嘘を食べる鹿
少女は、嘘をつくことに、もう慣れていた。
朝、「大丈夫」と言う。昼、「気にしてない」と言う。夜、「平気」と言う。
そのどれもが、少しずつ違う嘘だった。
大きくも、小さくもない。だれかをだますためというより、形を整えるための嘘だ。言葉をそう置いておけば、場が崩れない。空気が乱れない。
だから、少女は、嘘をつく。
それは、選択というより、習慣だった。
森へ来るときも、同じだった。
「散歩」
そう言って、家を出た。
本当は、行き先など決めていなかった。ただ、森に入れば、言葉を使わなくてすむ気がした。
秋の森は、静かだった。
葉の色は落ち着き、風は低く、足音も、夏ほど響かない。歩くたび、地面が受け止めてくれる。
少女は、深く息を吸った。
ここでは、何も言わなくていい。
そう思った、そのときだった。
視線の先で、何かが動いた。
鹿だ。
細い脚、濡れたような目、静かに揺れる耳。少女は、足を止めた。鹿も、止まる。
互いに、動かない。
鹿は、逃げなかった。
そのかわり、首をかしげる。
少女の胸が、少し、ざわついた。
鹿が、こちらを見ている。
ただ見ているだけなのに、言葉を測られている気がした。
鹿は、近づいてくる。
一歩ずつ、慎重に。
少女は、後ずさりしなかった。
理由は分からない。ただ、ここで逃げたら、何かを置いていく気がした。
鹿は、少女の前で、立ち止まった。
距離は、近い。
吐く息が、白く混じる。
鹿の鼻先が、少女の胸のあたりで、ひくりと動いた。
嗅がれている。
匂いではない。
言葉を。
そう思った瞬間、鹿は、口を開いた。
もちろん、声は出ない。
けれど、確かに、何かを探す仕草だった。
少女は、思わず、言った。
「……大丈夫」
いつもの言葉。
鹿の動きが、止まった。
次の瞬間、鹿は、首を振った。
拒むように。
そして、足元の落ち葉を一枚、口に含む。
噛む。
吐き出す。
また、首を振る。
少女は、息をのんだ。
鹿は、落ち葉を食べない。
そう聞いていた。
なのに、この鹿は、何かを選んでいる。
少女は、胸の奥が、少し、重くなるのを感じた。
「……平気」
もう一度、言った。
鹿は、今度は、はっきりと、背を向けた。
そして、地面に落ちている、何もない場所を、噛んだ。
何もないはずの場所を。
噛みしめるように。
次の瞬間、鹿の口元が、かすかに歪む。
それは、満足でも、不満でもない。
重さを、受け取った顔だった。
少女は、動けなかった。
鹿は、こちらを振り返る。
その目は、静かだった。
問いかけも、責めもない。
ただ、知っている、という目だった。
この鹿は、嘘を食べる。
そう、直感した。
落ち葉でも、草でもない。
言葉の形をしたものを。
鹿は、もう一度、鼻を鳴らし、森の奥へ歩き出す。
少女は、後を追わなかった。
足が、動かなかった。
胸に、言葉が詰まっている。
今まで、吐き出してきた嘘が、ここに残っている気がした。
森は、静かだ。
けれど、少女の中では、言葉が、重さを持ち始めていた。
鹿が去ったあと、森は、何も変わらなかった。
風は、いつものように葉を揺らし、地面は、変わらず柔らかい。けれど、少女の胸の奥では、何かが、確かに、増えていた。
重さだ。
形はないのに、はっきりと分かる。
少女は、その場に立ち尽くしたまま、両手を見た。
何も、持っていない。
それなのに、指先が、少し、しびれている。
嘘は、消えていなかった。
鹿が食べたのは、嘘そのものではない。吐き出された言葉の殻だ。
少女は、そう思った。
本当の嘘は、胸に残る。
だから、重い。
少女は、歩き出した。
さっき鹿が噛んでいた場所を、探す。何もないはずの地面だ。落ち葉も、枝も、石もない。
けれど、確かに、そこは、少し凹んでいる。
誰かが、立ち止まった跡。
言葉が、落ちた跡。
少女は、そこに立った。
胸に、詰まっている言葉を、思い浮かべる。
朝の「大丈夫」。
昼の「気にしてない」。
夜の「平気」。
どれも、同じ形をしているのに、違う嘘だ。
それぞれ、守ろうとしたものが、違う。
朝は、家族を。
昼は、友だちを。
夜は、自分を。
守るための嘘は、軽いと思っていた。
けれど、軽いものは、積もる。
積もると、重くなる。
少女は、喉を鳴らした。
ここで、本当のことを言えば、どうなるのだろう。
鹿は、戻ってくるだろうか。
それとも、何も食べずに、去るのだろうか。
少女は、息を吸った。
そして、声を出した。
「……怖い」
短い言葉だった。
飾りも、説明もない。
ただ、今、胸にあるもの。
風が、止まる。
そんな気がした。
森は、音を失わない。
けれど、聞く側が、静まった。
少女の胸の奥で、何かが、少し、軽くなる。
嘘ではない言葉は、食べられない。
鹿は、現れなかった。
それでいい、と、少女は思った。
嘘を、食べさせないという選択も、ある。
けれど、まだ、全部は、言えない。
怖い、の先が、ある。
そこへ行くには、もう少し、時間がいる。
少女は、また歩き出した。
今度は、言葉を、ひとつ、胸に抱えたまま。
落とさないように。
食べさせないように。
森の奥で、枝が折れる音がした。
鹿かもしれない。
違うかもしれない。
どちらでも、少女は、歩く。
言葉は、軽くも、重くもなる。
どこに置くかで。
森は、夕暮れに近づいていた。
光は低く、木々の影は長い。足元の落ち葉が、昼とは違う色に沈んでいる。
少女は、歩きながら、自分の中の言葉を数えていた。
数えたいわけではない。
ただ、いくつあるのか、知りたかった。
嘘は、多い。
思い出そうとすれば、いくらでも出てくる。声に出したものも、出さなかったものもある。
けれど、そのすべてが、同じ重さではない。
少女は、足を止めた。
また、鹿がいた。
今度は、少し離れた場所だ。木と木のあいだ、影の中に立っている。こちらを、まっすぐ見ている。
逃げない。
近づきもしない。
待っている。
少女は、ゆっくりと、鹿のほうを向いた。
胸が、重い。
さっきよりも、はっきりと。
嘘を食べる鹿は、重さを測る。
少女は、そう理解していた。
だから、軽い嘘は、食べられない。
重くなった嘘だけが、口に入る。
鹿は、一歩、前に出た。
少女も、一歩、前に出る。
距離が、縮まる。
少女は、息を吸った。
言葉を、選ぶ。
選ばなければ、重さは、定まらない。
「……行きたくなかった」
声が、揺れた。
鹿の耳が、ぴくりと動く。
「……言いたくなかった」
もう一歩。
「……嫌われるのが、怖かった」
言葉が、落ちる。
地面に、ではない。
胸の外へ。
鹿は、首を下げた。
そして、何もない空間を、噛む。
ゆっくりと。
噛みしめるように。
少女は、目を閉じた。
嘘が、外へ出ていく感覚がした。
すべてではない。
けれど、確かに、ひとつ。
胸の重さが、少しだけ、動く。
鹿は、噛み終えると、首を上げた。
その目は、変わらない。
評価も、同情もない。
ただ、受け取った、という静けさだけがある。
少女は、目を開けた。
嘘は、消えていない。
けれど、形が変わった。
もう、吐き出さなくていい嘘と、吐き出してはいけない本当のことが、分かれ始めている。
鹿は、もう一度、こちらを見る。
少女は、言葉を探した。
本当のことを、全部、言うことはできない。
でも、嘘を、全部、抱え続けることも、もう、できない。
少女は、静かに言った。
「……まだ、言えないことも、ある」
鹿は、何も食べなかった。
それでいい。
それは、嘘ではない。
準備の言葉だ。
鹿は、満足したようでも、空腹なようでもなかった。
ただ、森の奥へ、向きを変える。
去り際、鹿は、一度だけ、振り返った。
少女の目を、確かめるように。
それから、影に溶ける。
森は、また、静かになる。
少女は、そこに立ち、胸に手を当てた。
言葉は、重い。
でも、その重さは、罰ではない。
選ぶための、感覚だ。
嘘をつかない、ということではない。
嘘を、無自覚に吐かない、ということだ。
少女は、歩き出した。
家へ、ではない。
外へ、でもない。
今いる場所を、きちんと踏みしめながら。
鹿は、もう、見えない。
けれど、少女は、知っている。
また、嘘が重くなったら、森のどこかで、あの鹿は、待っている。
言葉の重さを、測るために。




