夜長の窓辺で
夜が、長くなった。
それを、体が先に知るようになったのは、いつからだっただろうか。
私は、窓辺に座り、灯りを落として、外を見る。何も見えない。見えないことを、確かめるために、そうしている。
若いころは、夜は短かった。
やることが多く、考えることが多く、眠るのが惜しかった。夜は、次の日へ向かう途中にすぎなかった。
けれど、今は違う。
夜は、戻ってくる。
過ぎたものを、連れて。
窓の外には、森がある。
昔から、そこにある。
村ができる前から、あったと聞いている。私が生まれる前も、父が若いころも、そのさらに前も。
森は、変わらない。
そう、言われてきた。
私は、その言葉を、何度も語ってきた。
「森は、昔から、ああだった」
子どもたちに。
旅人に。
聞かれたときに。
けれど、最近、思う。
変わらない、という言葉ほど、便利で、曖昧なものはない。
窓辺で、私は、膝に手を置く。
指が、少し、こわばる。
老いは、急に来るものではない。
ひとつずつ、気づかないほどの差で、積もる。
語り部として、私は、長く生きてきた。
森の話を、村の話を、季節の話を。
自分が見たことだけでは、足りなかった。見ていないことも、受け取って、つなぐ必要があった。
だから、聞いた。
祖父から。
そのまた父から。
焚き火のそばで。
夜の長い日に。
こうして、夜が長くなると、自然と、声がよみがえる。
あのときの語り方。
間の取り方。
言葉を、あえて欠いた場所。
語られなかったことも、物語の一部だった。
私は、窓の外を見ながら、ひとつ、思い出す。
村と森が、はっきり分かれた夜のことを。
それは、昔話として、何度も語ってきた出来事だ。
けれど、語るたびに、少しずつ、違っていた。
最初に聞いた形。
途中で足した形。
削った形。
どれが、本当だったのか。
それとも、すべてが、本当だったのか。
語り部は、真実を語る仕事ではない。
覚えている形を、渡す仕事だ。
私は、そう教わった。
だから、正確さよりも、続くことを選んできた。
窓の外で、風が、木を揺らす。
葉が、擦れる音。
その音は、昔と、同じだ。
そう、言いたくなる。
けれど、私は、知っている。
同じ音に聞こえるのは、聞く側が、変わったからだ。
森は、少しずつ、変わっている。
村も。
人も。
語りも。
夜が長くなるほど、語る時間は、増える。
けれど、語れることは、減っていく。
覚えていないことが、増えるからだ。
私は、息を吐き、窓を少しだけ開けた。
冷たい空気が、部屋に入る。
森の匂い。
土と、葉と、時間の匂い。
この匂いを、私は、何度、言葉にしてきただろう。
それでも、毎回、違う。
語りは、記憶そのものではない。
記憶が、誰かの中で、生き直すための形だ。
だから、私は、今夜も、窓辺に座る。
だれも聞いていなくても。
森と村の話を、心の中で、なぞる。
忘れないためではない。
伝えられる形に、変わっていくのを、見届けるために。
私が、まだ若かったころの話だ。
語り部として名を呼ばれるより前、ただの村の一人だったころ。夜の話を、聞く側として座っていた。
あの夜も、長かった。
秋の終わりで、風が冷たく、焚き火の火が、何度も揺れた。火の向こうに、森の影があった。
祖父は、火のそばに座り、ゆっくりと、話し始めた。
声は低く、無駄な抑揚がなかった。だからこそ、耳を澄ませずにはいられなかった。
「昔、森と村は、もっと近かった」
祖父は、そう言った。
距離の話ではない。
行き来の話だ。
村の子どもは、森で遊び、森の音を覚え、迷いながら戻ってきた。森は、境ではなく、延長だった。
変わったのは、ある冬だったという。
雪が、深く、長く残った年。
食べ物が足りず、村人は、森へ入った。
木を切り、獣を追い、いつもより奥まで踏み込んだ。
森は、黙っていた。
それが、よくなかった。
森は、怒るときも、騒がない。
ただ、変わる。
雪解けのあと、道が、消えた。
昨日まで通っていたはずの場所で、迷う人が出た。音が、違った。風の向きが、定まらなかった。
そして、帰ってこない者が、出た。
祖父は、名前を言わなかった。
名前を言うと、物語が、重くなりすぎるからだ。
その夜、村は、決めた。
森と、距離を置く、と。
柵を立て、道を決め、入る場所を限った。
森は、変わらなかった。
変わったのは、村のほうだった。
祖父は、そう締めくくった。
私は、焚き火を見つめながら、怖さよりも、不思議さを覚えていた。
森が、怒らなかったことが。
何も言わずに、境を受け入れたことが。
祖父は、最後に、こう言った。
「だから、語るんだ」
なぜ、という問いは、必要なかった。
語らなければ、境は、ただの恐怖になる。
語れば、選んだ理由になる。
私は、その言葉を、胸にしまった。
語り部になるとは、その続きを、引き受けることだ。
正しく語ることではない。
覚えている形で、渡すことだ。
窓辺に戻る。
今の私は、祖父の年を越えた。
けれど、語りは、終わらない。
森と村は、今も、並んでいる。
距離は、ある。
けれど、忘れられてはいない。
だから、夜が長い。
語る時間が、必要だからだ。
私は、窓の外の闇に向かって、声にならない声で、語りかける。
聞く者が、いなくても。
記憶は、伝えられることで、生きる。
夜は、まだ、終わらない。
灯りの油は減っているが、消す気にはなれなかった。暗くするには、少し、考えすぎている。
私は、窓辺で、ひとつ、語らなかった話を思い出す。
森と村が、距離を置いたあとも、人は、森へ入った。
それは、語ってきた。
けれど、だれが、最初に、もう一度、深く踏み込んだのか。
その話は、語らなかった。
理由は、単純だ。
それが、私だったからだ。
若かった。
境が決められ、道が限られ、森が「遠く」なったころ、私は、それが、気に入らなかった。
恐れによって、場所を決めることが。
語りによって、距離を正当化することが。
だから、入った。
冬ではなかった。
雪も、深くなかった。
十分に、準備もしていた。
だから、大丈夫だと、思った。
森は、何も言わなかった。
それは、祖父の話と、同じだった。
けれど、奥へ進むほど、音が、減った。
鳥の声が、途切れ、足音だけが、残った。
戻ろうとしたとき、道が、分からなくなった。
完全に、ではない。
知っているはずの感覚が、ずれていた。
私は、立ち止まり、息を整えた。
そのとき、森の中で、誰かが、私を呼んだ。
声ではなかった。
名前でもなかった。
ただ、「ここだ」という方向だけが、胸に届いた。
私は、そちらへ進み、気づけば、境に立っていた。
村が、見えた。
森は、私を、追い返したわけではない。
選ばせたのだ。
戻るか、さらに入るか。
私は、戻った。
その選択を、私は、語らなかった。
語れば、私が、特別な存在になってしまう。
森に、選ばれた者のように。
それは、違う。
森は、だれにでも、同じだ。
人が、選ぶだけだ。
だから、私は、黙っていた。
語り部として、すべてを語らないことも、仕事だと思った。
けれど、今は、少し、違う。
夜が長くなり、覚えていられる時間が、短くなった。
語らなかったことは、消えてしまう。
それは、記憶ではなく、断絶だ。
私は、窓辺から、立ち上がった。
部屋の隅に、古い椅子がある。そこに、若い者が、時々、座る。
まだ、語りを引き受けるとは言っていない。
けれど、聞く姿勢を、持っている。
それで、十分だ。
語りは、選ばせるものではない。
残るものに、渡る。
私は、明日の夜、この話をするだろう。
私が、森に入ったこと。
戻ったこと。
何も、特別ではなかったこと。
森は、今も、黙っている。
村は、今も、そばにある。
語りは、記憶より、少し遅れて進む。
だから、夜は、長い。
忘れる前に、渡すために。
私は、灯りを消し、窓を閉めた。
闇の中で、森の気配が、確かにあった。
それを、言葉にせず、胸に置く。
それもまた、伝承の一部だ。




