる……。合同体育でよかった……裕香、元気にやってるか……?)
「なぁ翔、なんで二組をチラチラ見てんだ?好きな子でもできたのか?」
「……!! なんだ、剛か。」
飯田 剛。
翔が“友達”と呼べる数少ない相手の一人。身長180センチ、サッカー部のエースFW。名門大から声が掛かっているとか。
「お前が追いかけたい相手って誰だよ。白石さんとか?」
「白石も悪くはないと思うが……別にそういうわけじゃない。」
「そっか。お前レベルでも女子を追っかけるって意外でさ。」
(――まぁ、“女子を追ってる”のは間違いじゃないがな。)
剛がふと思い出したように眉を寄せる。
「それより、なんでアイツ退学したんだろ……えっと、前野? 仲良かったんだろ?」
「……あぁ。アイツんちは色々あってな。残念だよ。」
「そうか。俺はあんま話したことないから分かんねぇけど。」
***
50メートル走。まずは一組から。
男子が次々とスタートラインに立ち、駆け抜けていく。
翔の番になると、周囲の空気がはっきり変わった。
「神宮寺くんだ!」
「やっぱカッコいい……!」
「え、私も見たい見たい!」
女子のざわめきに紛れると、あらためて“アイツは本当にモテる”と分かる。
――用意、パンッ!
鋭いスタート。初速から一気に伸び、さらに加速。
同走者を圧倒的に置き去りにして、テープを切る。
「記録……5.9秒!」
「おおーーっ!」
今度は男子がどよめいた。
ろくに部活をしていないのにこのスピード。やっぱり翔は別格だ。
「相変わらず運動神経いいな、翔は。」
ぱちぱち、と軽い拍手が起こる。
翔は呼吸を整えながら、ちらと二組の方へ視線を送った。
(さて、いい走りは見せた。裕香の反応は……?)
(……ふむ。他の女子みたいに黄色い悲鳴じゃなく、友達目線か。……くそ。)
***
続いて二組。男子が終わり、女子の番――。
「よーし! 三人とも、行ってくるわ!」
桐谷さんが張り切ってスタートラインへ向かう。
陸上部で全国経験者。その実力、どれほどのものか――。
パァン!
桐谷のスタートは軽快そのもの。地面を蹴るたびに加速していく走りは、一目で他と違うと分かる。
「記録……6.9秒!」
「おお〜!」
すごい……下手したら男の頃の俺より速いんじゃないか?
「ヒカ、すっごい速い!!」
「運動は本当に得意なのね。」
それでも桐谷はどこか不服そうに肩をすくめた。
「ありゃ〜、もっと行けたと思ったのに。」
(もっと……って、これで十分すごい記録だろ……)
***
次々と走者が交代し、やがて真桜の番になる。
「それじゃ、次、私〜!」
――パンッ!
「記録……7.1秒!」
「ありぃ?こんなもん?」
いや、“こんなもん”どころか十分速いんじゃないか? 基準が違いすぎる。
***
続いて白石。
「それじゃ、私ね。」
文学女子の走りやいかに――。
「記録……7.3秒!」
「やっぱり……運動は苦手!」
苦手って、このレベルから入るのか……。
三人とも基本スペックが高すぎてツッコミが追いつかない。
そんなことを考えていると――。
「私の番……。」
ついに、俺の名前が呼ばれる。
「ゆかっち、ファイトー!」
真桜さんの声援に背中を押されながら、足が自然とスタートラインへと向かっていった。
「うひぃ……」
やるだけやる。全力で――。
「ふぁ〜……全員終わるの長ぇなぁ、翔。」
「そうだな……って……!!」
ガバッ、と顔を上げ、裕香が走る姿を直視する翔。
(頑張れ……!裕香!)
「翔めちゃくちゃ反応してんな」
位置について――よーい。パンッ!
「うおぉぉ!」
俺はとにかく全力で駆け出した。
……お、おも……!ブラジャーをしてるのに胸が揺れる揺れる!
本当に、重心がブレて走りづらい!!。
身体もなんか弱くなってるの実感する…!
「記録、8.1秒!」
「ぜぇ……ぜぇ……」
(あぁぁぁぁぁ!タイム、かなり落ちてる〜……ショックだ……!)
ふらつきながら真桜たちの元へ戻る。
「お疲れ〜、ゆかっち。めっちゃ必死に走ってたよ!」
「あれじゃ走り方に無駄があるな!」
「お疲れさま。」
「うぅ……疲れた……。恥ずかしいし、もう帰りたい……」
***
体育は終了。再び更衣室へ。
入ってまず思ったのは男子の時と匂いがまるで違うこと。
甘い香りや爽やかな匂いが混ざり合っていて、普段から細かく気を遣っているのがよく分かる。
「やっぱりヒカは速いなぁ。」
「本当はもっと行けたんだけどな〜。真桜も良かったじゃん!」
そんな会話が飛び交う中、俺はササッと着替えて出ようとした――その瞬間。
ピンッ。
軽くシャツをつままれる。振り返ると真桜さんだった。
彼女は小声で囁く。
「ゆかっち、匂いはちゃんと気を遣ったほうがいいよ。あとメイクも直して。」
「……え?」
「細かいかもしれないけど、みんな普通にやってるから。結構大事だよ。」
言われて周囲を見渡すと――。
汗拭きシートでしっかり拭き取る子。
スプレーを念入りに振る子。
鏡を覗き込みながらメイクを直す子。
……そのまま着替えて帰ろうとしてるのは、俺ぐらいだった。
(男も全くしないわけじゃないけど……“見られてる”意識が全然違うんだな……)
俺も慌てて匂いケアをして、鏡の前でメイクを直した。
更衣室を出て、真桜さんと白石さんと一緒に教室へ戻る。
桐谷は「ちょっと会う人がいる」と別行動だ。
廊下を三人で歩きながらの雑談。
「レイちゃんも速かったなぁ。運動とかしてたの?」
「小学校の頃、ソフトボールを少しだけ。……真桜は?」
「私はなんか適当に!バスケとかテニスとか色々やった!わはは!」
……やっぱりハイスペックな会話は入り込みにくい。
そんなことを考えていたら、前から翔が歩いてきた。
「あ、兄ぃ〜! おつ〜!」
「真桜か。後ろにいるのは白石と……裕香か」
「翔くんお疲れ。そっか、真桜と翔くんは裕香さんの友達たったね」
「そうそう、従業員の娘さんだからね。裕香はもう学校慣れた?真桜とは仲良くやれてる?」
「そ…そうだね…ぼちぼち…一応友達してくれる…かな」
「ゆかっち、一応って〜!ショック!」
「あ、いや!そんなつもりじゃなくて……!」
「真桜がガツガツしすぎなのよ。」
白石が苦笑交じりに突っ込む。
「はは、真桜の友達は大変そうだな。」
今考えたら翔はともかく…真桜さんと俺が友達という設定
結構きついんじゃないのか…?
「そんじゃ、兄ぃまたね!」
「おーう。」
「翔くん、速かったね。すごかったよ。」
「あ、そりゃありがと。白石も結構速かったんじゃないか?」
……去り際に、あの白石さんと軽く褒め合っている。
イケメンはずるい。ほんとなんでもできちゃう。
別れ際、振り返ると翔もこちらを見ていて――。
だから俺は、軽く微笑んで小さく手を振った。
***
ドキッ!
(……あの去り際、可愛い……!)
(あぁ〜……いいな。みんなの前ではオドオドしてるのに、俺にだけ見せるあの感じ……堪らん。)
(裕香からも女子の香りがしてた。……女子になってきてるんだなぁ……はぁ……。)
翔は胸の内でそう噛みしめていた。
***
色々あったが、なんとかやり切って帰宅。
「はぁ〜……疲れた……。めちゃくちゃ身体に気を遣ってんだなぁ、女子って。」
思い返せば真桜のフォローがなければ、とっくに挫折していただろう。
全部覚えるのにどれくらいかかるのか……まだ想像もつかない。
――女子高生としての生活。
あまりにも覚えることが多すぎる。
その道のりは、まだまだ長い。




