落ち葉の数え歌
その子は、何でも数えずにはいられなかった。
朝、目を覚ますと、天井の板の数を数える。家を出ると、石段の段数を確かめる。歩きながら、呼吸の回数を心の中で追いかける。
一、二、三。
四、五、六。
数えると、世界は落ち着いた。次が分かる。終わりが見える。取りこぼすものが、なくなる。
だから、その子は、数える。
だれに言われたわけでもない。ただ、そうしないと、不安が増えるのだ。
秋が来て、木々の色が変わり始めても、その子は数え続けた。
赤くなった葉の数。
黄色に変わった枝の数。
昨日より増えた分と、減った分。
けれど、ある朝、その子は立ち止まった。
道が、見えなくなっていた。
落ち葉が、積もっている。
風に吹かれ、重なり、端からほどけ、地面を覆っている。いつもなら、避けて歩く場所だ。踏むと音が変わり、数が乱れる。
その子は、しゃがみこんだ。
一枚ずつ、見ていく。
一。
二。
三。
指先で触れ、形を確かめ、色を確かめる。けれど、数えているそばから、風が吹く。
葉が、動く。
数えたはずの葉が、重なり、離れ、位置を変える。
「……待って」
思わず、声が出た。
けれど、落ち葉は待たない。
数は、すぐにずれる。
胸の奥が、ざわつく。
その子は、息を整え、もう一度、最初から数え直そうとした。
けれど、そのとき、別の音が聞こえた。
小さな、歌のような音だ。
風に混じって、途切れ途切れに届く。
数え歌だった。
一、ではなく。
二、でもなく。
音の並びだけが、続いている。
その子は、顔を上げた。
落ち葉の向こう、木の根元に、だれかが座っている。
年は分からない。大きくも、小さくもない。落ち葉と同じ色の服を着ているせいで、輪郭が、はっきりしない。
その人は、葉を踏みしめながら、歌っていた。
数えられない歌だ。
繰り返しはある。けれど、同じところに戻らない。
「……それ、何番?」
その子が聞くと、相手は、歌を止めた。
「分からない」
そう言って、首をかしげる。
「途中から、分からなくなった」
その子の胸が、きゅっと縮む。
分からない、という言葉は、怖い。
終わりが、見えなくなるからだ。
「数えないの?」
思わず、そう聞いた。
相手は、落ち葉を一枚、拾い上げる。
くるりと回し、光に透かし、それから地面に戻す。
「前は、数えてた」
「じゃあ、今は?」
「今は、数えない」
その言い方は、諦めでも、強がりでもなかった。
ただ、選んだ、という響きだった。
風が、また吹く。
落ち葉が、舞う。
数は、完全に分からなくなった。
その子は、喉の奥が、ひりつくのを感じた。
数えられないものが、ここにある。
しかも、それは、増え続けている。
相手は、また歌い始めた。
数え歌ではあるけれど、数は含まれない。
落ち葉が、音を立てる。
その子は、立ち上がれなかった。
数えない、ということを、まだ、知らないからだ。
その子は、落ち葉の上に座りこんだまま、しばらく動けなかった。
数えようとすると、胸がざわつく。数えないでいようとすると、もっと落ち着かなくなる。どちらを選んでも、居場所が定まらない。
風が吹くたび、葉が重なり、数が変わる。
変わってしまう数。
その事実が、こんなにも怖いとは、知らなかった。
「どうして、数えるの?」
落ち葉色の服の人が、唐突に聞いた。
その子は、答えを探した。
ずっと、当たり前にやってきたことだ。理由を考えたことは、ない。
「……忘れないため」
やっと、そう言った。
「何を?」
「……なくなるもの」
声が、小さくなる。
その子は、数えながら、守ってきた。
数えれば、終わりが分かる。終わりが分かれば、心の準備ができる。消えてしまう前に、確かにあったことを、胸に残せる。
だから、数える。
相手は、うなずいた。
「落ち葉も?」
その子は、言葉に詰まった。
落ち葉は、毎年、落ちる。数えなくても、また出会う。分かっているのに、胸の奥は、納得しない。
「全部」
その子は、そう答えた。
相手は、しばらく黙っていた。
やがて、落ち葉を一枚、指ではじく。
葉は、くるりと回って、別の場所に落ちる。
「それ、何番だった?」
聞かれて、その子は、息をのんだ。
分からない。
さっきまで、数えていたはずなのに。
胸が、きゅっと縮む。
「……分からない」
声が、震えた。
相手は、微笑んだ。
慰めるようでも、試すようでもない。
「それでも、落ち葉は、そこにある」
その言葉は、静かだった。
その子は、足元を見る。
確かに、落ち葉は、ある。
数えられなくても、消えてはいない。
けれど、安心は、できなかった。
数えないと、見失いそうになる。
自分が。
「歌ってみる?」
落ち葉色の人が言った。
「数え歌?」
「ううん。数えない歌」
その子は、首を振った。
歌は、苦手だ。始まりと終わりが、はっきりしない。途中で、どこにいるのか、分からなくなる。
「大丈夫」
相手は、落ち葉を踏みしめながら、歌い始めた。
音は、短く、途切れ途切れだ。
同じ旋律が、何度も戻ってくる。けれど、同じ場所には、いない。
風と、葉と、足音が、混ざる。
その子は、思わず、耳を澄ました。
数を追わなくても、流れが分かる。
次が、なんとなく、来る。
それは、数とは違う予測だった。
胸の奥が、少しだけ、緩む。
その子は、気づいた。
数えることは、手放すための準備でもあったが、同時に、しがみつく方法でもあった。
どちらを選ぶかは、まだ、決められない。
落ち葉色の人は、歌を止めた。
「全部、数えなくてもいい」
その子は、うつむいた。
「……できない」
「今は、ね」
その言葉に、時間が含まれていた。
今は、数える。
いつか、手放す。
落ち葉が、また一枚、舞い落ちる。
その音を、その子は、初めて、数えずに聞いた。
夕方になり、森の空気が、少し冷えた。
落ち葉の色が、影の中で深くなる。赤は暗く、黄は鈍く、茶は土と溶け合う。
その子は、まだ、その場にいた。
数えることも、数えないことも、決めきれずに。
落ち葉色の人は、立ち上がり、森の奥を指さした。
「向こうは、もっと積もってる」
その子は、反射的に身構えた。
数えきれない、と分かっている場所だ。
「行かなくてもいい」
相手は、そう言ってから、続けた。
「でも、行ってもいい」
選択だった。
正しさではなく、逃げでもなく。
その子は、しばらく考え、それから、立ち上がった。
足を出す。
落ち葉が、鳴る。
数えないまま、鳴る。
一歩、また一歩。
葉は、音を立てて割れ、沈み、ずれる。どこからどこまでが、何枚なのか、分からない。
胸が、ざわつく。
けれど、その子は、立ち止まらなかった。
奥へ進むほど、落ち葉は深くなる。
足首まで埋まり、歩くたびに、別の形になる。さっき見た場所が、もう違っている。
その子は、息を吸った。
数えられない。
数えきれない。
でも、そのとき気づいた。
数えないからといって、忘れているわけではない。
踏んだ感触。
鳴った音。
色の重なり。
それらは、数にならなくても、胸に残っている。
「……歌」
小さく、声が漏れた。
落ち葉色の人が、振り返る。
「歌う?」
その子は、うなずいた。
旋律は、知らない。
言葉も、決めていない。
ただ、息を吐くように、音を出す。
短く、揺れる音。
風と、葉と、足音が、混ざる。
数え歌ではない。
でも、ばらばらでもない。
途中で止まっても、失敗ではない。
その子は、初めて、終わりを気にせず、声を出した。
落ち葉色の人は、いつのまにか、歌うのをやめていた。
その子だけの歌が、森に残る。
やがて、声が、自然に止まる。
その子は、胸に手を当てた。
不安は、まだある。
数えたい気持ちも、消えていない。
けれど、ひとつ、手放した。
全部を、つかまえなくてもいい、という考えを。
「また、数えるよ」
その子は、正直に言った。
「うん」
落ち葉色の人は、否定しない。
「でも、全部じゃない」
その言葉に、その子は、少し驚いた。
自分の口から出た言葉だったからだ。
森を出るころ、夕暮れは、夜に変わり始めていた。
落ち葉は、まだ、数えきれないほどある。
これからも、増える。
それでも、その子は、歩ける。
数えながら。
ときどき、歌いながら。
落ち葉の数え歌は、終わらない。
終わらないからこそ、抱えなくていい。
その子は、初めて、それを選んだ。




